革マル派中央指導部批判第4弾       同志黒田寛一のレジメの政治的利用

第4弾

 【二〇一三年に「解放」紙上に、「公務労働についての一考察」という山野井克浩署名の論文が掲載された。それは、その前年におこなわれたところの、Aさんという革マル派中央指導部の常任メンバーの講演を批判したものであった。その批判はまったく正しかった。Aさんは反省せず、ひらきなおっているようであった。中央指導部は、この山野井論文の「解放」掲載をもって、自己保身的に、論争の幕引きをはかったのだ、とおもわれる。
 Aさんの講演内容を今日的に検討するならば、それは、同志黒田寛一のレジメのほんの一部を政治的に利用したものだ、と推察される。そのことをえぐりだした論文を、第4弾として、ここに公表する。――2021年6月18日 松代秀樹】

 


 同志黒田寛一のレジメの政治的利用


 一 前提的推論


 二〇一二~二〇一三年当時の革マル派中央指導部は、一九八〇年代前半いらい組織内部で継承されてきたところの、一九八三年に私が執筆し笠置高男という筆名で発表したサービス労働の経済学的解明を否定し、筆者である私そのものを葬りさるために、同志黒田寛一の公務労働にかんするレジメ(一九八〇年代前半に執筆されたものと推定される)を政治的に利用したのだ、とおもわれる。山野井克浩論文の註に記載されている「Aさんの講演」なるものの「構成」と、同志黒田寛一の「公務あるいは行政サービス労働について」という表題のレジメの構成とは、その表現までもがいっしょだからである(とりわけBの諸項目)。


 前者は次のようになっている。

 「はじめに
A 公務とは何か
 (1)芝田進午の「国家による公務の包摂」論
 (2)芝田進午批判
 (3)国家の諸機関と地方自治体との関係をどう捉えるか
 (4)ブルジョア的共同事務とは何か
B 公務労働(行政サービス労働)の基本構造
 (1)サービス労働の本質論のレベルでの規定
 (2)サービス労働の段階論的アプローチ
 (3)行政サービス労働そのものの構造」(「解放」第二二八六号、山野井克浩論文の註)

 

 後者の同志黒田寛一のレジメは次のものである。その全文を引用する。

 「公務あるいは行政サービス労働について

                         黒田寛一

  A 公務とは何か
      これを芝田との関係でやる

 

🔹現存ブルジョア国家および地方自治体の関係をやる。
 国家機構と自治体の関係、(「資本制自治体論」ソ連製)

🔹一般化して、公務または行政サービス労働とはなにか。
   |
 ブルジョア階級国家によるブルジョア的共同事務の遂行。

🔹階級国家の性格を論じる。
レーニン……弾圧的機能と行政的機能(『背教者カウツキー』)
毛沢東……民主と独裁
ジェルラターナ……国家の二重性
公的権力を遂行するために使われている労働者――下請け的(芝田〔進午〕)

公とは何かを考える Nationを考える。国家、国民、民族。
公的権力または国家の公的側面――この公じたいの階級性を論じないと駄目だ。(〔大藪〕龍介は共同事務の資本制的形態とやっている。)

ブルジョア的共同事務それ自体は何か。
経済的には、ブルジョア支配階級の生産諸条件の維持。
  |
なぜ必要か。根拠。幻想的共同性。これが本質だということ。この本質を根拠のところでやる。この本質がないと共同事務が人民のためのものとなっていく。ブルジョア的共同事務 & □□□の遂行。……これを国家論的に論じる。と同時に経済学的には、資本制生産を資本制生産として維持してゆくためのブルジョアジーの出費(『経済学批判要綱』)

 

  B 公務または行政サービス労働それ自体

 

(α)サービス労働の本質論のレベルでの規定

 剰余価値を生産するかしないか――生産的労働、不生産的労働。
 サービス労働は不生産的労働。不生産的労働としてのサービス労働の規定において、物的なものをつくらない、労働それじたいを売る、ということを論じる。マルクスは生産的労働――①②とやっている。これは結果解釈なのだ。不生産的労働としてのサービス労働の性格を論じるものとして、「ものをつくらない……」をやればよい。

(β)サービス労働の段階論的アプローチ

 

