(投稿) 学費値上げ反対!東京大学構内への警察権力導入弾劾! 「大学自治」要求運動をのりこえ、学生と教職員のプロレタリア的連帯を創造しよう!

 6月21日夕刻、東京大学本郷キャンパスにおいて、学費の大幅値上げに反対する学生たちが「総長対話」を実現させた。 すでにマスコミ等で報道されている通り、藤井当局は「教育研究環境の充実」を名目として年間授業料を現行53万5800円から64万2960円まで引き上げる計画を公表している。
 国公立大学では低所得者向けの学費免除制度があるとはいえ、その審査にあたってはあくまで世帯収入が計算の基礎にされる。 家族一人ひとりが低賃金労働者であっても「世帯」で合算されれば免除基準を上回ることも珍しくないし、またあるいは親から事実上独立してアルバイトだけで生計を営んでいる学生も、「世帯」としての収入が基準以上であれば学費免除を受けられない。 だからと言って学生だけで世帯分離をしても全額免除にはならず、加えて国民健康保険料の負担がのしかかってくる(これは私の実体験である)。 そもそもの学費がすでに高額であるのに、この物価高の中で更に授業料が引き上げられるとなれば、家計はますます火の車である。 そして言うまでもなく、日本学生支援機構奨学金はただの借金である。
 東大の学生たちは反対の声を上げ、文学部での6月6日集会をはじめとして自治会の内外、そして教員の間にも大きな運動のうねりをつくり出してきた。 そうした中で藤井輝夫総長は「対話」に応じざるをえなかった——中教室でしかもオンラインに限るという、まさしく当局の不安をあらわにした形で。 その「説明」に納得した者など、誰もいようはずもない。 デタラメな「対話」の後、学生たちは安田講堂前で反対集会を開催しシュプレヒコールをあげた。 しばらくの間は波風のなかった本郷キャンパスで学生たちが闘いを開始したこと、これに恐怖心を抱いて、この日当局は警察権力にすがりついたのである。
 構内には警察車両3台および警官約30人が招き入れられ、彼らは集会参加者を詰問した。 これについて東大広報課は、「学生を含む複数名が本学施設(安田講堂内)に侵入し、制止しようとした警備員が怪我を負ったことにより、警察に通報する事態が生じた」などとのたまっている。 動員された警官は現場で「守衛が殴られたという通報があったから来た」と口にしたそうだが、この通報内容が虚偽であるのは明白だ。 ここは教養学部自治会執行部の説明に委ねよう。

 

「講堂への侵入やもみ合いについては、警察力を導入した後に発生した、又は捏造された事実であるおそれがあります。 そして、警察への通報が講堂の警備を担当する守衛ではなく(安田講堂警備室(守衛)は本会執行部員の聞き取りに対して通報への関与を明確に否定しました)、大学職員により行われたことも重要です。 通報がなされた時点においては、守衛の対応能力の範囲内であったにもかかわらず、いたずらに警察力が導入された可能性があるのです」(教養学部学生自治会理事会文書第434号)。

 

 自治会執行部の諸君はこの文書の中で、警察権力を大学構内に導入することの重大な意味を広報課が「認識」していない、と批判する。 いかにもお行儀の良い、と言うべきか。 しかしおそらくは警察権力も困惑しているところだろう。 殴られた、という守衛が名のり出てこないばかりでなく、通報した当局者はコソコソ身を隠すばかりで、責任主体として現場に登場しなかったのだからだ。
 これと似たようなことが以前あったのを私は思い出す。 とある大学にて安保法制反対デモを学内でやったとき、激昂した学生部職員が「中止しろ!禁止だ!」 とわめきながら隊列につかみかかってきた。 わが仲間は「落ち着け。君には関係ない」といさめてやったのだが、この職員は——おそらくは「大学自治」など何も考えずに——警察に通報したのである。 パトカーでやってきた警官たちに、学生たちが弾劾の声を突きつけた。 一体どのような嫌疑なのか、誰が被害者なのか、と。 もし大学当局が何らかの損害を被ったというのなら、通報した当局者をこの場に呼び出して被害の事実を確認してもらいたい、と学生たちは要求した。 ひとまずこの求めに応じて大学当局に問い合わせた警官は、しかし結局のところ何の返事も得られないままであった。 被害者がおらず通報した主体も明確ではない以上、警官はいかにも不満顔で引き下がるほかなかったのである。
 かつて丸山眞男が言っていた「無責任の体系」をこと改めて指摘するつもりはない。 私が言いたいのは、大学管理者はすでに長らく「大学自治」とは無縁の地平にあるばかりか、「ガバナンス改革」の下では政府・文科省の単なる駒になっているということだ。
 2021年、当時の首相・菅が人文学・社会科学分野の研究者6名を日本学術会議会員に任命しなかったことは記憶に新しい。 今に至るまで岸田政権もまたこの措置を撤回していないどころか、学者ならざる「民間」=独占資本家を学術会議の運営に参画させてこれを換骨奪胎させることを目論んでいる。 こうした方向性は、国立大学の執行部に「外部人材」を必ず一定数入れさせるだとか、あるいは私立大学においても運営会議から学部長をはじめ研究者の影響力を排除させるだとかの方策において、貫徹されている。 国立大学法人の運営費交付金が毎年1%カットされ続けているのは周知のこと。 また私立大学に対しても、「改革」を達成した大学に私学助成金を重点配分するというやり方で、政府・自民党はますます支配・介入を強めているのだ。 そうした中で各大学の管理者たちはただ上からの命令を実行するだけで、自分の頭でものを考えなくなって久しい。 警察に通報しておきながら現場では登場しない、そういう連中に対して、あるべき「大学自治」の理念を説いても馬の耳に念仏ではないか。

