没思考、没主体

  ――太宰郷子『「対象認識と価値意識または価値判断」について』(「解放」2632‐2633号)を読んで

 

 筆者、太宰は二七年前に「対象認識と価値判断」という論文を書いたのだという。おそらく現在は、現革マル派においても理論家として指導的立場にたっていると考えられる。太宰は二七年前にはまじめな人であったのだろうと思う。反スターリン主義者=マルクス主義者として自己を変革していこうというパトスをたぎらせて、プロレタリア的人間の論理を、プロレタリア的主体性の問題を懸命に学習し、対決していたのであろうと思う。それは太宰の論文に黒田さんが加筆・補足したことからもうかがい知ることができる。
 だが残念なことに、この論文からは当時あったであろうパトス、理論的な真摯さを感じることはできない。若い反スターリン主義者=マルクス主義者を育てようと、太宰論文に加筆・補足した黒田さんの思いは、無残にも太宰においては実現されずにある。

 

  没思考

 太宰はかつての論文において、黒田さんが「対象認識と価値判断との統一」という表記から「対象認識を価値意識との統一」というように変更されているということ、その理由を考えたのだ、という。そして今日、それが『宇野経済学方法論批判』において旧版(現代思潮社版)では「対象認識と価値判断」となっている箇所が、新版(こぶし書房版)では「対象認識と価値意識または価値判断との統一」と表記されているということについて、考えようとするのである。わざわざ新旧の対照表をつくり紹介するという丁寧さである。また二七年前に黒田さんが加筆・補足した部分を別掲し紹介しているのである。太宰は「黒田さんの加筆内容をかみしめる」としながらも、みずからの思考を深めようとはしない。黒田さんの加筆部分を「⑦では、認識=思惟活動を結果的にだけではなく、過程的にも結果的にも規定して、「対象認識と価値意識または価値判断との統一」と書きあらためたのであろう」と黒田さんの加筆内容を反芻しているだけなのである。「ではなぜ⑧だけ、「プロレタリア的価値判断」を「プロレタリア的価値意識」と書きなおしたのであろうか」と問題をたてるのであるが、これもまた『唯物史観と変革の論理』を引用し「プロレタリアの認識=思惟活動の即自的前提をなすとともに、その認識=思惟活動の全過程につらぬかれる対象変革的な価値意識。この「全過程につらぬかれる価値意識」ということを明確にするために」などと手前勝手に解釈するだけなのである。
 太宰は、対象認識の主体が人間という抽象的なものからプロレタリアという規定に変えられることによって、理論のレベルが変わるのだということを、そして理論のレベルが変わることによって、なぜ過程的な論理展開だけになるのかということを考えないのである。
 太宰は「師黒田寛一の思想と哲学をわがものにする」と言う、しかしその「わがものとする」ということは太宰においては黒田さんの著作を覚え「反芻」するだけになってしまっている。
 学習会の論議が紹介されている。「B つまりわれわれの認識=思惟活動についてどういうように論じるか、論じ方の角度によって規定のしかたがかわるということだね」と。何か理論家然として述べているのであるが、単に黒田さんの叙述を読みかえしているにすぎない。
 なおいうならば、過程的に展開されていること、それを結果からとらえ返すということの論理的な意味を考えようとはしないのである。太宰も学習会のメンバーも、「価値意識」とは、「価値判断とは」、というように黒田さんの叙述をほりさげて考えようとはしないのである。
 「われわれが、われわれのおいてある現実的な場所を変革するために、この場所を対象として認識するのであるが、この認識はわれわれのおいてある場所をわれわれのものたらしめるという価値意識にもとづく判断作用として展開される」という黒田さんの加筆・補足の論述すら太宰は考えようとはしないのである。
 そもそもプロレタリア的主体性がどのように創造されるのか、おのれのうちにどのようにして創造していくのか、という問題であろう。その主体的立場にたって黒田さんの理論的追求とその結果を媒介として、おのれ自身の主体を創りだすということが抜け落ちてしまっている。だからこそこの論文には何らのパトスも感じることができないのである。
 彼らはよく「追体験的に」という言葉を使う。それ自身は間違いではない。しかし彼らは、太宰は、その言葉がどういうことなのかということを、考えたことがあるのだろうか。
 「思考する黒田さんに身をうつし入れて」ということ。それは私のようなものにとっては、不可能と言っても言い過ぎではないと思う。しかし黒田さんがその場所において、何にたいして、何を考え、どう思考しようとしていたのか、何を創造しようとしていたのかを、私が今おいてある場所において考え、おのれ自身の意志を創りだすという主体的な営みをおのれに課さないかぎり、いま生きるおのれを、この現実の場所を根底から変革しうるマルクス主義者=反スターリン主義者としておのれ自身を創りだすことはできない、と考えている。太宰はそうしたパトスを完全に喪失してしまっている。