(α)は総資本=総労働のレベル。(β)は諸資本=諸労働のレベル。労働の異種性が問題となる。―→このレベルでもって、行政サービス、教育サービス、医療サービス労働が扱われる。原理論で不生産的労働として扱われるものを生産的労働として扱う。」 運輸サービス労働――原理論では捨象。生産物の価値実現にかかわるかぎりで論じる。
運輸・保管――資本の空費。―→マイナスをマイナスする。
資本の回転―→商品資本の自立化―→商業資本
商業資本に雇われているプロ=商業サービス労働、これと行政サービス労働との違い。
    (cf『共産主義者』第八六号の「教育労働論」)

 

(γ)行政サービス労働および行政サービス労働者そのものの構造

 その場合に重要なこと
① 国家(自治体)に労働者が雇われる―→公務員となる。
  この雇う主体(国家、自治体)と雇われる労働者との雇用関係。
② 行政サービス労働過程そのものの構造。
  OAなど〔の〕手段。主体=プロ。対象―住民。
③ 住民が行政サービスを受ける構造。
  代金を取ったりするが基本はタダ。(住民を主体に)
④ 公務員労働者の賃金――その源泉は税金(地方税)、補助金
⑤ 公務労働者は、この労働過程において、不払い労働を雇用主たる国家・地方自治体に取得されてしまう。(剰余労働を取得される、と言わない方がよい。)このことは直接的生産過程における搾取との類推で論じられる。
 芝田(『公務労働』)「税務労働者は搾取されていない」――反撥くった。観念論なのだ。原理論的アプローチと段階論的アプローチをわけていない。段階論的アプローチの場合でも、直接的生産過程における搾取と、(これとの類推による)不払い労働の取得・収奪ということの区別がないということ。」(『革マル派 五十年の軌跡』第四巻、二〇一六年刊、五一五~五一九頁。図は略)

 

 

 山野井論文で、二〇一二年夏に「公務労働」についての講演をおこなったと紹介されているAさんは、『革マル派 五十年の軌跡』第四巻を編集する過程において、同志黒田の右のレジメを見ていたのだ、とおもわれる。このレジメには「□□□」というように判読できなかったことをあらわす記号があることからするならば、同志黒田が手書きで書いたものを、編集に携わるメンバーたちが解読する作業をやったのであり、一定の指導的メンバーたちは解読されたものを見ることができた、と考えられるのである。
 以上が、前提的な推論である。


