マルクス主義への怖れと憎悪 第2回 マルクス疎外論の否定 「マルクスの疎外論的発想」とは?

マルクス主義への怖れと憎悪 第2回 マルクス疎外論の否定 「マルクス疎外論的発想」とは?

 

マルクス疎外論の否定


  「マルクス疎外論的発想」とは?


 百木は斎藤の主張にかんして、マルクス疎外論を否定したい、という自分の問題意識にもとづいて図式的にまとめる。
 斎藤の主張はこうである。
 「近代の賃労働者はあらゆる直接的な大地とのつながりを喪失しており、自然から疎外されている」、 「資本主義の疎外を人間と大地との本源的統一の解体として把握することで初めて、マルクス共産主義のプロジェクトをこの統一の意識的な再生として整合的に捉えていたことを認識できるようになる」。
 こうした斎藤の展開を百木は次のようにまとめる。
 ①資本主義以前の時代には「人間と自然の本源的統一」が成立していた。

 ②「資本主義の疎外」とは、「人間と自然の本源的統一」が解体されていることである。
 ③資本主義を超克した社会主義の段階においては「人間と自然の本源的統一」を回復できる。
 このようにまとめたうえで百木は言う。
 この①~③は、 斎藤自身が「 西欧マルクス主義疎外論広松渉の物象化論」、すなわちマルクスの「 疎外論的な発想」に陥っているがゆえに導き出される考え方である。しかし、このような把握は「現実社会や歴史の分析に当てはまるわけではない」。 ①は歴史的現実と異なっている。③はマルクスが『 資本論』 で展開しているものではない。『 資本論』 で展開されている共産主義思想は全体主義的で犯罪的なものである。こうした「物象化論はマルクス解釈としては正しい」が「現実社会の歴史の分析に当てまるわけではない」、 それにもかかわらず、「マルクス主義」の思考は「マルクスの記述を現代社会の分析にそのまま当てはめて考え、その理論にもとづいて、社会を変革しようとする」「イデオロギー」である、 と。
 百木は斎藤を批判するかたちをとりながら、 その斎藤の主張に貫かれている論理はマルクス疎外論なのだ、と問題を設定するのである。そのうえで、この疎外論は誤っているというように否定するという論法である。このように百木はマルクス疎外論の誤った論理が斎藤の論述に貫かれている、というのであるが、実のところ 、ではマルクス疎外論とはどのようなものなのか、それ自体を言わないのである。ただ、百木がそのことに触れているのは、 「西欧マルクス主義疎外論廣松渉の物象化論が「 疎外論以前の本来的人間を前提としている」」 と平子友長という学者によって批判されている、とかというように、なにやら回りくどく、かつ意味不鮮明なことを直接的には言うのみである。だからして、百木があいまいではあるけれども断片的に展開していることから、彼が理解しているマルクス主義疎外論なるものを、 ここで明確にしておかなければならない。
 百木が「マルクス主義疎外論」として非難するところの疎外論のつかみ方は、廣松が〝これが疎外論だ〟と言って疎外論批判を展開するところの疎外論のつかみ方と同じである。「 疎外されざる本来的な在り方(正)、この在り方からの疎外としての非本来的な在り方への頽落(反)、それの止揚としての本来的在り方の回復(合)という図式」(廣松)とされるものが、それである。百木は、このようなものをマルクス主義疎外論とみなしたうえで次のように言うのである。斎藤の主張には、この疎外論と同じ論理が貫かれている。すなわち、それは、現実から乖離した「本来的人間」なるものを観念的に想定したうえでのこうした論理を歴史の論理であるとみなすものである。マルクス主義唯物史観疎外論はこのような非現実的なものなのである、と
       (二〇二一年一月五日   桑名正雄 )