「党物神崇拝」の克服とは?

 唯圓氏「KKの幼児退行と鶴巻派佞臣の相互浸透」論

          について

 

(一)「メタモルフォーゼ」――問題の所在

 

 当ブログに掲載された「唯圓」氏(以下、「氏」と略す場合がある。)の「メタモルフォーゼ」問題に関する寄稿文(続編)「KKの幼児退行と鶴巻派佞臣(註1)の相互浸透」を読んで、私が学ぶことは多かった。旺盛な探究心にもとづく氏の「メタモルフォーゼ」問題についての点検は、反スターリン主義運動の前進をはかる立場にたつかぎり、歴史的な意義をもつ、と私は考える。それ自身が、直接的に反スタ理論の創造的発展を意味するものではないとしても、今日の「革マル派(註2)の変質と対決し、その思想的=組織的根源を暴き出すという避けて通ることの出来ない課題にとって極めて貴重な資料を提供するものとなっているからである。氏の尽力を多としたい。(なお、氏の点検は「メタモルフォーゼ」問題にとどまるものではないが、ここでは「メタモルフォーゼ」問題に限って言及する。)

 

(註1)鶴巻派:「革マル派」の本部事務所(解放社)が新宿区早稲田鶴巻町にあることから、またこぶし書房も発足時には同所にあったことから「革マル派」中央指導部をこう呼ぶ。唯圓氏独自の造語である。
 佞臣:「ネイシン」と読む。広辞苑によれば「佞奸な臣。へつらう臣。」
(註2)革マル派」:「 」をつけるのは、〈黒田教団〉へと転落した〈もはや革マル派とは言えない自称革マル派〉を表すためである。

 

  「メタモルフォーゼ」をめぐる歴史的経緯

 

 まずは、氏自身の寄稿文「青恥・赤恥・頬かむり」(当ブログ掲載〔一月二六日~三一日〕)に引き続いて、続篇「相互浸透」でも、氏自身の実体験にもとづいて明らかにされた「メタモルフォーゼ」に関する留意点について(さらにまた私自身の認識をも加味して)整理する。

① 一九七五年発行の『変革の哲学』(こぶし書房)では、著作上では初めて「メタモルフォーゼ」の記述が見られること(一一六頁)。

② 一九八九年六月刊行の『資本論入門』では、マルクスの叙述を紹介して、「姿態(ゲシュタルト)転換」としていること(一九〇頁)。

③ 一九九一年九月に刊行された『覺圓式アントロポロギー』所収の「ウンコロジー」(これには、「一九八七年三月二日」の日付がある。)では、「この生物有機体に普遍的に妥当する法則がメタモルフォーゼ」とされている(一八頁)。「アテハメオロジー」(これには、「一九八七年三月二三日」という日付がある。いずれも一九八七年に、革マル派機関紙「解放」に掲載されたものであろう。)そこには「特定個人の生物有機体のメタモルフォーゼがどのように攪乱されたり身体機能が故障したり」というような記述があり(八五頁)、これは「さっきメタモルフォーゼといったが」というように再確認されてもいる(八六頁)。

④ 一九九三年三月刊行の『宇野経済学方法論批判』(こぶし書房の改版)「あとがき」では、「『資本論』第一巻第三篇第五章の叙述のなかの労働過程の一般的諸規定(「自然と人間とのメタモルフォーゼ」の本質論)」とされていること(四九六頁)。

⑤ 一九九四年四月に刊行された『社会の弁証法』では、「物質代謝(メタモルフォーゼ)」、「マルクスが「自然と人間との間のメタモルフォーゼ」というように労働過程を根源的に規定している」、「労働過程(または生産的実践)は、メタモルフォーゼの社会的形態である」等の叙述が見られ(一二九~一三〇頁)、「質料転換」という語には「メタモルフォーゼ」というルビが付された(一三二頁)。
 「メタモルフォーゼ」は『社会観の探求』(一九六一年執筆)にはまったくなかったものである。

⑥ 一九九八年一月に刊行された『変革の哲学』の英語版としての『 Praxiology 』では、「metamorphose 」ではなく、「Stoffwechsels」 と「metabolism」 が用いられいる(四五、四六頁)。

⑦ 一九九八年一一月刊行の『 Essential Terms of Revolutionary Marxism (革マル主義術語集)』では、日本語では「メタボリズム(新陳代謝、同化と異化)」(二四五頁)、英語では「 metabolism 」、ドイツ語としては「 Stoffwechsel 」(二四四頁)というように正しく記されている。

⑧ 二〇〇三年八月刊行の『社会の弁証法』の英語版『 Dialectics of Society 』では、⑤の当該箇所は、「metabolism」「metabolic interaction」とされている(一二五、一二八頁)。

⑨ 二〇二一年一月刊行の『黒田寛一著作集』第二巻(KK書房)としての『社会の弁証法』では、一九九四年の同書の初版とまったく同様であり、「物質代謝(メタモルフォーゼ)」等の記述はそのまま維持され(一一一頁)、「質料転換」に付された「メタモルフォーゼ」のルビもまたそのまま再現されている(一一三頁)。

 