 二 「剰余価値を生産しない不払い労働」の設定


 山野井論文において紹介されているAさんの主張を見ると奇妙なものがある。それは次の主張である。
 「公務労働者は剰余価値を生産しているとはいえず、不払い労働を自治体に取得されているのであって、行政サービスの生産過程で搾取されているとは言わないほうがよい」。
 これである。
 奇妙なのは、「剰余価値の生産」したがって「剰余労働」、これとはことさらに区別するかたちにおいて「不払い労働」という規定がもちだされていることである。そして、このことをもって、公務労働者は搾取されているのではない、とまで宣言されているのだからである。
 これは、公務労働者であるわが同志たちにとっては、びっくり仰天であったことであろう。この私は、自己の疎外された労働をみつめ、このおのれを、国家・自治体によって搾取されているプロレタリアとして自覚してきたのに、この自覚そのものが指導的同志によって否定されたのか、というように、わが同志たちは、落胆とも怒りともつかない思いに駆られたことであろう。わが同志たちは自己存在を否定されたように感じたことであろう。
 Aさんは、なぜ、こんなことを言ったのだろうか。なぜ、こんなことを言い得たのだろうか。なぜ、Aさんは、こんなことを言うだけの自信と勇気をもちえたのだろうか。
 私は、この疑問を、――わが探究派の同志から「こんな文書がある」とそのコピーをもらい――同志黒田のレジメを見ることを基礎にして推論し、解決することができた。
 そのレジメには、「公務労働者は、この公務労働過程において、不払い労働を雇用主たる国家・地方自治体に取得されてしまう。(剰余労働を取得される、と言わない方がよい。)」「不払い労働の取得・収奪」というように書かれてあったからである。
 このことを文献的基礎にして推論するならば、Aさんはこの記述を見て、これを使えば、自分たちを執拗に批判してくる・あの憎っくき松代=笠置をやっつけることができる、「公務サービスという商品の生産過程は労働過程と価値増殖過程との統一をなす」という笠置論文の規定を否定することができる、というように、政治的に頭をまわしたのだ、とおもわれるのである。そして、同志黒田の口真似をして、「公務労働者は、搾取されているとは言わないほうがよい」とまで、彼は言ってのけたのだ、と推察されるのである。
 けれども、俺が松代=笠置をやっつけるぞ、と政治的野心を燃やした後、Aさんは、自覚したのか無自覚だったのかはわからないが、困ったのだ、とおもわれる。同志黒田のレジメでは、「剰余労働を取得される、と言わない方がよい」というようにきわめて弱い表現がとられ、「剰余労働を取得される、と言えば誤謬である」とは書かれておらず、しかも、「不払い労働の取得・収奪」と言わなければならないゆえんがどこにも書かれていなかったからである。
 このゆえに、Aさんは、このレジメを探して、「不払い労働の取得・収奪」ということがでてくる「B 公務または行政サービス労働それ自体」の部分ではなく、その前の「A 公務とは何か」の項のなかから「ブルジョア階級国家によるブルジョア的共同事務の遂行」という言葉を見つけだし、無謀にも、〝よし、これを、公務労働者は剰余労働を取得されるのではない、搾取されているのではない、ということの理由づけにしよう〟と考えたのだ、とおもわれる。彼は理論外的衝動に駆られていたのだ。彼の思惟の結果から見れば、彼は、自己の政治的野心を実現するためには、アプローチの違い、すなわち、「A」の部分が公務(行政サービス労働)の国家論的解明をなし、「B」の部分が公務(行政サービス労働)の経済学的解明をなす、という・このアプローチの違いを無視抹殺することなど、へっちゃらであったのだ。アプローチの違いを考えるという論理的思考法を、彼はかろやかに捨て去っていたのだ、と推察される。
 このことは、山野井論文で紹介されているAさんの講演内容を見るとよくわかる。
 Aさんは言う。
 「自治体労働をサービス労働として捉えるという提起は正当であると思うが、「自治体サービスの生産過程は労働過程と価値増殖過程との統一をなしている」という展開は問題である。これでは自治体は価値増殖を目的とする資本と同じことになり、ブルジョア国家が公務(=ブルジョア的共同事務)を遂行することの独自性が位置づかなくなる。」
 自治体サービスの生産を資本の自己運動として明らかにするのが経済学的解明(段階論的アプローチをなすそれ)であるにもかかわらず、「……資本と同じことになる」というようなことをあたかも重大なことを言ったかのように押しだしてハッタリをぶちかまし、「ブルジョア的共同事務の遂行」という国家論的規定を対置しているのが、Aさんなのである。
 同志黒田が「B」の部分でのべているところの方法論的提起、すなわち、「このことは直接的生産過程における搾取との類推で論じられる」という規定、自分にとって都合の悪い・このような提起を無視することもまた、Aさんはへっちゃらなのである。
 先の引用部分につづけてAさんは言う。
 「マルクスが「租税、つまり政府のサーヴィスなどの価格」とのべているように租税は政府サービスの価格としての意義をもつといえる。けれども、「行政サービス商品の代金としての租税が徴収される」というように論じるわけにはいかないと思う。ブルジョア国家は資本制生産の維持・発展を根本的目的としてブルジョア的共同事務としての公務を遂行するのであり、そのための財源として租税を強制的に徴収する。」
 この言辞は、俗世間で俗人が、相手の言っていることを認めているかのように見せかけて、体よくこれをいなし、自己の主張を押しとおす言い回しと同じである。Aさんは、マルクスの規定を継承しているかのように見せかけるために、マルクスの言葉を引用し、これに「としての意義をもつ」という論理的な言葉をくっつけてうすめ、うすめたその規定を「といえる」と認めたうえで、「けれども」という接続詞でもって、それまでの展開をくるっとひっくりかえし、冒頭に引用したマルクスのものと同じ規定を全面的に否定しているわけなのである。そうしておいて彼が対置しているのが、なんとかの一つ覚えのように繰りかえされている「ブルジョア的共同事務の遂行」なのである。
 彼は「租税を強制的に徴収する」ということを何か重大な規定ででもあるかのように押しだしているのであるが、それの経済学的意味は、国家は行政サービスを人びとに押しつけたうえで、その代金として租税を強制的に徴収する、というだけのことである。
 以上みてきたような、俗人的言い回しを、何の恥じらいもなく駆使して、マルクスの諸規定を公然と否定したのが、自分の政治的目的を実現するために頭に血ののぼった、二〇一二~一三年当時の革マル派中央指導部を構成するメンバーなのである。


