革マル派中央指導部批判 第3弾       革マル派中央が葬り去ろうとした笠置高男論文

第3弾

 【二〇一二~一三年に革マル派中央指導部が企てたのは、私が一九八三年に笠置高男という筆名で論述した「教育労働の経済学的考察」論文を葬り去り、そうすることによってその筆者である私の組織内での理論的および組織的な影響力を断つためであった。一労働者同志は山野井克浩という筆名で「公務労働についての一考察」という論文を執筆し、党中央指導部の先頭に立ったAさんによる公務労働論の歪曲=サービス労働論の歪曲を批判し、笠置論文を受け継ぐべきことを主張した。党中央指導部は、山野井論文の「解放」掲載をもって自己保身的のりきりをはかった。当該の笠置論文に照らして検討するならば、Aさんの主張がいかに程度の低い・政治主義的なものであるのか、ということがよくわかる。
 第3弾として、私が「或るサービス労働にたずさわる一パート労働者」からの投稿というかたちで書いた弾劾文書と、『共産主義者』第86号の笠置高男「教育労働の経済学的考察」論文を、本ブログに掲載する。――2021年6月15日 松代秀樹】

 

 2013年の革マル派中央指導部への私の批判文書   

              松代秀樹

わが組織のおそるべき変質の進行

 「解放」2286号がいまきた。8面論文「公務労働についての一考察」(山野井克浩)を読んだ。わが組織の変質はすさまじい。公務労働・教育労働・医療労働・サービス労働などにかんするわが組織の理論的追求の一切を否定しさるとは!! いまだに自己批判せず自説を堅持しているとおもわれる講演者Aさんにたいする山野井論文の筆者の疑問・批判はすべて正当である。「戸籍管理労働」「都市計画の策定にたずさわる労働」などの例をあげられて、山野井論文の筆者は少しばかり動揺してしまったようだが、これらの諸労働にかんしても他の公務労働と経済的構造はまったく同じである。あらゆる公務サービスにかんして、住民は「権力行政的」に・これを買うことをおしつけられている(直接に代金としてとられる額をこえる部分は税金というかたちでとられる)のであって、買うのも買わないのも自由というかたちで販売されているわけではない。Aさんの提起につらぬかれているものは、公務(労働)にかんする国家論的アプローチと公務労働にかんする経済学的アプローチとの構造的把握の欠如、経済学の無知である。そして組織指導部一体となったところの、自分たちの変質の無自覚、いやひらきなおり・批判の意図的無視であり、自己過信・自己絶対化である。
      2013・9・21
   或るサービス労働にたずさわる一パート労働者

 

 


笠置高男論文(『共産主義者』第86号1983年9月)

教育労働の経済学的考察              

               笠置高男 

 

