「カチカチ山」の真実――〝語るに落ち〟た「前原茂雄」

  「前原茂雄」、「語るに落ちる」

 

 『松崎明黒田寛一 その挫折の深層』を、何が何でも「反革命の書」と断じ、なきものとしたい「前原」は、デマ・シリーズ「第八回」(「解放」第二七四五号 二〇二二年十一月二一日付)で、「9・20スローガン」問題とともに、「カチカチ山」問題にふれてしまった!
  何としても松代の論述を否定せんがために、それこそ〝蛮勇〟をふるって、というわけである。当然のことながら、それは〝蟻地獄〟に自ら飛び込む行為であった。
 われわれは、ついにこのような〝反論〟に「革マル派」中央官僚を追い込んだ! われわれは、これをこそ待っていたのである! 期待通りの妄言を「前原」は吐いてくれた!

 「前原茂雄」は言う。――「なんと北井は、同志黒田と松崎氏が同じ「カチカチ山」という言葉を使っている、というただこの一事から、〝黒田が本庄を使って松崎宅に押しかけさせた〟などという妄想的物語を勝手にでっちあげるのだ。なんという単細胞!なんというデジタル頭!」

 まずは、誰にでも分かる事実を指摘しておく。同志松代は、そのブログであれ、『松崎明黒田寛一』の論述においてであれ、「黒田が本庄を使って松崎宅に押しかけさせた」などとは一度も述べていない。「前原茂雄」が同志松代が一度も述べていないことをあたかも述べているかのように描き出すのは、「〈黒田⇔松崎=北井〉という狂気の図式の捏造」の場合とも、「革命的労働運動主義」の場合とも同じではある。
同志松代が述べていないことを述べたことにしておいてから「批判」する、というのはそれ自体がまったく政治主義的な欺瞞行為ではある。このようなやり方は「革マル派」中央官僚の常套手段であることをとりあえず指摘しておこう。
 そもそも同志松代は、かの松崎宅への「押しかけ」は、松崎明の言明(『松崎明秘録』三八~三九頁)を基礎にして、そしてまた「押しかけ」行動に参加した国鉄委員会メンバーから直接的に聞いたことに基づいて、当時の革共同書記長たる森茂を先頭にして、と述べた(『松崎明黒田寛一』八一頁など)のであって、本庄が同行したともしていないとも述べてはいない。同志松代にとって、森書記長を先頭にしてということが重要であるからだ。この事件を些細な「エピソード」として描き出したい「前原茂雄」にとっては、森書記長が登場したことそのものが不都合なのであり、そのために「本庄」がやったことという印象を与えたいのである。だが、そのために「前原」が弄した言辞は、事実上、この事件の真相を物語るものとなっている。

 

  同志黒田は、なぜ森書記長を「詰問」したのか

 

 さきほどの引用部に続いて、「前原」は言う。――「同志黒田は、この事件をどうやって知ったのか。事実はこうだ。/同志黒田は、本庄と一部の青年活動家たちが松崎氏の自宅に押しかけたというこの事件の一報を、森書記長から聞いた。同志黒田は、瞬時に、「彼と論議するのなら、なぜ一人か二人で行かないのか」と同志森を詰問した。そして直ちに打開にのりだした。」

 この文言は、「前原」の意に反して、実に多くを語っている。

〔1〕 もしも松崎宅への押しかけということについて、黒田が何も知らなかったのであれば、「なぜ一人か二人で行かないのか」と言うはずがない。「なぜ押しかけたのか」というのが自然ではないか。
〔2〕 また、「彼と論議するなら」と黒田が述べたと「前原」はいうが、それは「彼と論議する」ことを同志黒田が知らなかったこと、少なくとも同志黒田が松崎明との論議を指示してはいなかったことを意味することになる。前年(一九六五年)の9.20闘争をめぐる対立を直接的な契機として、一九六五年十一月以降、松崎明は党の諸会議を欠席していたのであるからして、松崎明との論議を党指導部が設定することは当然のことである。欠席していたからこそ、彼の自宅に押しかけるという行動がとられたのである。そしてその行動を同志黒田が事前に知らなかったとすれば、これは押しかけたメンバーの独断的行動ということになり、また同志黒田は蚊帳の外にいたことになる。このような描き方自体が、同志黒田を労働者組織から浮き上がった存在とみなすことになることにさえ、「前原」は頓着しない。
〔3〕また「前原」は、同志黒田が森書記長を「詰問」したという。なぜ「詰問」なのか。森書記長が当該の行動のことを事前には知らされておらず、事後に知って報告したのであれば、議長(黒田)も書記長(森)も知らないところで、かの「押しかけ」行動は行われたことになる。そうであれば、党の組織指導体制そのものが麻痺していることを意味するのであって、同志黒田が森書記長を「詰問」するどころの話ではなくなる。
 「前原」は、森書記長が「押しかけ」の現場にいたのか、いなかったのか、については、事実的には何もふれていない。「前原」は、同志松代が「黒田が本庄を使って松崎宅に押しかけさせた」としている、とデッチ上げていたのであるが、これは実は、森書記長が「押しかけ」の現場にはいなかったと印象づける欺瞞的記述なのである。
 「詰問」という表現は、「前原」が森書記長を先頭として、かの「押しかけ」がおこなわれたことを認識していることを問わず語りに語ったものなのである。
 党の書記長を先頭としてかの「押しかけ」が行われたのであり、同志黒田が事前にはそのことを知らなかった、となればこれはまた重大な組織問題である。「詰問」では済まない。かつて本多延嘉に煮え湯を飲まされた黒田にとって、森の重大な背信行為に直面したことになる。
 「前原」の説明では、大勢で押しかけたことをのみ黒田が森を「詰問」したことになる。明らかにそんなことはありえない。