 このような経緯は、唯圓氏の精力的な理論探求の過程で丹念な追跡を通じて明らかにされたものである。私自身は、ドイツ語を学んでいた一九八〇年代末に初めて関心を抱いたのみであり、また氏のような全面的な吟味はしてこなかったので、大いに勉強させていただいた。〔なお、私・佐久間の記憶している事実として、一九六〇年代の同志黒田の講演のなかに「メタモルフォーゼ=新陳代謝」との口述があることについては、資料的に確定出来ないので、上記からは省いた。〕
 また、おそらくは一九九八年に革マル派から最後的に追放されて以後の「独立・独歩」の営みの中で、氏がこれほどの勉強をされてきたことには驚かされている。というより、私自身の不勉強を暴露されているようで、恥ずかしい限りである。

 

(二) 同志黒田の暗澹

 

 上記に見るように、英語版には「メタモルフォーゼ」の誤用はないのである。一九九八年一月の『 Praxiology 』以降に発刊された英語版の諸著作では、すべてで「メタモルフォーゼ」という語は用いられていない。そして一九九八年一月のこの転換は、唯圓氏のこぶし書房に宛てた手紙〔一九九七年五月〕に由来している、と捉えて良かろう。当時すでに革マル派の基本組織から排除されていたと思われる彼は、彼の〝管理〟担当者から聞いていた『変革の哲学』の英語版の刊行予定の「一九九七年六月」を前にして、同志黒田の「メタモルフォーゼ」に関する誤認がそれに反映されないようにと考え、手紙を書き伝えようとしたのだ。そして、同月末には「回答」が届いたと唯圓氏はいう。

 

 唯圓氏には回答があった

 

 「発信者名はなかったがことの性格上「名乗るまでもない人」つまりKKご本人からと理解すべきでしょう。」として氏は続ける。

 

 「KT(当地の常任〔当時〕)から聞いたその内容は次の4点であった。
1.Metamorphose の使い方が誤りだという指摘は大筋で正しい。
2.この誤りには数年前にすでに気づいている。
3.英文で書かれたものではすでに訂正されている。
4.余談として指摘されている『現代における平和と革命』(二八〇頁)の「市川正一」の誤りについては発行直後に気付き、増刷分ではすでに「志賀義雄」に訂正して発行している。」
と。この4点であった。」

 

〔このうち、「市川正一」に関しては、事実は「すでに訂正している」ではなく、実は「そのうちなおす」ということだった、と唯圓氏は言う。この件については、本稿では捨象する。〕

 

 私が「メタモルフォーゼ」のルビは誤りであることを記した同志黒田宛の手紙を常任メンバーに託したのは、⑤一九九四年四月の『社会の弁証法』刊行の直後であったが、これには何の回答もなかった。唯圓氏が手紙をこぶし書房に宛てたのは、一九九七年五月であるが、それは氏が②の『資本論入門』を読み、「姿態(ゲシュタルト)転換」という表現を見て、同志黒田が「姿態変換」はマルクスが用いた「メタモルフォーゼ」という語の訳語であることを知らないことが判明し、「メタモルフォーゼ」という語を誤って理解している、と断定したからだという。
 そして氏は、当初は彼自身が「一九九七年六月刊行」と聞いていた『変革の哲学』の英語版の刊行が実際には一九九八年一月となったのは、氏の手紙が届いた時にはすでに完成間近に至っていた同書の当該箇所を訂正するために、刷り直すこととなったからではないか、と推察している。――これはおそらくその通りであろう。
 だが九四年には同志黒田は転換せず、私への回答もしなかった。九七年にはなぜ転換したのか。

 

  一九九四年の私の手紙への無回答

 

 氏は、「探究派公式ブログ」掲載の私の小論(二〇二一年一月二〇日付)「 神官たちの醜怪」を読んで「私の一九九七年五月より前にそれとは独立に九四年春にすでに指摘した方がおられると知って本当にうれしく思う」とした上で、「回答」の「2.」の「数年前に気付いている。」というのは、ゴマカシであること。さらに「3.英文で書かれたものではすでに直している。」というのもゴマカシだ、という。
 「2.」の問題について氏は、同志黒田が「数年前に指摘が出ていたことに、今気が付いた」というのが、その正しい読み方であるとし、このことをもって、氏は「時制をずらすKK話法」だ、と言う。
 私は、氏の仕事のおかげで、いま様々なことを推し量ることが出来ているのであるが、この点について、異なる意見をもつ。
 
 私は、小論「神官たちの醜怪」では、『著作集』第二巻にあえて「メタモルフォーゼ」を残したままで刊行した「革マル派」指導部の腐敗をもっぱら暴露するということにとどめた。唯圓氏によって同志黒田その人の問題性が論じられているが、私はそれは歪んでいると考える。本稿では、前稿よりさらに論を進め、同志黒田その人の問題についても論じることにする。

 

  手紙の行方

 