 三 同志黒田寛一の一つの間違い


 では、なぜ、同志黒田寛一は、それにつづけて「このことは直接的生産過程における搾取との類推で論じられる」と書いているにもかかわらず、「公務労働者は、この労働過程において、不払い労働を雇用主たる国家・地方自治体に取得されてしまう。(剰余労働を取得される、と言わない方がよい。)」と記したのであろうか。
 同志黒田が一九九三年に執筆した「教育労働者たちへ」において、「すでに『共産主義者』第八六号でも、また松代秀樹著『資本論と現代資本主義』第Ⅱ部でも明らかにされていることなのだが、……」としつつ、「教師として学校経営者に雇用された教育労働者は、教えること=教育実践をすることをつうじて、雇用主=学校経営者のために剰余価値を生産する」(『革マル派 五十年の軌跡』第四巻、五〇七頁)と明確に書いていることからするならば、彼が、サービス労働にかんして、一般的に、サービス労働者が剰余労働を取得されるとすべきではなく、不払い労働を取得されると言うべきである、と考えていたとは、とうてい思えない。
 では、彼が公務労働にかんしてはそう考えたのはなぜなのか。
 この謎を解く鍵は、次の論述にある。

「運輸サービス労働――原理論では捨象。生産物の価値実現にかかわるかぎりで論じる。
 運輸・保管――資本の空費。―→マイナスをマイナスする。」(前掲書、五一七頁)
 ここで、運輸・保管にかんして「マイナスをマイナスする」と規定しているのは誤謬である(「資本の空費」にかかわる問題はここではふれない)。
 運輸・保管にかんしては、原理論で論じられる。
 マルクスは『資本論』の第二巻(第一篇第六章)で、流通費として、純粋な流通費・保管費・運輸費の三者を論じている。純粋な流通費は、商品の売買にかかる費用であり、資本家が取得する剰余価値からの支出をなす。すなわち、それは剰余価値からのマイナスをなす。これにたいして、保管費や運輸費は剰余価値からのマイナスをなすのではない。
 生産された商品の価値が実現されるためには、商品体が生産地から消費地に運ばれなければならない。このようなものとしての運輸業が、原理論すなわち資本制経済本質論においてとりあげられるのである。このような商品体の輸送に費やされる労働時間(運輸手段に対象化されている労働時間の可除部分と運輸労働者が支出する労働時間の両者をふくむ)は、価値として、輸送される商品の価値に追加される。したがって、運輸のための費用は、資本家の取得する剰余価値からのマイナスをなすのではないのである。運輸業はこのようなものであるがゆえに、マルクスは、これを、流通過程に延長された生産過程と規定しているわけである。
 保管費も同様である。商品の価値を実現するために必要な保管のための費用は、商品に価値を追加する。商品流通の停滞にもとづく保管のための費用は、商品に価値を追加しない。このようなものとして、保管費もまた、資本家の取得する剰余価値からのマイナスをなすのではないのである。
 流通費のうち、資本家の取得する剰余価値からのマイナスをなすのは、純粋な流通費だけである。ところが、同志黒田のレジメでは、運輸にかんして、「生産物の価値実現にかかわるかぎりで論じる」とのみ規定されていて、生産物の価値実現のために必要な・生産物の生産地から消費地への輸送にかかわるかぎりで論じる、というようには明確にされていないのである。そして他面では、生産物の価値実現に固有のものとしての純粋な流通費が、ここで挙げられていないのである。資本家の取得する剰余価値からのマイナスをなす純粋な流通費を挙げなければ、「マイナスをマイナスする」ということを論じることはできないのである。
 運輸や保管にかんして原理論のレベル・すなわち・総資本=総労働のレベルにおいて論じるばあいにも、また、運輸にかんして運輸サービス労働として段階論のレベル・すなわち・諸資本=諸労働のレベルにおいて論じるばあいにも、「マイナスをマイナスする」という規定はまったく関係がないのである。ところが、同志黒田は、「運輸・保管」に関連して「マイナスをマイナスする」ということを記載しているのであり、運輸・保管にかんする規定に、「マイナスをマイナスする」という規定を混入させたのである。これは、同志黒田が「マイナスをマイナスする」というマルクスの規定を、それを適用しうる理論領域・ないし・それが妥当する理論の対象領域を超えて、適用したものだ、といわなければならない。