 『共産主義者』第三十六号の和泉朗「日共式『教師=聖職』論批判」という論文において、教育労働にかんする次のような論述がみられる。この一点にかぎって検討する。


 「いうまでもなく、教育労働を経済学的に解明する場合、原理論的レベルにおいては、それは直接に剰余価値を生まないものであるがゆえに、生産的労働とは規定しえない。しかし、特殊的諸労働を具体的形態において分析する段階論的レベルにおいては、それは、国家=社会間接資本による搾取の構造の解明を媒介として、生産的労働として扱うことが可能となるのである。すなわち、資本主義的生産を維持するための労働者・技術者を計画的・系統的・大量的に創造するためには、かれらを養成する労働に従事する専門の労働者が必要なのであり、それを制度的に保障するものとして、直接的には出費であっても、支配階級は国家の統轄の下に学校をつくるのである。ところで、現代においては、大多数の教育労働者は『公務員』として国家(自治体)予算で雇われている。つまりその賃金は剰余価値の一部を税金として徴収することによって成りたっている国家(自治体)予算の中から支払われるわけである。したがって、原理論的には、教育労働者は直接搾取されているとはいえない。だが、教育労働の特殊性を問題とし、異種・異質労働の観点から直接的生産過程の肉体労働との異同性を論じる段階論のレベルにおいては、物質的生産過程における搾取との類推において個有の意味におけるそれではないがブルジョア代理人によって『搾取』されているといえるのである」(八三頁)
 ここでは、教育労働を原理論的レベルにおいて論じる場合と、段階論的レベルにおいて論じる場合とが区別されつつ明らかにされている。まず、原理論的レベルにおいて教育労働を論じる場合に、前半では「それは直接に剰余価値を生まないものである」とアプリオリに断定され、後半では「その賃金は……国家(自治体)予算の中から支払われるわけである。したがって、原理論的には、教育労働者は直接搾取されているとはいえない」というように、「搾取されているとはいえない」理由が国家の問題との関係において論じられている。だが、「原理論的レベルにおいて」と論じながら、教育労働を教育労働としてとりあげて「それは直接に剰余価値を生まないものである」と展開するのはそもそもおかしい。なぜなら、原理論は「総資本=総労働」のレベルにおいて展開されるのであって、労働の特殊性は捨象されているのだ、ということが明確におさえられていないからである。原理論のレベルにおいては、教育労働・医療労働・運輸労働・農業労働・鉱山労働・製鉄労働などというような労働の特殊的諸形態は捨象されているということがはっきりしていないからである。したがって筆者がいいたいことは「教育労働は原理論のレベルにおいては捨象されている」というように表現されなければならない。これと同様に、原理論のレベルにおいては国家の問題は捨象されている。というのは、マルクスの表現にしたがえば「全商業世界を一国とみなす」のだからである。それゆえに、国家予算の問題を論じたうえで「したがって、原理論的には」と叙述するのは論理的にまちがっているわけである。
 ところでさらに、段階論のレベルにおいては教育労働者が搾取されているといえる理由が二重に展開されている。一方では「特殊的諸労働を具体的形態において分析する段階論的レベル」という規定がでてくると同時に、他方では「国家=社会間接資本による搾取の構造の解明」あるいは「ブルジョア代理人によって『搾取』されている」という規定がでてくる。この両者は引用文においてはまったく同一のものとしてあつかわれているのであるが、明確に区別されなければならない。ちなみに、後者の規定は国立・公立学校の場合は妥当する。国立・公立学校で働く教育労働者は国家(自治体)によって搾取されているといえるからである。けれども私立学校で働く教育労働者の場合にはそうはいえない。やはり私的な教育資本によって搾取されているわけである。いまや明らかであろう。筆者においては、そもそも問題意識において、ブルジョア社会における教育労働を経済学的に解明するということと、国立・公立学校の経済的特質を解明するということとが二重うつしにされているわけである。このことは、教育労働がサーヴィス労働と規定されるということ、そしてサーヴィス労働の独自性が明らかにされなければならないということ、この問題意識がよわいことにもとづいているのである。
 たしかに、資本主義社会における教育制度としての公教育の史的唯物論的解明ではなく、公教育の経済的側面の政治経済学的解明をおこなおうとする場合には、一方では公教育制度のもとにおける国立・公立学校および私立学校、その経済的側面の政治経済学的解明が、他方では公教育にたずさわる労働者の労働の政治経済学的解明が問題となる。前者の場合には、国立・公立学校は国家資金(あるいは自治体の資金)の投下にもとづいて経営されているのであるからして、国家資本(あるいは公的資本)というように規定することができるということが、とくに明らかにされなければならない。〔もちろん、このことは国立・公立学校の諸設備およびそこに雇われている教育労働者の労働そのものが政治経済学的にはどのような規定をうけとるのかという側からアプローチし、それらが国家資本あるいは公的資本の定有という規定をうけとるということを明らかにするものであって、国立・公立学校を経営するために必要な資金の流れをば、国家あるいは地方自治体の財政収入およびその支出の構造を政治経済学的に規定するという側から解明することそのものとは区別される。〕そして国家資本・公的資本・社会間接資本などの諸規定は段階論のレベルにおいて明らかにされなければならないわけである。ところで他方、後者の場合には、国公立学校であれ私立学校であれ公教育にたずさわる労働者の労働の諸規定が明らかにされなければならない。すなわち、教育労働の諸規定には、教育労働の教育労働としての特殊性の労働論的解明および教育労働のサーヴィス労働としての特殊性の経済学的解明などがふくまれる。そして、この後者の場合には、教育労働はサーヴィス労働として、したがって教育サーヴィスの生産と販売の問題として、論じられなければならない。
 さて、「特殊的諸労働を具体的形態において分析する段階論的レベル」という場合には、「特殊的諸労働」のひとつをなす教育サーヴィス労働の問題がとりあつかわれようとしているのだといえる。しかし、教育労働がサーヴィス労働をなすということがはっきりしていないわけなのである。くりかえすならば、たしかに「特殊的諸労働」の諸規定は、個別資本が総資本の直接の部分としてあつかわれるのではなくそれ自身一個の自立的な資本としてあらわれる「諸資本=諸労働」という抽象のレベルにおいて、つまり段階論のレベルにおいて、明らかにされるのである。けれども、教育労働を「特殊的諸労働」のひとつとしてあつかうだけでは不十分なのだ、ということである。
 もちろん「物質的生産過程における搾取との類推において」と述べられているのであるからして、教育労働の特殊性は自覚されている。問題はこの特殊性をどのように規定するのかということにある。その場合に、「教育労働の特殊性を問題とし、異種・異質労働の観点から直接的生産過程の肉体労働との異同性を論じる段階論のレベル」という表現は明らかに混乱している。段階論のレベルという抽象のレベルの規定と段階論のレベルにおいて論じるべき内容とが区別されず、後者の側から前者が規定されているからである。段論論のレベルという場合には、「諸資本=諸労働」のレベルと規定されなければならないのだ。「諸資本=諸労働」のレベルであるがゆえに、労働の異種性と異質性が論じられなければならなくなるということなのである。さらにまた「直接的生産過程の肉体労働」とは段階論的規定なのか原理論的規定なのかがあいまいである。もしも段階論的規定であるとするならば、肉体労働そのものの異種性と異質性もよりたちいって規定されなければならない。またもしも原理論的規定であるとするならば、教育労働の「肉体労働との異同性」を論じるということは、レベルの異なる諸規定が対比されてしまっていることになるのである。レベルが異なるのであるからして、正しくは「直接的生産過程における(肉体)労働との類推において」と表現されなければならない。けれども、このように表現をかえてしまえば、その直後に書かれている「物質的生産過程における搾取との類推において」ということとだぶってしまうことになる。
 ところで、「教育労働の特殊性」の内容にかんしては、「直接的生産過程の肉体労働」と対比されているのであるからして、肉体労働ではない精神労働、そして直接的生産過程における労働ではない労働というようにおさえられているといえる。しかし、このようにしても「教育労働の特殊性」の規定としては不十分である。
 「教育労働の特殊性」は、それによってなんらかの目にみえる対象的な生産物がつくりだされこの生産物が商品として販売されるのではなく、教育過程そのものが、教育過程そのものの有用的効果が商品として販売されるのだ、という点にある。もちろん、この特質はサーヴィス労働であるかぎり同一である。このことが明確におさえられなければならないのだ。