 一九九四年当時、私は同志黒田の指示にもとづいて、ある産別労働者組織の学習会のチューターとして勤しんでた。(さらにまたその数年後には、私は党常任の任につくことを――二度三度と――求められることになったのである。)その当時に、私の同志黒田宛の書面を、途中で隠蔽する常任メンバーがいたとは思われない。手紙が同志黒田のもとに届いたことは疑いない。書面を読めば、内容は疑問の余地のないものであることに同志黒田ならすぐ気がつく。だから同志黒田の「数年前に気付いている」との返答じたいは真実を述べたもの、と私は考える。だが、同志黒田がその気づきを組織的に普遍化し、日本語版の諸著作の訂正を指示しなかったのは、なぜなのか。
 今にして私は思う。それは同志黒田の〝狭量〟のゆえではない。私の手紙を受け取った時の同志黒田の衝撃は、私がこれまで想像しえた範囲を遙かに超える深刻なものだったのではないか。彼は暗澹たる気持ちに襲われたのではないか。そしてこのことが、彼がこの時に誤りを誤りとして認め、組織的に普遍化するという当然のことをせず、また私に返答もしなかった主体的根拠ではないのか、と。

 

  同志黒田の衝撃

 

 metamorphose に関する誤った知識は、同志黒田が若いころから、おそらくは一九六〇年代から護持してきたもの、と私は考える。そして一九七五年の『変革の哲学』以降の、公にされた諸著作には、この誤った知識にもとづく記述が連綿と続いていることはすでに見たとおりである。その誤りを指摘されたことは、同志黒田にとって、重い事実だったのだろうと推察する。その重さは、誤った思い込みの内容に由来するものではない。いやむしろ、あまりにも歴然とした簡単な誤りでしかないにもかかわらず、その誤りを自覚する契機がこれまでなかったことをこそ彼は突きつけられたのである!

 

  誰が考えても分かること

 

 唯圓氏が指摘し、私も指摘しているように、革マル派結成以後だけでも三〇年、彼ととともに闘ってきた数多の先輩同志たちは、誰一人として彼の簡単な誤りを指摘しなかったと思われる。もしそうでなければ同志黒田は歴史を偽造したことになるのである。『変革の哲学』刊行以前にも、同志黒田が「メタモルフォーゼ」について口述したことは多々あったであろうと推察される。
 組織成員たちの中には、医師も多い。彼らは病身の同志黒田の、比較的身近にもいた。医師でなくても、ドイツ語や英語についてある程度の水準にある同志はそれなりにいたはずである。彼らが英訳本刊行の先頭で尽力したであろうことは推測に難くない。しかし、そのなかの誰一人として彼の誤りを指摘しなかった。同志黒田は、一九九四年に至るまで、革マル派組織の内から〔また外からも〕、一度として教えられなかったのである。誰一人気づかなかったなどということはあり得ない。同志黒田が言っていることだから、というある種の精神的萎縮が判断を鈍らせたということなら、ありえよう。また、気づいたメンバーはなぜ同志黒田に直言しえなかったのか、それほどまでに同志黒田を畏れていたのか。いずれにせよ、誰も指摘しなかったことは厳然たる事実である。このようなことが瞬時に同志黒田の頭蓋を駆け巡らないわけがない。――晩年の同志黒田には、今日から見て著しい衰退が見られることも事実であるが、一九九四年の同志黒田は、『実践と場所』の仕上げに勤しんでいた時期である。
 定かではないのだが、同志黒田は、どこかに、遙か前に〝若い仲間から指摘されて、誤りに気づいた〟と書いていたという記憶がウッスラと蘇ってくる。遠い過去にはそのようなことがあった、だが今は、……という思いが浮ぶのは、自然な流れであるとさえ言える。「メタモルフォーゼ」の問題は党組織そのものに潜む重大な問題性を示すものであることに、同志黒田が気づかないわけがないのである。

 

  〝叛逆者〟の正鵠

 

 さらにこのことを重くする〝事実〟がある。それは、この問題を指摘したのが、私・佐久間だということなのである。
 私は、一九八七年以来、革マル派組織建設の底に通奏低音のように流れる同志黒田の言説の絶対化、今日的に言えばその神格化傾向こそが、党組織の硬直化の根源である、と考えていた。一九八九年だったのではないか、と思うが、同志黒田宛に「意見書」を書いたこともある。その内容については、文書そのものを残していないので、定かではないが、次の一句だけは鮮明に覚えている。――「たとえ小さな欠陥であろうとも、そのメンバーの組織的地位が高ければ高いほど、組織破壊的な作用は大きいのであって、それだけ厳しい自己点検が問われるべきであるはずだ」と。これは直接的には、当時の「鬼塚龍三」を名乗る人物をさして述べたことであったが、当然にも同志黒田をも意識して書いたものであり、同志黒田には当然そのようなものとして解されているはずである。また、「〝山パンのような生動的な組織〟は画餅に終わるのか」と訴え、最後を「お考えを伺いたい。」という文言で締めくくったことはよく記憶している。だが、当然にもというべきか、返答はいただけなかった。こういうことからして、一九九三年夏までの私は、党の指導部(同志黒田を含め)からは、いわゆる「同志N」の「反権威」主義という悪い面だけ受けついだ〝捻くれ者〟と看做されていたようである。有り体に言えば〝反発分子〟として、である。(この意味では唯圓氏と同じ。)
 同志黒田の側から考えれば、そのようなメンバーからしか「メタモルフォーゼ」の問題性は指摘されなかった。(「同志黒田の絶対化」ということについては、これまで多くのメンバーが疑問をもったに違いない。けれども、この問題について真剣に考えた人たちは――つまりスリヌケできなかったメンバーたち――は、ほとんどすべてが「解決不能」な問題とみなして戦線を離脱したであろうことは推測に難くない。痛ましいことである。)