 

  主体の創造とは

 そもそも太宰は、人間の実践的活動の一契機をなす認識=思惟活動そのものはどういうものであろうか、ということを考えない。そこから「対象認識」とは、「価値意識」とは、「価値判断」とは、ということを捉えようとはしない。黒田さんの思考を追体験ではなく、結果からとらえようとしているのである。
 物質的世界の一契機であるわれわれ人間が、自己に相対する物質的対象を、われわれの内的な欲求・衝動を発条として、われわれの物質的な働きかけによって、変革する、という実践的な立場にたったとき、対象は、われわれの認識対象として感性的な対象として措定される。この感性的対象を、人間は生命体としての人間のもつ五感といわれるものを駆使し認識するのであるが、同時に思惟活動をとおしてそれをつかみとるのである。このつかみとったものこそ概念にほかならない。この認識の底、概念の内容は、実践の目的に規定されるのであって、概念の底・内容はさらに深化させられるのである。
 「変革する」という実践的立場にたっての対象認識には、同時に「われわれにとってのものたらしめる」という価値意識が判断作用によって貫徹されているのであって、つかみとられた概念には価値意識が価値判断として内在化されているのである。この価値判断を内在化している概念が新たな価値意識、判断力の契機となるのである。他方、われわれが感性的対象を変革するということは、同時に変革主体たるおのれを変革主体たらしめるという内省的な意志のもとに自己を変革するということなのである。すでにおのれのうちに蓄積してきた諸概念、判断力、そして概念を深化させてきたところの思惟力=思弁力。これらを貫徹しようとする意志力。これらがわれわれの実践によって螺旋的に高められていくのである。また、この実践において、われわれはわれわれ自身を対象化するのであって、この実践の過程における感情的なものをも同時に内在化するのである。このように私はいま考えている。
 このような人間実践の一契機をなす認識=思惟活動をとらえようともせず、黒田さんの思考の過程を考えようともせず、「表記が変わっている」という字面を追うだけで解釈しようとする太宰は、太宰そのものの主体に問題があると思う。太宰は、いま一度、黒田さんが唯物論における人間主体の問題をいかに思考し、実践的唯物論を深化したのか、また宇野経済学の方法論の批判としてプロレタリアの主体性の問題がなぜ提起されているのか、という根本的なことを考えるべきである。

 

