『物質の弁証法(ヘーゲルとマルクス)』(黒田寛一著作集第一巻)刊行にあたって
「刊行委員会」名での
「プロレタリア解放のために全生涯を捧げた黒田寛一」という文章に次のような展開がある。
「黒田において、おのれのどん底とプロレタリアのどん底とがまじりあい合一化され」た、と。
しかし、同志黒田は、
「疎外態としての私のこの自覚は、同時に、私のどん底をつきぬけてプロレタリアートの疎外された実存につきあたり、まじりあい、合一化された」と、(『読書のしかた』「終わりの初めに」)書いている。
この違いは、この文章の本質を鮮やかに描き出している。同志黒田の疎外態としての自覚が、「どん底がつきぬけ」たということの意味について、そして「プロレリアートの疎外された実存」について、哲学したことのない者の言葉である。すなわち、同志黒田の実存追求について、彼の思想・哲学について、何ら理解していない者の文章である。
いや、このような恥知らずな文章を掲載して恥じない「革マル派」は、同志黒田の思想・哲学の無理解を越えている。
同志黒田の思想・哲学そのものの破壊を公然と明らかにしたのである。
(二〇二〇年九月一四日 黒島龍司)