[寄稿] 5月1日 全労連の「メーデー中央集会」は雨の中

 5月1日は「労働者の祭典」と言われるメーデーです。全労連メーデー中央集会は、東京の代々木公園に1万2000人(主催者発表)が参加して開催されました。
 開会と合わせるように雨が降り出しました。職場からの要求を手作りポスターにした労働者たちがいました。彼らは同僚たちと地面にしゃがみこんで真剣に壇上を見つめています。それとはちがって、役員らしい労働者が1人で幟旗をもっているだけの労組もありました。労組の役員のみの参加で、各職場の組合員にはメーデーへの動員さえかけられていないことがうかがえます。
 私は、労働者の団結をどのようにつくりだすのか、職場の仲間たちも労働者の闘いをつくりだしていく仲間に変革していくのかを、雨に打たれながら考えさせられました。全国各地で行われたメーデー参加者や職場から参加できなかった仲間とともに、私の職場からも、労働者の賃上げを勝ち取り労働条件をよくするために、労働者の団結をつくりだしていこうと強く思いました。
 第95回メーデーの基本スローガンは「働く者の団結で生活と権利を守り、平和と民主主義、中立の日本をめざそう」です。ポスターには、「変えるのは私たち、ひとりひとりが大事にされる社会へ」を掲げています。
 しかし、会場で訴えられたことは「私たち」とはかけ離れているように思いました。       叫ばれたことは「政治の責任で大幅賃上げを皆さんと一緒に全力で取り組んでまいります。」〔日本共産党委員長・田村智子〕です。「内部留保に一部課税して、中小企業の賃上げ助成で最低賃金1500円アップを直ちに実現しよう」「非正規ワーカーの待遇改善法をつくって無法な雇止めや差別をやめて同一価値労働同一賃金[エッ?]を実現しよう」と声高に訴えます。しかし、聞かされる労働者の心は冷え冷えするばかりです。それは政治を変えることに局限され、諸課題の実現は夢物語のように先送りさせられることによって、自分の当面の切実な問題と乖離していくからです。強搾取を許さず、過酷な労働強化に反対する資本との闘いも、まったく語られません。ことごとくが「政治の力」で解決されるかのようです。「私たち」とは本来、労働者階級ではないのでしょうか。私たち労働者を「市民」と呼び、「野党」の応援団になれ!というのでは、労働者の階級的団結など、夢のまた夢。全労連の指導部が、日本共産党が議会選挙で得票数を増やし議席を増やすために、労働者を・労働組合を利用するという路線をとっていることに追随しているからこそのこの痛苦な現実。冷たい雨に打たれながら、「この雨はもしや、マルクスレーニンが私たちのこの姿を見て流している涙なのではないのだろうか?」とさえ思いました。長時間労働に反対し、「8時間労働制」をもとめてメーデーを闘った先輩たちの涙かもしれません。
 メーデー宣言は、相も変わらず「実質賃金の低下が続く中、格差と貧困が広がり労働者の暮らしは厳しさを増している」として、「物価上昇分を上回る大幅な賃上げで生活改善を図るほか、ジェンダーの平等の視点から格差の是正を目指す」を採択しました。
 最後の閉会あいさつでは、「岸田政権に対して3つの補欠選挙では市民と野党の共闘の力で勝利をしました。国民の怒りは沸騰しています。こんな政治は終わらせましょう。自民党政治の根本、アメリカ従属の軍事大国と財界本位の労働政策の2つの害悪を止める力は私たち労働者の決起でしかありません。労働者が報われる社会の実現をめざしましょう。変えるのは私たち一人ひとり。団結しましょう。」(東京地評議長矢吹義則)と呼びかけました。そして、最後に「働く者の団結で生活と権利を守り、平和と民主主義、中立の日本をめざし、岸田政権を退陣させ自民党政治を終わらせるために力を合わせ、労働者は団結してがんばろう!」と唱和を求めたのです。
共産党との「共闘」をどこまで続けるかさえもわからない立憲民主党が3勝したことがそれほどメデタイとは。そんなことのために、私たち労働者に「市民」として「野党」とともに闘えとは。
 私は、首をひねるばかりでした。「中立の日本」ってなに?「市民と野党の共闘の力」というのは労働者の団結をこえるものなの?
ますます降りしきる雨の音に、労働者の声は沈んだものに抑え込まれたように聞こえました。私は、「どこが労働者の祭典?」という思いを抱いて帰途につきました。

      (2024年5月1日 源田知子)