斎藤幸平批判 第5回 価値と使用価値の捉え方について

   5 価値と使用価値の捉え方について

 コモンの量的拡大による「潤沢で公平な社会」への移行という行論を支える理論として、疎外論の斎藤的把握とともに、もう一つ彼の「価値と使用価値」の把握の問題がある。過渡期の労働者国家において・いかに価値法則を廃棄していくのか、という問題は、きわめて困難な問題であるように私は思う。それはロシア革命の現実を場所的に考察しつつ、探究されなければならない。斎藤は価値法則の廃棄については論じないけれども、商品の価値と使用価値のつかみ方に、彼の理解のゆがみのその一端を見ることができる。
 斎藤は、商品において価値と使用価値とが対立しているものとして捉え、この価値の側を、コモンを民主的に管理する公共体、またはそれに集約されるワーカーズコープの生産の拡大をもって減らしていく、と考えているようである。
 だがこの価値と使用価値のつかみ方はおかしい。資本主義経済において商品の価値と使用価値は統一されたものであって、商品の使用価値は価値と統一されたものとして実存する。価値を減じていけばいいと捉えられるものではない。この価値の廃棄は、資本主義的な生産関係の廃棄なくしては実現しえない。たとえコモンを民主的に管理する公共体において、あるいは労働者が民主的に運営・経営する企業において生産するものであっても、それは、価値法則が貫徹された商品である。
 だからマルクスは「共産主義は、経験的には、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能なのであって、このことは、生産諸力の全般的な発展およびそれと関連する世界交通を前提とする。」と論じたのだと私は考える。
       (2020年12月4日   潮音 学)