「資本の過剰」という分析について

 新型コロナウイルス感染症の蔓延という社会的状況に規定された現下の経済的現実を、「資本の過剰」にかんする本質論的規定(よりたちいって言えば、産業循環を明らかにするところの・本質論のなかの現実形態論的規定)を適用して分析してよいのか、という質問をうけた。すなわち、いま、需要も生産も減退し、生産設備の過剰というかたちで資本の過剰が現出し、労働者が首をきられるというかたちで労働力の過剰があらわとなっているのであるが、これを、産業循環における恐慌時を概念的に規定する、「資本の過剰とこれにもとづく労働力の過剰」と規定してよいのか、ということである。
 この規定は、現下の経済的現実には、直接的には妥当しない、と私は考える。
 いま、諸企業にかんして、需要の減退から生産の縮小が生じている、ということではない。政府が労働者を職場に来させるな、とやったことから、生産の縮小が生じた。(また同時に、商店に買いに行くな、遊びに行くな、とやったことから需要が減退した。)新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために政府が実施した措置、この政治的要因にもとづいて、資本のもとでの生産・流通・消費の縮小が、一挙に同時に生じたのである。この意味で、資本と労働力とが一挙に同時に過剰となったのである。このことは政治的要因にもとづくのであって、産業循環の論理を直接的に適用して分析することはできない。現下の経済的現実を分析するためには、産業循環にかんする諸規定は直接的には適用限界をなすのであって、もっと具体的に分析しなければならない。いま、資本の過剰と労働力の過剰との同時的惹起というように、恐慌と同じような現象がおきているのであるけれども、これは、産業循環にもとづくものではないからである。
 飲食店が店を閉める、というのも、需要が減退したからではない。政府が閉めろ、と命令したからである。飲食店は、料理を提供するというサービスを生産し販売し、それを客が消費するのであるからして、店を閉めるということは、そのサービス商品の生産・販売・消費の停止を意味する。
 いまおこっている事態は、これまでにない新たな事態なのであり、そうであるからして、政治経済学的な諸規定を現実的に適用して、具体的に分析しなければならない。一定の規定を現実に妥当させて・これを規定する、というわけにはいかない。
 いま起こっている事態は、産業循環にもとづくものではない、というようにわれわれが把握することそれ自体、われわれは、直面する経済的現実を、産業循環にかんする諸規定を適用して分析するがゆえになしえているわけである。しかし、このことは、この現実をわれわれが産業循環にかんする諸規定をもって直接的に概念的に規定することとは、異なるのである。       (二〇二〇年七月三日 松代秀樹)