  同志加治川にたいする批判から

 われわれは「探究派」としてコロナ危機との闘いを組織するために、労働者に向けた情宣活動を展開していた。その情宣パンフに同志加治川から辺見庸の散文を引用したものが投稿された。だが辺見の散文は、マルクス主義反スターリン主義を背骨とするわれわれにとって、情宣活動に引用しうる内容ではなかった。小ブルジョア的なニヒリスティックな内容に、それを引用しようとした同志加治川に、多くの同志から批判があがった。しかし同志加治川はその批判に照らしておのれを省みようとはしていない。私も同志加治川にたいして、マルクス主義者=反スターリン主義者としての主体性にかかわる問題として批判したのであった。その一部に次のように書いたのである。
 「私は、加治川さんが辺見の何処かにひかれること自体不思議でもないし、それが変質とは思わない。私も永井浩の詩(一九七一年〇〇大学文集)に引き寄せられた。人間の感性や意志、理性ととらえられているものは、生命体としての肉体の活動と、資本主義的生産様式に規定された社会的人間関係のなかでの実践によって形成され育まれる。また黒田さんの言うようにマルクス主義者=反スターリン主義者を志すまえに蓄積された教育やイデオロギー、それらの様々なものが、幾重にも幾重にも重なり沈殿し融合して、自己の感性・意志・理性とよばれるものがつくりだされ、人間的資質と言われるものを形成する。マルクス主義者=反スターリン主義者はその土台の上にマルクス主義者=反スターリン主義者としての主体性をつくりだすことを志す。沈殿していたものが、何らかの要因によって引っ張り出されることは絶対にある。加治川さんが言うように、ニヒリズムを経験しないマルクス主義者=反スターリン主義者はいないだろう。既成のものにたいして、何らかの形で疎外感をもち否定感をもってそこにたどり着くわけだから。問題は、引っ張り出されたもの、あるいは、実践に、感性に、思考の傾向に現れる人間資質と言われるもの、土台となっているものを、形成しようとしているマルクス主義者=反スターリン主義者としての主体性をもって、どのように捉え、否定的にあるいは肯定的に、過去的なものを現在的なものへとつくり直していくのかであると思う。」と。
 ここではマルクス主義者=反スターリン主義者としての主体性をいかにつくりだしていくのかということを述べたのである。マルクス主義者=反スターリン主義者たらんとして決意しその主体性を形成していこうとする以前と以後の問題を同志加治川に提起したのである。
 黒田さんは「主語面と述語面とに分割される以前の「歴史的自然」を具体的に賃労働者のそれとしてとらえるならば、それはプロレタリアとしての即自的価値意識であるといえる。」と述べている。プロレタリアはプロレタリアとしての階級的自覚を、階級闘争のただなかで、マルクス主義を、そのイデオロギーを媒介としてかちとりながら、向自的なプロレタリアとして自己をたかめていくのであるが、この過程において、内在化し沈殿させていた即自的なプロレタリアとしての価値意識を、その内省力をもって場所的につくりかえていくのである。(先に述べた「螺旋」はプロレタリアという具体的規定があたえられたときにはじめて螺旋になるのであって、人間という規定においてとらえられる認識=思惟活動の形式的な構造は円環としてとらえられるのではないだろうか。であるからプロレタリアの認識=思惟活動は過渡として過程的にのみ表記されていると私は考えている。)
 変革主体たるおのれをつくること、それは決してたやすいことではない、と思う。マルクス主義者=反スターリン主義者として生きようとするおのれは、それまでに蓄積された価値判断を内在化し、おのれ自身をも対象的にとらえるとともに、感性的なものをもともに内在化しているのであって、そのうえに現代世界を根底から変革し、労働者のそして人間の解放をかちとるという新たな価値意識=「マルクス主義者=反スターリン主義者」としての価値意識を、おのれの内に貫徹するのである。そう意志するのである。だからこそわれわれは、つねに自己否定的でなければならないのである。私は、ここに反スターリン主義者としてのガイストがあると思っている。
 同志加治川よ、同志加治川よ。そうは思わないか。

 