 

 もちろん、大学間競争を駆り立てる政府・文科省、およびそれに追従する各大学管理者たちを弾劾して、今もなお「自治」を信念としている人々の間に連帯を創りだすことは、もちろん必要な取り組みである。 われわれもまた、東大をはじめとする各地の学費値上げ反対闘争に連帯し、当局・警察権力による闘争破壊・学生自治組織の破壊に反対する。 しかし、われわれはこの反対運動を「自治を守れ」という要求の水準にとどめてはならない。 「学問の自由」「大学自治」のスローガンは、憲法において保障されているはずの諸権利を取り戻そうと求めるものである限り、運動に参加した学生と知識人をブルジョア民主主義の水準におしとどめるのだからだ。
 (ちなみに「革マル派」は最近のマル学同論文で「大学のファシズム化反対」を掲げたのだが、中央官僚は今回の「総長対話」にあたり、学生戦線のメンバーに安田講堂前で「〇〇〇大学自治会」の旗を——東C(東大教養部)「学生会議」がもう存在しないため——振り回させたにすぎなかった。 こうしたポンタことかつての中核派官僚本多延嘉ばりの「オールいただき路線」に対して、心ある学生たちが軽蔑の目を投げかけたのは当然のことである。 )
 公権力からの自律性を一応認められているところの諸学問は、しかしそれ自体がブルジョアイデオロギーである。 たとえ反権力的であるような人文学・社会科学ですら、そのように反権力的であることによって、「自由・平等・博愛」なる資本制社会の一角を占めてしまっている。 「自由」なる学問の府において、学生たちは専門知を身につけ、自己の労働力をより高価な商品として販売するよう仕向けられている。 そのような彼ら・彼女らは潜在的な労働力商品であり、あるいはアルバイトで強搾取されていることからして、すでにプロレタリアである。 また研究者は、自らの知的関心に即して「自由」に研究して良いとされながら、同僚間での激烈な競争の中で、自己の研究成果を資本制社会へと「還元」するよう常に促迫されている。 そして事務職員は、管理者の下で今日の大学「改革」を着実に実行するのでなければすぐに閑職へと追いやられるのだし、そもそも多くの人が非正規労働者である。 ブルジョア・エリートとその子どもたちを除けば、大学に関わるみんながプロレタリアートの一員として苦悩を共にしているのである。
 われわれマルクス主義者がなすべきは、学費値上げ反対・自治破壊反対の闘いを推進する中で、大学当局・管理者と対峙する学生・教員・職員それぞれの内にプロレタリア的自覚を促し、階級としての連帯を創造することだ。 かつて学生戦線にいたわれわれは、小ブル的な自己の実存を見つめそれをプロレタリア的なものへと変革しなければならないと指導され、そのように努力してきた。 しかし、そんな思弁的なことが問題なのではない、と私は今思う。 大学で学び働くそれぞれの人々が抱えている苦悩を同じ階級の苦悩として共有し、この現実を共に変えていこうとみんなで意志一致して実践することが必要なのだ。 そのようにして、プロレタリア階級闘争の一環として教育学園闘争を推進するべきであり、またそうすることが十分に可能であるはずだ。

(2024年6月25日 草枕三四郎