 

  重畳する諸問題


 しかも、である。その前年の一九九三年には、いわゆる「賃プロ魂注入主義」の問題が発覚した。党指導部建設そのものの破綻を同志黒田は突きつけられたのであった。この問題に関して、一九九二年三月一日の春闘決起集会におけるいわゆるDI報告〔「3・1報告」〕の問題性について、その当時に明確に批判していたのも、私・佐久間のみであった、という事実を同志黒田は一九九三年夏には突きつけられていたのである。〔この問題については、稿を改めて論じる。〕そして、この問題と連動して、唯圓氏も指摘している沖縄の党組織、および旧国鉄(JR)の党組織の離反が相次いだのであった。これらの事態に直撃されて、同志黒田が深い挫折感を味わったことは推測に難くない。
 数多の弟子たちの中で、「メタモルフォーゼ」問題を指摘した(当時においては)たった一人のメンバーがこの私であり、同志黒田その人の指導をも含め、革マル派建設の現状に強い否定感を表明してきたメンバーであったという事実を突きつけられて彼は何を思ったか。それは私の想像を超える。しかし、同志黒田にとって、「metamorphose 」の問題は、決して些末な問題ではなく、他の重大な組織問題とともに革マル派建設そのものの挫折をつきつけるものとなったのではないか、と私には思われてならない。
 一九九四年に私の手紙を読んだとき、同志黒田に重々しい直観が働いたであろうことは確かである。あえて言おう。――同志黒田はそこで問われたのではなかったか。

 

〔晩期の同志黒田の諸論文に私は、深い失意ないし挫折感を読み取る。このように言うのには、もちろん、探究派結成以後のわが同志たちとの討論を通じて明らかにしてきた諸問題についての認識がベースとなっている。ここではこれ以上立ち入らないが、われわれにはいずれ明らかにする責務があると考えている。〕

 

 私の手紙を受け取った同志黒田は、恐らくは深刻な精神状況に陥ったのではないか。それが、誤りをすぐ組織的に周知し、訂正することに踏み出さなかった主体的根拠ではないか、と私は考える。
 その時点では誤りには気付いたのであろうが、その誤りを認め訂正する気はなかったのではないか。それとは別に、一九九七年五月に唯圓氏の手紙を受け取った同志黒田は、氏に指摘の正当性を認める回答を指示し、英語版に関しては誤りを訂正することに踏み切った。一九九八年一月に刊行された『変革の哲学』の英語版での是正が、最初であったと思われる。
 このように、一九九四年と一九九七年とでは同志黒田は異なる態度をとった。この違いはなぜなのか。
 唯圓氏も――失礼ながら――私と同様に〝捻くれ者〟と看做されていたということは、氏の文章から推察しうる。いや一九九四年の私と比べても、党指導部からは疎んじ

られていたと思われるのが、当時の氏である。しかし、同志黒田は、唯圓氏の手紙を読んだことを転機として、著作の英語版に関しては、「メタモルフォーゼ」の誤りを是正することに踏み切ったことはほぼ間違いない。
 これは何故か。この時の同志黒田の、氏の手紙の受けとめがどうであったか、というようなことを私が推し量るのは、困難であり、何事かを言えるわけではない。

 

  英語では間違いが歴然

 

 まさか前年の一九九六年に「躍出」(=革マル派議長の辞任)して心境が変わったから、などということはあるまい。一つだけ明確なことは、英語では誤りがヨリ鮮明に出てしまう。というより、英文では意味不明となってしまうのである。おそらくは、『変革の哲学』の英語版としての『 Praxiology 』刊行の寸前に、唯圓氏からの手紙に直撃され、このことに現実感覚がもたらされたのではないのか。
 すなわち、著作の日本語版では、例えば『社会の弁証法』なら「質料転換」に付したルビ、ないし「物質代謝」「質料変換」の説明の問題性にとどまる。読者は「メタモルフォーゼ」の用い方に疑問を感じるか、それの誤った理解を受けいれるか、だけである。その限りでは、これまでと同じなのである。しかし、英語ではそうはいかない。 「metamorphose」 か、「metabolism 」ないし「 metabolic interaction」 かの違いは一目瞭然である。訂正しなければ論旨そのものがおかしくなるのである。

 

  同志黒田の意志と遺志

 