  没主体――太宰郷子へ――

 太宰よ、あなたは「学習会のメンバーはかつての学習会のメンバーとまったく異なっている」とわざわざ( )を付けて書き添えている。私は、ふと太宰は何をアナロジーしているのだろうか、と思った。あなたを指導した人がいなくなり、いまは、あなたが指導的立場にたって、若い活動家と活気あふれる学習会を開催している、と言いたいのだろうか。そうではないだろう。そうであればこのような文章にはならない。二七年前のおのれとその論文に黒田さんが加筆・補足してくれたという喜び、そして当時のパトスあふれる学習会を、いまのおのれを省みてアナロジーしているのではないだろうか。
 ある現革マル派組織成員の老活動家が、「革マル派の組織成員は主体性を失ってしまった。指導部の指示に没主体的に唱和することが組織成員のメルクマールになるほど、それしか許されないほど、革マル派の組織は変質してしまった」、と言う。そして組織内ニヒリズムにおちいっているおのれを自覚している、と言う。あなたはその人よりも「利口」かもしれない。なぜなら指導部が気に入るように「逝去されて十四年、われわれは、日々、黒田さんに教えられ導かれて精進するのだと実感する」、とこの論文を締めくくるのだから。もはや黒田寛一をイエスキリストのごとく表現しても何らの否定感も感じなくなってしまっているのだろう。
 太宰よ、プロレタリアの主体性の問題を論じながら、なぜおのれの党の現実を直視しようとはしないのか。「解放」紙上で展開されている反米民族主義丸出しの論述、反日民族主義を掲げる文在寅を韓国プロレタリアートの味方などとし、韓国国民に向かって日本の労働者階級として自己批判するなどという被抑圧民族主義への転落、それをあるブログで批判されるや沈黙するという政治主義。あなたの論文と同じ第二六三二-二六三三号に掲載されている青島路子論文を読んでみよ。中国のプロレタリアートをあるときは「農民工・労働者」と表記し、また他の個所では「北京官僚のもとに中国勤労人民は縛りつけられ」というように、スターリン主義経済下の「勤労人民」という表記を、なんの疑問を感じることなく使っているのである。習近平のすすめる「一帯一路」政策にもとづき、アジアやアフリカに進出している中国資本のもとで過酷な労働を強いられている労働者はいったいどう規定されるのだ。『資本論』の始元をなす商品が労働力商品として意義をもつように、われわれはそこにはたらく労働者人民にわが身をうつしいれて、その根底から転覆すべき政治経済構造を分析するのである。このいわば始元となるべきもの、変革の主体となるべきものが、賃労働者であるのかそうでないのかすら規定できない、矛盾に満ちたこの論文を、あなたはどう考えるのだ。いや、あなたは考えないのだ。
 関東のある労働争議において、現革マル派指導部は、国家権力機構の一翼を担う裁判所におのれの願望を投影し「復職なき金銭和解反対」をふりかざし、労働組合員を引き回したあげく、みごとに破産した。だが現指導部はその指導について一片の自己批判をすることなく、一人の官僚を処分することで終わらせようとしたのである。そいてあろうことかこの闘争の過程で指導部を「フラクションとしての労働運動に陥没している」と批判した同志を組織的に排除したのであった。
 太宰よ、これがあなたの組織の現実である。あなたはどう思っているのだ。いや、あなた何も思わないのだ。「見ざる聞かざる言わざる」、これがあなたの現実の姿ではないのか。その現実と対決することを放棄して、あなたは何の学習をしているのだ。あなたがいま、観念的な世界で「師黒田寛一」と言う黒田寛一は、現実の世界でスターリン主義からの決別を哲学し、終生、反スターリン主義の理論と組織と闘争の創造におのれを貫いたのではないのか。この黒田寛一のガイストをおのれのものとすると意志することぬきに、そして、あなたの現実と対決し太宰郷子のなかに黒田寛一の「哲学、思想」を現実的な学として創りだすことをぬきにして、いかに黒田寛一の論述の字面を解釈しようとしても、それは黒田寛一にたいする冒瀆以外の何ものでもないのではないか。太宰だけではない。多くの革命的マルクス主義者が、あなたと同様に「見ざる聞かざる言わざる」になり、組織的ニヒリズムに陥りながらも、ただ組織成員として存在しているということをもってのみ、自己にたいする免罪を与えているのであろう。それは黒田寛一を冒瀆するだけでなく、マルクス主義者=反スターリン主義者として生きようとしてきたおのれ自身を冒瀆するものではないか。
 太宰よ、「組織哲学」なるものを振り回し、党そのものを物神化しスターリン主義と同質のものに転落しているおのれの党を見つめよ。「日々、黒田さんに教えられ導かれて」などと、あろうことか黒田寛一を神格化するようなものを書いているおのれを見つめよ。
 そこからあなたの反スターリン主義者としての再生が始まる。それは、あなたの師黒田寛一があなたの論文に加筆・補足した思いを、あなたのなかに実現することではないか。
 太宰よ、多くの革命的マルクス主義者よ、おのれのなかに深く深く、しかし、しっかりとして沈殿している反スターリン主義者=革命的マルクス主義者としての価値判断、これを内在化したおのれのあらゆる諸能力を、革命的パトスを、コロナ危機にあえぐ現代世界を根底から変革するために、全世界の労働者・人民とともにたたかうために、呼び起こそうではないか。

 参考文献 黒田寛一『宇野経済学方法論批判』(こぶし書房)
      北井信弘『決断の根底』(創造ブックス)
      北井信弘『変革の意志』(創造ブックス)

               (二〇二〇年九月五日 西知生)

 

 〔編集部注 同志西は、この論文において創意的で創造的な追求をおこなっている。同志諸君および読者の皆さんがこの追求を深く検討することを望む。〕