 『資本論』の第三巻(第四篇)において、商業資本にかんする諸規定が論じられるのであるが、この商業資本は、総資本にとって流通費を節約するものである。すなわち、それは、資本の剰余価値からのマイナスをマイナスするのである。ここで、流通費を節約するというように規定されるところの流通費は、第二巻で規定されている純粋な流通費をさすのであって、保管費や運輸費をふくまない。このことは、第二巻において、保管費や運輸費は、商品に価値を追加する、と規定されていることからして、明らかであろう。
 このような商業資本に雇われて、流通費を節約するために働かされているのが商業労働者なのである。この商業労働者の労働、つまり商業労働は、流通費を節約するための労働、すなわち、剰余価値からのマイナスをマイナスする労働であって、剰余価値を生産するのではなく、したがって、商業資本によって剰余労働を取得されるのではなく、不払い労働を取得されるのである。
 『資本論』の第一巻においては資本の生産過程の諸規定が明らかにされるがゆえに、第一巻的にアプローチするばあいには、剰余労働と規定されるところのものは、同時に不払い労働と規定される。したがってまた、不払い労働と規定されるところのものは、同時に剰余労働を規定される。同志黒田から教わったように、段階論のレベルにおいてサービス労働にかんして論じるばあいには、これを、直接的生産過程における搾取との類推において論じなければならないのであるからして、サービス労働者は、雇用主に剰余労働=不払い労働を取得される、というように明らかにされなければならない。
 『資本論』の第三巻的にアプローチするばあいに、商業労働者は、商業資本によって不払い労働を取得されるのだ、ということが明らかにされるのである。このばあいに、商業労働者が商業資本によって取得されるところのものを剰余労働と規定することはできないのである。
 同志黒田が公務労働者にかんして、「不払い労働を取得される」とすべきであって、「剰余労働を取得される、と言わない方がよい」と記しているのは、同志黒田が――他の種類のサービス労働ではなく――公務労働について考えるときに、頭のまわり方がすべって、マイナスをマイナスするために商業資本に雇われる商業労働者は不払い労働を取得される、ということが頭のなかに混入してしまったのだ、といわなければならない。
 同志黒田は、「マイナスをマイナスする」と書いた後、一行おいてその次の行には、「商業資本に雇われているプロ=商業サービス労働、これと行政サービス労働との違い。」と記載している。この「商業サービス労働」という規定が問題である。
 日常語としては、「商業労働」という言葉と「サービス労働」という言葉とは区別されない。だが、マルクスは、「商業労働」という概念と「サービス労働」という概念とを厳密に区別しているのであり、同志黒田が明らかにした方法論を駆使して、マルクスの両者の規定を考察するならば、前者の概念は原理論のレベルにおける規定として、後者の概念は原理論のレベルにおいては捨象されており、段階論のレベルにおいて解明される規定として、方法論的に基礎づけるかたちで、われわれは把握することができるのである。
 くりかえすならば、商業労働という規定は、総資本=総労働というレベル=原理論のレベルにおいて、しかも原理論の内部での具体的な諸規定、すなわち〈総資本の直接の構成部分としての諸資本〉が明らかにされるレベル(これは『資本論』の第三巻の諸規定が論じられるレベルをなす)において解明されるのである。これにたいして、サービス労働については原理論においては捨象されるのであって、われわれは、サービス労働にかんする諸規定を、諸資本=諸労働というレベル=段階論のレベルにおいて明らかにしなければならないのである。
 ところが、同志黒田は、公務労働にかんして考察する段になると、私が一九八三年の笠置論文において批判した対象をなす考え方、すなわち公務労働を「マイナスをマイナスする」労働というように把握する考え方を部分的に自己のうちに呼び起こしてしまったのだ、といわなければならない。
 同志黒田のこのような一つの間違いを、最大限に政治主義的に利用したのが、Aさんと呼ばれている人物なのであり、当時の革マル派中央指導部なのである。こうした徒輩は、山野井論文の筆者に批判されて、自己保身に駆られて口をつぐんだのである。
 このことを、われわれは今日的にあばきだし、「革マル派」組織を革命的に解体止揚するためのイデオロギー的=組織的闘いをよりいっそう強力におしすすめていくのでなければならない。
       (2021年6月1日    松代秀樹)