 同志黒田は明らかに、おのれの「メタモルフォーゼ」の理解の誤りに気づいた。にもかかわらず、一九九四年の私の指摘以降も、諸著作の誤りの訂正には踏み出さなかった。ようやく一九九七年五月の唯圓氏の指摘を転機として、英文の著書に関してはその誤りが反映しないような措置にのりだしたのであった。
 しかし、その後も、日本語版の著作は改められず、注意を喚起する註のようなものもつけられなかった。組織的に周知されることもなかった。組織的に周知されなかったことは、永く党の最高指導部の一員であった同志松代が、こぶし書房のメンバーたちとの学習会で初めてこのことを教えられた(二〇〇七~二〇〇八年)という事実からしても明らかである。二〇〇〇年頃に、労働者組織のある学習会で一常任メンバーが『覺圓式アントロポロギー』における「メタモルフォーゼ」の誤りを得々として指摘したのも、その常任メンバーが――唯圓氏からの手紙を受け取って大騒ぎとなったこぶし書房のメンバーたちと共通する――ある特別な事情で「メタモルフォーゼ」問題を聞き及んでいたからであって、同志黒田が、特定のメンバーたちを意図的に選別して伝えたからではなかろう。事程左様に、同志黒田のこの問題に関する対処は、明快ではないのである。
 本年一月に「革マル派」官僚どもによって『黒田寛一著作集』第二巻として刊行された『社会の弁証法』の当該箇所が改められなかったことを、われわれは問題にしてきた。一九九七年の唯圓氏からの手紙への「回答」があってからも、日本語の諸著作の当該箇所を訂正する、もしくは註をつける機会はあったにもかかわらず、同志黒田の生前にもそれは一切なされなかったのは、なぜなのか。
 唯圓氏の文章を読み、仲間達との討論を通じて、私は、同志黒田には訂正する意志はなかった、あるいは訂正しないことにした、というのが真相ではないか、と考えるにいたった。この点では、唯圓氏と意見を同じくする。そして同志黒田は何らかのかたちでその意志を一定のメンバーたちに伝え、それが、いわば遺志として受けつがれたのではないか。この遺志に、「革マル派」官僚どもがすがりついたのであろう、と考える。あるいは、同志黒田が訂正するようにとの明確な指示を残さなかったので、官僚どもは訂正しなかったということかも知れないが。いずれにせよ、唯圓氏が〝佞臣〟と呼ぶ彼らは、彼らに固有の理由で、つまり自己を護るために訂正しなかったのである。

 

 〝正面から私に立ち向かえ〟

 

 同志黒田は、一九九四年・一九九七年に、訂正するかどうか、を迫られた。もちろん、自身の些細な誤りをそれとして認めたくない、というほど彼は狭量ではないと私は考える。ましてや、自ら誤りを認めなければ、気づかれないだろうなどと考えるほど、愚かではありえない。いやむしろ、過去に、永年にわたって流布してきた誤りを訂正することを、それがその誤りをなかったことにすることでは決してないにしても、彼は潔しとしなかったのではないか、といま私には思えてならない。それはこの問題が、彼個人の学問的営為を超える問題であるからだ。

 

 彼は、われわれに向かって叫んでいるのではないか。

 

 この私と正面から闘え、私が諸君とともに精魂込めてつくりだしてきたこの組織を見つめよ、諸君はこの組織をどうするのか、と。

 

 彼は、おのれ自身をあえて晒しものにしてまで、われわれに問うているのではないのか。
 このように言えば、君はおのれの心情を同志黒田の行為に投影しているのだ、と言われるかも知れない。しかし、それならそれでも良いのだ、と私は応える。
 『著作集』第二巻に残された「メタモルフォーゼ」という語は、――「革マル派」官僚どもの思惑を超えて――同志黒田の「革マル派」官僚たちへの怒りと弾劾のシンボルとしての意味をもつのである!

 

(三) 党物神崇拝の裏返し

 

 唯圓氏が明らかにした諸事実にも踏まえつつ、私は、「メタモルフォーゼ」問題の意味するものを氏の見解と対比しつつ、明らかにしてきた。
 以下では、唯圓氏のタイトル「KKの幼児退行と鶴巻派佞臣との相互浸透」に端的に示される氏の意見そのものについて論じたい。

 

 組織論的アプローチの欠如

 

 それにしても、唯圓氏の見解には、組織論の匂いがしない。「党物神崇拝を超える」ことを氏は訴える。しかし、そこにはかつての革マル派に固有な「党物神崇拝」をもたらした組織的根拠についての組織論的考察は見られない。

 

 「幼児退行」とは

 

 晩期の同志黒田をこのように規定するのは、歪んでいる。たしかに、晩期の同志黒田には氏が「敷島の道」などとほのめかしているような思想的な退化が見られたことも事実であると言って良かろう。それはそれで論じるべきである。とはいえ、われわれはあくまでも同志黒田の革マル派指導者としての組織実践の問題を問題として論じることが肝要である。「世紀の巨人」「時代のはるか先をゆく偉大な指導者」というような今日の「革マル派」指導部が描いている人物像のようなものにたいして、「小保方さん」化とか「幼児退行」とかと言ってみても、いずれも同志黒田個人の人物評価のようなものでしかない。

 

 ひとつの問題を例にとろう。一九九四年に私は、同志黒田宛の手紙で、「メタモルフォーゼ」問題を指摘したが、返答さえなかった。そして、一九九七年に唯圓氏がこぶし書房にとどけた手紙への回答として、「数年前に気づいていた」という。
 このことから、何を考えるか。

 

  組織的諸関係からの退避

 

