斎藤幸平批判 第6回 斎藤の思考スタイルについて

  6 斎藤の思考スタイルについて

 冒頭で述べたことであるが、彼は「別の選択肢を提示するのが理論家の仕事だ」という。
そしてその提示を、われわれは選択することになる。
 斎藤の提示する「四つの未来の選択肢」という図にそのことは端的に示されている。縦軸を権力の強弱、横軸を平等不平等にとる図において、①気候ファシズム②野蛮状態③気候毛沢東主義④脱成長コミュニズムというパネルを提示し、どれを選択しますかというようにわれわれに問うのである。この図自身に見てとれる論理性の無さと平板な思考の問題はさておき、これを提示し選択を問うという姿勢に、彼の「哲学」の貧困がある。われわれが対象を変革すると同時に自己を変革していくということ、すなわちわれわれが自分自身を・物化したものとしての労働力商品であると自覚し、闘いに起ちあがること、己自身を変革していくことを、斎藤は考えないのである。
 このことは、斎藤自身が・疎外された自己を哲学できていないということから生まれる。
 斎藤は、今、己の目の前の、コロナ危機のゆえに学業を断念せざるを得ない学生を、非正規の労働者として働き学ぼうとしている学生が学業を断念せざるを得ない状況を、マルクスが当時の労働者を目の前にして哲学したように、考えるべきではないか。と同時に、大学の先生という立場ではあれ、己自身が疎外された「人間」であることを、哲学すべきではないか。

 (斎藤はその図でなぜ③に毛沢東主義を持ってきたのか。なぜスターリン主義ではないのかという疑問がある。強権的にそして加速主義的に経済建設を進めたのはスターリンであろう。毛沢東はそれを模倣したのである。毛沢東は確かに強権ではあるが、自力更生を掲げて経済建設に失敗している。私は斎藤がスターリン主義との対決を意図的に回避しているように思える。)

 浅学な小論ですが、諸同志をはじめとして、読んでいただいた方の批判を糧に探究を重ねたいと思います。

       (2020年12月4日   潮音 学)