 

 松崎明と議論するために、なぜ組織外のメンバーに仲介を依頼したのか

 

 「前原」はさらに言う。――「松崎氏の親友たる同世代の国労の戦闘的労働者を介して、松崎氏を自宅に招き、ことの顛末をくわしく聞いた。そしてその場で事態の全容を確認したのである。」

 「国労の戦闘的労働者」については、詳しくは説明されていない。だが、その労働者が党員でないことは明らかでろう。党員なら党員、国鉄委員会のメンバーと言えばよい話だからである。同志黒田は松崎明との関係を修復するために、党員ではないその労働者に仲介を求めざるをえなかったのである。革マル派議長の黒田が、副議長たる松崎(倉川)と会って議論するために、党外の一労働者の仲介を必要としたという、この一事をもってしても、松崎明が相当の覚悟をもって諸会議を欠席していたこと、国鉄委員会のメンバーをはじめ党のメンバーでは彼を招くことすらできない事態に立ち至っていたことが明らかである。「前原」は、自説にリアリティをもたせるために、俺は知っているんだ、と言わんばかりに「国労の戦闘的労働者」を持ち出したのであるが、この人物をもちだすことじたいが自説(「カチカチ山」は取るに足らない「エピソード」的事態というそれ)に反することになることすら感覚しえないのである。(この点についても『松崎明黒田寛一』を吟味されたい。)

 

  「前原」が真実を隠蔽したいのは何故か

 

 事ほどさように、「前原」は「カチカチ山」の真実を、ひいては黒田寛一松崎明の関係を隠蔽したいのである。この両者の関係の破綻を、その現実的基礎を明確にして、正面から問い返せば、それは同時にわが労働者組織建設の挫折を、また同志黒田の組織指導者としての限界や蹉跌をも剔抉し克服するという重大な問題につながる。彼ら「革マル派」中央官僚は何が何でもそれを回避したいのである。同志黒田の権威にすがってしかおのれの存在理由を示すことが出来ない彼らにとっては、まさに死活問題なのである。
 事実関係や、まっとうな唯物論的推論をもってしては同志松代の論述を覆すことができないことを彼は熟知している。だからこそ、嘘と偽造をもってするほかないのであり、また「狂気と妄想」とか「頭のおかしい〇〇」とかのいわば〝先験的〟レッテル貼りに狂奔したうえで、その嘘と欺瞞を並べ立てるのである。これはもはやどこぞのカルト集団と選ぶところがない。

 「前原」の嘘と欺瞞の根底にあるものは、同志黒田の無謬性をあくまで〝死守〟する、という「革マル派」中央官僚としての〝使命〟なのである。そのような態度――本質的には同志黒田を神格化する宗教的自己疎外――が同志黒田の顔に泥を塗ることを意味するとしても、彼らは彼ら自身の保身のために、彼らがこしらえた神話にしがみついているのである。彼らが同志松代の『松崎明黒田寛一』を憎み、それが多くの人々に、とりわけ「革マル派」の影響下にある人々の眼にふれることを何が何でも阻止したい所以である。
 だが生憎(あいにく)なことに、彼らがデマキャンペーンを開始して以降、彼らのキャンペーンが悪辣さを増すほど、この書はより多くの心ある人々の手に渡っている。彼らに残された途は、「黒田寛一の後継者」を詐称することをやめ、変質した「革マル派」を解体することしかない。

 

 「革マル派」下部組織成員諸君!

 変質し腐敗した「革マル派」中央官僚を打倒しよう!
 反スターリン主義運動の再生のために、わが探究派とともに闘おう!
     (小倉 力  二〇二二年十一月二八日)