 あれほど「ケジメ」を説いていた同志黒田が、手紙を書いて注意を促した私に対して何のケジメもつけず、ダンマリを決め込んだのである。無視したわけでもない。内容的には受けいれたのである。こういうやり方を〝取り込み〟スタイルとして厳しく戒めてきたのは、われわれの良き作風であり、輝かしい伝統ではなかったか。この行為を規定している内的要因について私は、推察しうるかぎりで「(二)同志黒田の暗澹」に記した。だが、その内的要因がどうであれ、同志黒田の行為は、同志黒田を先頭にしてわれわれが磨いてきた組織論、われわれが同志黒田から学んできた組織論に照らすかぎり、組織成員失格と言わなければならない。たとえ些細なことでも、私の手紙になにがしかを教えられながら、何の返事もしないのは、相手との組織的関係を遮断することを意味する。組織的規範を超越する行為である。しかし、このような行為でも同志黒田の行いについては、誰かが異議を挟んだということを私は聞かない。(逆のことを私は山ほど聞いてきた。)何か深い意味があるのだろうと忖度(実は神秘化)したり、予め同志黒田は、組織的規範の外に――組織の上に――いる存在であるかのように、みなしているのであろう。いま私は、探究派建設の現段階に立脚してこのように断言しているが、一九九四年の私は、いわば「是非もないこと」であるかのように観念し、泣き寝入りしてしまったのである。返答しないというこの行為によって、同志黒田はみずから組織関係を超越し、事実上は組織「外」へと、党組織の「上」へと退避したと言わなければならない。
 小さな事例とはいえ、これこそ、「黒田神格化」のプロトタイプなのである。たとえ、絶大な指導性によって革マル派そのものを創りだしたご本人であったとしても、党議長として最高指導者であるとしても、いやそうであるからこそ、まさに「組織成員としての自覚」が問われたはずである。

 

 「道理」の空語化

 

 革マル派の終焉、その組織の「革マル派」への変質は、ある一定の独自な理論にもとづくものとはいえない。
 スターリニスト党は、「一国社会主義」論に、また「分派禁止」の官僚主義的組織論に立脚していた。だが、革マル派の終焉は、それらに該当するような、重大な理論的誤謬にもとづくものとは言えない、と私は考える。(同志黒田の叱咤激励のもとであれほど遂行された組織内思想闘争にもかかわらず、結果解釈主義やその根っ子をなす哲学的客観主義が克服されえなかった、というような諸問題については、ここでは論じない。)
 もちろん、ほんの一例を挙げるならば、誤った理論が同志黒田の権威にもとづいて――たとえば一九九二年三月のように「議長のメッセージ」だと称して――組織的に貫徹され、そのことが組織そのものの歪みと空洞化をもたらした場合というのはあるのであるが。そしてまさにいま論じている「新陳代謝=メタモルフォーゼ」説の通用も。「無理が通れば道理がひっこむ」と言われるように、である。これらについては、別途明らかにされなければならない。そして理論化されたものじたいの歪みというべきものも、もちろんないわけではないが、それらについてもまた別途問うのでなければならない。

 

 「道理」はあったのである!〝前衛党組織は、形態的にはピラミッドをなすのであるが、本質的には球体であり、実体的には板状なのである〟というような規定は、党組織のピラミッド主義的硬直化を防ぎ打ち破る拠点を示す論理としてくりかえし強調されてきた。私がそのような文言を初めて見たのは、このような文言がもっとも似つかわしくない人物の一人(鬼塚龍三)の、おそらくは別の筆名が付された論文であったように記憶している。もちろん、出所は同志黒田である。だが、鬼塚によって公然と打ち出されたということじたいが、この理論の〝羊頭狗肉〟の宿命を暗示しているように私には思われた。まさにそうなってしまった!
 しかもそれは、歪んだ組織観をもつ未熟な指導的メンバーによって「道理」が踏みにじられたからではない。もしそのような人物の行為であれば、それは比較的容易に打ち破りえたであろう。ほかならぬ同志黒田その人の先述したような組織的諸関係を超越するかのような行為によって、踏みにじられたのである!いかに優れた理論でも、実践によって貫徹されなければ「空語」と化し「画餅」となる。いやむしろ、そのような行為を是認するような観点から解釈されるならば、われわれの組織論はまったく似て非なるものへと変質することになる。今日の「革マル派」指導部が唱える「組織哲学」なるものがそのシンボル的表現である。
 同志黒田自身の上記のような逸脱、その組織実践・組織関係づくりの歪みが、反スターリン主義運動創成以来の苦難の連続のなかで、その実践における僅かな歪みの積み重ねの結果であろうことは推測に難くない。だが、このようなこともまた別途に具体的に論じられなければならない。

 

