「中国ネオ・スターリン主義」という規定への2014年時点での批判――組織指導部は今もってこれに答えず

 〔「中国ネオ・スターリン主義」という規定にたいして、私は2014年の時点においてさらに批判し、その文書を意見書として提出した。これにたいして、組織指導部は今もって答えていない。沈黙し、黙殺したままなのである。この規定とそれへの私の批判は、〈反帝国主義反スターリン主義〉世界革命戦略を基礎づけるための、中国の党および国家ならびにイデオロギーの分析にかかわるものなのである。この論争、まさに世界革命戦略をめぐる論争から逃げまわるための「革マル派」現指導部の言辞が、わが探究派への「反革命」というレッテルなのである。
 すべての革命的マルクス主義者たらんとする者は、世界革命戦略にかんするこの対立にどういう態度をとるのかが問われている、と私は考えるのであるが、どうだろうか。
        2022年8月4日   松代秀樹〕

 

 

 「中国ネオ・スターリン主義」という規定が一年ぶりにもちだされたのはなぜか


 二〇一四年の「解放」第二新年号(第二三〇一号)に掲載された「中国ネオ・スターリン主義 破滅への突進」と題する水木章子論文において、今日の中国の党および国家にはりつけられた「ネオ・スターリン主義」というレッテル、このシンボルが、一年ぶりにもちだされた。しまいこまれていたこの用語がこの論文でだけ用いられた、というのは、いったいどういうことなのであろうか。
 二〇一三年の新年号の諸論文において、このシンボルが大々的に打ち上げられた。けれども、そのあとは、この言葉はぱったりと姿を見せなくなった。こっそりとしりぞけられたのであろう。
 二〇一四年の第一新年号のトップ論文をはじめとして第二新年号までの他の諸論文では、この用語は用いられていない。水木論文と同じ号にのっている中央学生組織委員会論文では、次のように書かれているだけである。
 「同時にわれわれは、習近平中国が「防空識別圏」を設定し軍事挑発を強めていること、反人民的な核軍事力増強をおしすすめていることに断固として反対するのでなければならない。われわれは、中国の労働者・人民にたいして、中華ナショナリズムを煽りたてながら戦争政策をおしすすめている北京官僚政府にたいする反戦の闘いに起ちあがることを呼びかけようではないか。」
 もしも諸論文においてトーンを一致させるのであるならば、理論外的に当該の規定をもちこんで「ネオ・スターリン主義北京官僚政府」と表現してもよいようなものであるが、そのようにさえもなされてはいない。国際・国内情勢を具体的に分析し、みずからの個別的・具体的な任務・方針をうちだす、というさいには、そのような規定は関係がない、そうした規定を省みることはない、ということであろう。これにたいして、中国共産党十八期三中全会でうちだされたものというような、北京官僚の主張そのものを分析し批判する、というさいには、そうした規定をもちだすことなしにはこれをなしえない、ということなのであろう。取っ組んでいる相手とその主張を、スターリン主義という大枠に属するもの、というように枠にはめこまないことには、すなわちあらかじめそのような加工をほどこさないことには、それの分析も暴露も批判もできない、ということなのであろう。
 一年前に、水木論文の筆者は、党組織最高指導者の御用学者となることによって、理論家としての生命をみずから絶った。今この論文を書いた筆者は、一年前の亡霊である。この地面、この大地に自分の足で立ってはいない幽霊である。こう言えよう。
 次のように書かれている。
 「今日、習近平らを国家安全委員会設置につきうごかしているものもまた、彼らスターリン主義官僚の官僚的特殊利害の防衛であり、官僚的専制支配体制の護持である。」
 「党=国家官僚が、彼らの官僚的利害を経済建設において実現するための拠点は、やはり、この戦略部門の国有企業なのである。」
 「中国ネオ・スターリン主義党官僚がその無思想・没理論を深めれば深めるほど、彼らはその官僚的=特殊的利害を剝きだしにして人民に向かってくるだろうことを、勤労人民は直観的に知っている。」
 ここに言う「官僚的特殊利害」とはいったい何なのであろうか。その中身はどのようなものなのであろうか。「官僚的特殊利害」というかぎり、それは、その主体たる「中国ネオ・スターリン主義党官僚」と呼称されている者たちがよってもってたっているその物質的基礎との関係において明らかにされなければならない。けれども、そのような分析がなされていないどころか、その中身の説明もなされてはいない。文脈からするかぎりでは、その中身は、「官僚的専制支配体制の護持」という政治的なものに限られているようにも読める。しかし、「彼らの官僚的利害を経済建設において実現するため」とされていることからするならば、この表現は、先の政治的なものを実現するための経済建設、というようにも理解しうるし、あるいはまたこの利害には経済的なものもふくまれる、というようにも読める。いずれにしても、彼らの経済的利害にかんしては明らかにされていない。
