4 国家=革命論なき「潤沢なコニュミズム」社会への移行願望
斎藤は、自然と人間とが統一された「持続可能な」「潤沢で公平な社会」を創造するものとして、コモンを見いだす。その主体は市民である。労働者は資本に包摂されたものとして、その即自的団結形態としての労働組合は切り捨てられる。労働者に彼が求めるのはワーカーズコープという職場の民主的管理・運営すなわち労働者による企業の経営である。(ワーカーズコープを主体とするということの問題性についてはここでは触れない。)
彼は、このワーカーズコープをも、コモンを民主的に管理する共同体に集約されるものとして考えているようである。だから彼は、アメリカにおける住民闘争、イギリスの環境運動、フランスの「黄色いベスト運動」など彼が社会運動と規定するものに注目し、市民議会などの拡大と連携というかたちでコモンを量的に拡大することによって資本主義からの移行をはかる、ということを彼は考えているのである。
だが彼は、国家については論及しない。コモンの量的拡大を、資本主義を変えるものとして考えている。まさに彼がコミュニズム社会と呼ぶものへの革命なき移行である。私は、資本が資本の利益を貫徹することに抗する市民的な闘いに、また国家が独占資本の利益を貫徹することに抗する種々の社会運動に、決して反対はしない。しかしその延長線上に国家の打倒が実現できるとは考えない。ましてやコミュニズム社会に移行することなどあり得ないことだと私は考える。斎藤には国家=革命論が欠如していると言わなければならない。(この問題については、さらに論を深められなければならないと思うが、今ここではできない)
(2020年12月4日 潮音 学)