  権威主義的追随


 他方、同志黒田の超組織論的行為には、彼を敬愛し彼に学びつつ闘ってきたわれわれのうちに、彼を絶対化する傾きが蓄積されてきたことが相即する。そのような傾向について自覚し強い否定感をもっていると考えていたこの私自身の、たとえば一九九四年の惨めな姿を想起する時、病根の深さを思い知らされる。「組織成員としての主体性の確立」とは、かほどに重い意味をもつのである。――だがそれは、真の反スターリン主義的前衛党組織においては、あたかも自然の流れの如く実現されうるものとなりうるであろう。問題は常に前衛党組織そのものの質に、その創造のプロセスそのものに関わっているのである。「山パンのような生動的組織」とは、まさにそのようなものであろう。われわれはこのことを今まさに、肝に銘じている。
 かつて私に「黒田はスゴイ、スゴイ!」と繰り返していた人物Aや、私が「KKはおかしい、みんなKKを絶対化している!」と訴えたとき、屁理屈をこねてはぐらかし、とどのつまりは「われわれはすべてをKKに負うているのだ!」と恫喝してきた人物B、私の訴えにたいして「KKが言い出したら諦めた方がいいよ」と〝忠告〟してくれた人物Cなどが、今では〈黒田教団〉の宮司格や禰宜格の神職についていることを思うならば、事実上自己を〝例外者〟とする同志黒田と、彼を絶対化し崇拝する他の指導者たちの相互補完関係こそが今日明るみに出され、厳しく教訓化されなければならないのである。それなしに反スターリン主義運動の再生はありえない。
 同志黒田の〝退避〟先こそ、彼の逝去後に、彼ら神職たちによって不可侵の〝神棚〟とされ〝祭壇〟とされたのである!
 同志黒田の絶対化と神格化、組織そのものの宗教的疎外をもたらした思想的=組織的根拠を、われわれはさらに徹底的に剔出し、掘り下げてゆくのでなければならない。

 

〔なお、かつての革マル派に特有な党物神崇拝(同志黒田の絶対的権威化)はある種の〝政治的要因〟をももつ。それ自体と、その組織的意味については、本稿では全く触れていない。いずれ明らかにするであろう。〕

 

  「相互浸透」?

 

 手紙の一件を例とし素材としていま論じてきたことは、唯圓氏の「KKと佞臣との相互浸透」などという捉え方が、没組織論的であり、虚妄であることを示すためでもある。いやそもそも、「KK」と「佞臣」たちの「相互浸透」などありえない。それは唯圓氏の結果解釈の産物であると私は考える。
 「同床異夢」などという便利な言葉があるが、同志黒田と〝佞臣〟たちとは、相互に補完する関係に転落したというのが、正当な比喩であろう。同志黒田の逝去後、一四年を経てその関係は〝完成〟された、というべきであろう。

 

  俗人たちの「KK」批判をもちだすのは

 

 唯圓氏には、組織論的アプローチが欠如しているからこそ、中野信子香山リカのような脳科学者や精神医学者の名をもち出したりすることにもなるのである。氏がその言葉を援用している高知聡や佐々木力もまた、それなりに有意義な仕事をしてきた人物たちである。高知が、一九六六年に当時の革マル派書記長・森茂の政治集会報告の問題性を突き出し、反スターリン主義運動に喝を入れることになったことは事実である。しかし、彼らは共産主義者ではないのであって、その意味では俗人なのである。われわれは、俗人たちの〝傍目八目〟的言説に耳を傾けることも必要ではある。かつて同志黒田が高知の指摘を受けとめたように。われわれは、何も「革マル派」指導部のようにおのれの閉鎖空間に引きこもるものではない。だが、仮にも「KKの挫折を乗り越えること」をめざすのであれば、「KK」がどのように「挫折」したのかを、思想的にのみならず、組織論的に剔抉し教訓とすることに、注力すべきではないのか――まさに革命的マルクス主義の立場に立脚してでなければそれは不可能である。そしてこのことは、同志黒田の理論的実践的営為をまさに主体的に受けつぎ、われわれ自身が創造的な理論活動を推進することとの統一においてしかなしえないこともまた明確である。同志黒田の「神格化」の現実的基礎をなした、彼とわれわれとのあまりの理論的=能力的隔たりをもこえ、同志黒田の理論上の限界をものりこえて進むことが、われわれには問われるのである。

 

 「各人の精神的自立が問われる」とは

 

 「各人の精神的自立」は、もちろん当然のことである。だがしかし、「「党物神化」思考からの脱却」として、「各人の精神的自立」を直接対置するのは、一面的である。われわれは、「組織成員としての主体性」をこそ問うのでなければならない。われわれのこの〝常識〟までをも反故にするのは、「党物神崇拝」の裏返しであると言わなければならない。われわれは、氏に「信者」と称される、かつてのわが仲間たちの問題をも「組織成員としての主体性」の喪失として、組織論的=哲学的に照明し、彼らの再生に資するのでなければならないと考える。論じなければならないことはそれこそ〝山ほど〟あるのである。

 

〔この「組織成員としての主体性」の問題については、北井信弘著『現代の超克』(二〇一九年 創造ブックス刊 書泉グランデ及び模索舎にて販売、当ブログ編集部でも注文を受け付けます。)所収の「プロレタリア的主体性」とくに「前衛党組織の一員としての主体性」をぜひご検討いただきたい。〕

 

  前衛党組織論からの離陸?