 他面からいうならば、「官僚的特殊利害」を貫徹し享受する主体とされる「中国ネオ・スターリン主義党官僚」とは、党中央官僚であると同時に国家官僚であるところの諸個人のみをさし、彼らがその権限を行使し便宜をはかりつつその妻や子供たちなど彼らの家族員が私営企業の経営者などとなって暴利をむさぼっているところの一族をさすのではないのであろうか。また、ここに言う「官僚」には、国有企業やその他の株式制企業の経営者・管理者であると同時に党官僚ないし党員であるところの人物はふくまれないのであろうか。中核的な国有企業などの経営者は党中央委員あるいはその候補になっているにもかかわらず、である。さらには、こうした人物が国家諸機関の官僚にのしあがっているにもかかわらず、である。こうしたことからするならば、党=国家官僚どもは、総体として、国家資本ないしその他の諸資本の人格化をなし、こうした諸企業で働いている労働者たちは賃労働の人格化をなす、といえるのである。党官僚や党員が、党組織の担い手であるままで、もろもろの形態の諸企業の経営者や彼らを代弁する国家諸機関の官僚となっている、ということが、中国の独自性をなすのであって、彼らの特殊利害とは、彼らがその人格化をなすところの資本そのものの利害にほかならない。それは価値増殖そのものなのである。
 だから、彼らやその御用学者にたいして、「習近平らじしんが〝コレは資本主義だ〟と言っているに等しい論を披瀝している。このことに気づくこともできなくなっているだけなのである」とか、「盲目的に貫徹する価値法則を政府の政策によって統御するというのは白昼夢でしかない。物化された経済の法則としての価値法則を、人間が利用したり制御したりすることはできないのである。それは廃棄される以外にない」とか、と批判するのは、みずからが相対している者どもを美化するものでしかない。こうした批判を、スターリンその人および彼の理論の正統な継承者にあびせかけるのであるならば、それは正しい。だが、習近平らをこのように批判するのは、彼らの主張をあらかじめスターリンの理論の枠のなかに無理やり押しこんだうえで、つまりおのれの対象を自分の頭のなかで加工しゆがめる、という観念的操作をやっておいたうえで、自分がこしらえあげたこの観念的像をやっつける、というものでしかない。習近平らは、もはや、このようなかたちで問題にする相手ではないのである。彼らは、価値法則をその外側から統御しようとしているのではなく、彼ら自身が資本の人格化として価値法則の一実体をなすのだからである。習近平らの論は、自分たちがこうした社会経済的存在であることを正当化するためのイデオロギーであり、自分たちがそうした存在であることを労働者・勤労大衆からおおい隠すための言辞なのである。
 次のような批判もまたそうである。
 「制度づくり・法規整備・マニュアルづくりを言っているだけで、生きた人間・何らかの思想をもった党員・腐敗行為に走ったり享楽にふけったりする共産党員についてすこしも考えようとしていないのだからだ。党員の質、その思想の内実を問わない、いや、問えないのだからだ。担い手・人間をぬかして「仕組み」づくりにうつつを抜かすのは、愚かなことである。」
 これは、党員である生きた人間とは、労働者や農民であるかのように想定した批判である。つまり、今日の中国共産党が労働者や農民の党員によって構成されているかのようにみなした批判である。そうでなければ、党員の質、その思想の内実を問う、と言っても意味がない。だが、中国共産党員という政治的獅子の皮をかぶったところの生きた人間、生身の人間とは、マルクスの言う銀行家や将軍と同じ存在なのである。すなわち、党員の主要な部分は、すでにのべたように、国有企業やその他の諸企業の経営者・管理者なのであり、また各級の地方政府を経済的に機能させたり、その政府のもとに諸企業を設立したりしているところの党書記なのである。彼らの意志とは、彼らというかたちで人格的表現をとっているところの資本の意志であり、彼らの思想とは、自己の企業や自己の地方政府の利益を追求し貫徹するための思想である。もしもこうしたことを前提としておさえたうえで、習近平にわが身をうつしいれ、彼の主張を問題にしているのだ、というのであるならば、右の批判が実際に意味するものは、習近平に次のように説教しているものとなる。すなわち、同時に経営者である党員は、資本の人格化として正当なかたちで、つまり労働者を徹底的に搾取するというかたちで、自己の資本の増殖をはかるべきであって、腐敗行為に走ってはならず、また、官僚資本家として、自企業の利潤のなかから自己の所得をえるべきであって、これとは別の享楽にふけってはならない、というように「党員の質」を問うていないのはおかしい、と。こんなことを習近平に説教してもしかたがない。いや、こんな説教は反労働者的である。筆者は、こういうことを自覚して書いているのではないであろう。右のような批判は、今日の中国共産党を、労働者・農民の党員によって構成されるところの前衛党のスターリン主義的疎外形態とみなしたかぎりにおいて、通用するものにすぎない。批判する対象をあらかじめ加工しておかなければ、その批判は妥当しないのである。
 次のような批判は、何を情けながっているのであろうか。
 「たとえ「批判と自己批判」という語を使ったとしても、「思想改造」ということを理解さえできない無思想ぶりを、習近平らはさらけだしている。「市場経済」についても「民主主義」についても、ブルジョアイデオロギーに完全に膝を屈し、情けないほどの没イデオロギーぶりをしめしているのが彼らだ。中国ネオ・スターリン主義官僚のイデオロギー的溶解・凄まじいまでの無思想・理論的空洞化、これは、鄧小平が鼓吹した「思想の解放」――中国版「脱イデオロギー(化)」――の必然的帰結にほかならない。」
 これは、筆者自身の、没イデオロギーぶり、いや物質的現実そのものからの昇天ぶり、唯物論的思惟からの乖離をしめしているのではないだろうか。筆者は、自分自身の論理的思考の溶解・凄まじいまでの自己の認識=思惟作用の空洞化をこそ省みるべきではないだろうか。
             二〇一四年一月十三日