「資本の過剰という分析について」という同志松代からの批判を受けて考えたこと

 同志松代から以下のような批判を受けた。
 「資本の過剰にかんする本質論的規定(本質論のなかの現実形態論)はそれでいいけれども、この規定は、現下の経済的現実には直接的には妥当しない。諸企業にかんして、需要の減退から生産の縮小が生じているということではない。政府が労働者を職場に来させるな。とやっていることから、生産の縮小が生じている。(また同時に買いに行くな、遊びに行くな、とやっていることから需要が減退している)コロナウイルス感染拡大を防ぐために政府が実施した措置、この政治的な要因にもとづいて生産、流通、消費の縮小が一挙に同時に生じている。この意味で資本と労働力が一挙に同時に過剰となったのである。」

 いま一度、私が同志松代におこなった質問を整理する。
 ①コロナウイルス感染拡大によって需要が激減し、かつ感染防止のために生産自体を縮小していった。こうして生み出された事態を本質的には資本の過剰の露呈と把握できる。
 ②質問の主旨は、資本の過剰というのは、産業循環との関係では、好況時に資本が直接的生産過程の主客両契機の技術化(資本の有機的構成の高度化)をするのではなく、生産を横へと拡大するので相対的過剰人口を吸収し労働力が不足してくる。こうすることによって労賃が上昇し利潤率が下がり始める、とともに、金利率が上昇する。このことが在庫の増大によっておおい隠されていたのであったが、ついに追加資本が利潤を生まなくなる(現実的には、利子率が利潤率を上回る)。この局面を資本の労働力にたいする過剰と規定する。
 ③私はこう理解しているので、今回のコロナ危機というのは、通常の産業循環においての好況時の資本のビヘイビアの結果としてもたらされたものではない。しかし、突然の感染拡大により需要が激減することに規定されて生産が収縮し、このことにもとづいて、利潤率が下がる。この状況は、資本が労働力にたいして過剰に陥った、ととらえることができるのではないかと思う。
 以上のように質問した。
 いま整理した私の質問にたいして、同志松代から批判をうけた点を私がうけとめると、次のようなことではないか、と思う。私のうけとめを述べる。
 まず①丹波が述べている「資本の過剰」の理解については、本質論的規定としては正しい。ただし、本質論的規定と言っても、丹波の述べているのは「本質論における現実形態論的規定」である。しかし、丹波にはその自覚がない。
 ②それとも関係して現下の経済的現実を分析しようとしたときに、この本質論における現実形態論的規定を無媒介的に(=直接的に)妥当させようとしているが、それはうまくない。なぜなら、いま生み出されている事態にかんしては、これを、資本の過剰と労働力の過剰の現実形態をなす、というように存在論的に把握することができるのであるが、『資本論』の諸規定と、これを宇野弘蔵が批判的に発展させて解明した産業循環論、すなわち、産業循環において資本の絶対的過剰生産がどのように現実化するのか、という過程的構造の法則的把握を、生起している経済的事象を分析するために・われわれが適用する場合の前提として、現実を織りなす諸条件が、恐慌論的にアプローチするべきところの対象的現実とは異なる。つまり、新型コロナウイルスの感染拡大に直面して、これの資本制社会への打撃を抑え込むために政府がロックダウンをはじめとして「会社にいくな。三密を避けろ。移動するな。」と制限を加えたこと、この政治的な規制・統制にもとづいて、生産(生産、流通、消費)が急激に縮小した、という現象が生み出されたのだからである。
 ③そして、今回生み出されている事態は、丹波が言うように、経済的現実を経済学的に把握すれば、それは「資本の過剰と労働力の過剰の一挙的露呈」といえる。しかし、その原因を、過程的に、政治経済的要因つまり政府の政策とその遂行の結果として措定し、具体的に分析するべきである。その意味で、生みだされてある経済的現実の経済学的把握としては本質直観的には恐慌と酷使しているとみえるのであるが、それが生起した根拠は、産業循環にもとづくものではなく、コロナウイルス感染という事態とこれにたいする各国政府の政治的対応にもとづくのである。その意味でこれは初めての事態である。そのように、生起している事態の性格についてわれわれ認識主体が判断し、それにふさわしく、恐慌の発現形態の現実形態論的解明を、つまり産業循環論の規定を、諸条件の分析の弱いままに妥当させる(あてはめる)のではなく(丹波の場合)、コロナ危機の具体的諸事態を、政府の政策とその物質化の結果として、経済的下部構造(政治的反作用をうけたところのそれ)を具体的に分析するべきである。そして、その際に分析主体としてのわれわれが、生起している経済的現実をみて、本質直観として「資本の過剰と労働力の過剰の露顕」としてつかむのは、直観的推論としては、そうであるのではないか。そのうえで、直接的に妥当させている、という丹波の把握が方法的に誤りだ、というように考える。(いまの経済的現実にかんしては、その直接的把握としても、「資本が労働力にたいして過剰に陥った」とはいえない。労働力もまた直接的に過剰なのである。丹波のこの現実把握に、方法的誤りが端的にしめされている。)

 さらに、資本の過剰、すなわち、「資本の絶対的過剰生産」をわれわれは本質論的にとらえるということは、どういうことなのか、について。
 ①「資本の絶対的過剰生産」についての『資本論』第三部における規定。「資本制的生産の目的のための追加資本がゼロとなれば、資本の絶対的過剰生産が現存するであろう。しかるに、資本制的生産の目的は資本の増殖、すなわち、剰余労働の取得であり、剰余価値、利潤の生産である。……」(『「資本論」と現代資本主義』一八五頁から重引) 
 ここでマルクスが論じているのは、資本の過剰を、だから、恐慌の本質規定の経済学本質論における本質論的規定。(本質論における本質論)
 ②これとの関係では、宇野は、この資本の過剰がどのような過程をとって現実化するのかを、産業循環をとおして発現するものとして解明した、といえるのではないか。これをわれわれは、資本の過剰の「本質論における現実形態論的解明」と呼ぶのではないか、と私は推論的に考えた。
                      (二〇二〇年七月四日 丹波 広)