 

 だが、上のように言っても唯圓氏には、そぐわないかも知れない。氏の「各人の精神的自立」論の裏側には「反前衛」主義のような匂いがする。どこまで言っても組織論的考察は見られない。様々な揶揄的表現(「畏き(かしこき)辺り」や「佞臣」など)の中にそれは埋没させられている。
 氏自身、反スターリン主義の立場から永きにわたって理論的研鑽を積み重ね、また革マル派組織成員としての一定のキャリアがあろうことは御本人が示されているとおりであるが、彼の文面には『組織論序説』などで展開されてきた反スターリン主義の組織論の香りがしないのである。反スターリン主義運動の組織論が前提とされているようで、そうではない、と私は感じる。わが日本反スターリン主義運動は、レーニンの前衛党組織論を革命的に継承しつつ独自の組織論を展開してきた。〈主体性論を基礎とした組織論〉がそれである。だが、氏には、「反前衛」主義の傾きが感じられる。「前衛党組織」建設の問題について、氏はなお留保されているのだろうか。氏は、革マル派組織のあまりの歪み、今日では〈黒田教団〉化するまでにいたったそれを痛感してこられたのであろう。その意味では探究派を結成し、結集するわれわれとの共通性をもっていると言って良い。だが、氏の「前衛党組織」問題への立ち向かい方は、われわれとは大きく異なる所以である。
 この項を結ぶにあたり、私自身――一九九二年三月以来――二度目になるのであるが、俗人的戒めを送る。

 

 羹に懲りて膾を吹く、なかれ。

 

  「黒田哲学の壮絶な最期」論の虚妄

 

 唯圓氏は言う。「晩年の生身のKK のこの無残な蹉跌をわれわれは乗り越えていくのでなければならない。」と(当ブログ掲載の「〔投稿〕青恥・赤恥・頰かむり」)。「無残な蹉跌」とは、この「メタモルフォーゼ」の一件にとどまらないことは明らかであるが、氏の考えるその内実はなお定かではない。今後、ぜひ探究派のブログなどで論じて頂きたい。われわれもまた、論じなければならないことが多々あると考えている。公開の場としての当ブログ上で良い論争が出来れば素晴らしいことだ。
 だが、この点に関しても、氏の立場の歪みを指摘せざるをえない。
 ブログ記事続編(「KKの幼児退行……」)で、彼は言う。「私たちはここに黒田哲学の壮絶な最期を見届けてしまいました。」
 この見解をわれわれは是認しえない。
 たしかに、「メタモルフォーゼ」問題のみならず、同志黒田の晩年の理論的=組織的実践には、われわれが断固として切開しなければならない諸問題があることをわれわれは自覚している。多くの問題を残したまま彼は最期を迎えた。残した問題性は、今日の「革マル派」によってグロテスクに体現されてもいる。だが、このことをもって、「黒田哲学の壮絶な最期」とするのは、どうしたことか。
 「生身」の彼の最期と、彼の「哲学」の最期とは異なるというだけのことではない。氏が仄めかしてもいるように、晩年の彼が思想的にも多くの問題を露呈させたことは確かであるが、その問題性を剔抉し、掘り下げのりこえてゆくことは、同志黒田の実践的唯物論を、そしてそれを貫徹した組織論をわがものとし適用することによってはじめて可能となるとわれわれは考える。彼の哲学の核心的なものは、われわれによって受けつがれているからこそ、決して「最期」を迎えることはないのである。われわれは、彼から学んだ「哲学」に磨きをかけ、さらに創造的に発展させるのでなければならない。現に今、われわれは着実にその道を歩んでいる。

 同志黒田の蹉跌をのりこえてゆくのは、彼の哲学を学んだわれわれである。

 

 改めて、唯圓氏に問う。

 

 貴方自身が今日このような論陣を張りうる主体的根拠は、永年にわたる黒田哲学との格闘によって、培われたものではないのだろうか。貴方自身が、同志黒田の哲学を受けついでいるのではないのであろうか。

 

  「独立独歩」とは――〝傍目八目〟との訣別は?

 

 唯圓氏の言葉は繰り返される。


 「私は何の力にもなれませんが、陰ながら探究派の諸兄姉や鶴巻派から自己を問い直して再出発しようとされる方々に注目してまいりたいと思います。」(「青恥・赤恥・頰被り」)「この暗い時代に「反スタ運動の再構築」のファッケル(註3)を掲げ続ける皆様のご健闘をお祈りいたします。」(「KKの幼児退行と鶴巻派佞臣との相互浸透」)

 

  さきほど挙げた人びととはもちろん次元が異なるが、これもまた〝傍目八目〟ではないか。

 

(註3)ファッケル  Fackel:ドイツ語で「たいまつ」「かがり火」。共産主義者にとっては、第一次大戦時に、「東部戦線」で対峙する独軍とロシア軍の兵士たちが、武器を置き、互いの塹壕を超えて、かがり火を灯して抱擁し、反戦・友好を誓い合った故事が想起される。この時の兵士たちが、ロシア革命とドイツ革命(これは敗北したが)の先頭にたった。なお一九七〇年代に、革共同革マル派関西地方委員会がその機関誌のタイトルに「ファッケル」を採用した。

 

 ぜひ、再考されたい。永年にわたり苦労して培った貴方の理論的力を、ぜひ活かしていただきたい。それが同志黒田への〝恩返し〟ではあるまいか。――われわれは、〝○○に非ずんば人に非ず〟の態度をとるものではないとはいえ。

     (二〇二一年二月八日  佐久間置太)