 

 生産的労働と不生産的労働

 

 さて、ここで「生産的労働」という規定が問題とされなければならない。「直接に剰余価値を生まないものであるがゆえに、生産的労働とは規定しえない」という論述は、明らかに結果解釈論である。剰余価値を生む労働が生産的労働であるという規定との対比において解釈したものだからである。また同様に「段階論的レベルにおいては」教育労働を「生産的労働として扱うことが可能となる」ゆえんも、そのレベルにおいては教育労働者は「『搾取』されているといえる」ということにもとめられる。このことの問題性は、段階論のレベルにおいては教育労働者が搾取されているといえる理由が二重に展開されていたという問題性そのものに帰着する。


 ところで、マルクスは「生産的労働と不生産的労働」について次のように展開している。
 「資本主義的生産の直接の目的および本来の生産物は剰余価値なのだから、ただ直接に剰余価値を生産する労働だけが生産的であり、直接に剰余価値を生産する労働能力行使者だけが生産的労働者である」(『直接的生産過程の諸結果』国民文庫版、一〇九頁。以下『諸結果』と略す)


  「生産的労働者はすべて賃金労働者であるが、それだからといって、賃金労働者がすべて生産的労働者なのではない。労働が買われるのが、使用価値として、サーヴィスとして、消費されるためであって、生きている要因として可変資本の価値と入れ替わって資本主義的生産過程に合体されるためではない場合には、労働はけっして生産的労働ではなく、賃金労働者はけっして生産的労働者ではない。その場合には、彼の労働が消費されるのは、その使用価値のせいであって、交換価値を生みだすものとしてではない。それは、不生産的に消費されるのであって、生産的に消費されるのではない」(同、一一三頁)


 「不生産的労働……は、資本とではなくて、直接に収入と、つまり、賃金または利潤と(もちろん、利子や地代のような、資本家の利潤の分けまえにあずかるいろいろな項目とも)交換される労働である」(『剰余価値学説史』国民文庫版、第二分冊、一八頁。以下『学説史』と略す)
「他の人々に教える学校教師は、生産的労働者ではない。しかし、教師が他の教師とともにある学校に雇われて、この知識を商う学校の企業者の貨幣を自分の労働によって価値増殖するならば、彼は生産的労働者である」(『諸結果』一一九頁)


 マルクスの右のような規定にしたがえば、教師がある父母に家庭教師として雇われているかぎりでは彼は不生産的労働者であるが、ある学校に雇われて彼の労働が価値を増殖するならば彼は生産的労働者である、ということである。後者の場合には、生徒あるいはその父母にとっては、教師が提供する教育サーヴィスの使用価値(教育労働の有用的効果)が問題であるのにたいして、教育資本家にとっては、教師の労働力の使用価値の消費が価値増殖となるということが問題なのであり、したがって教師は彼の労働によって価値増殖する教育資本家にとっては生産的労働者であるといえるのだ。
 以上のように考察するかぎりでは、「剰余価値を生産する労働だけが生産的である」という規定は教育資本家に雇われている教育労働者の労働に妥当する。「生産的労働であるということは、それ自体としては労働の特定の内容またはその特殊な有用性またはそれを表わす特殊な使用価値とは絶対になんの関係もない労働の規定である」(『諸結果』。一一八頁)、からである。つまり、手にとってみることができるような生産物をつくりだす労働であるかサーヴィス労働であるかということは、生産的労働の規定にはそれ自体としては関係がないということである。 
このことは、マルクスが「生産的労働のスミスの理解における二面性」をあばきだすことを媒介としてみずからの「生産的労働」論を展開していることからしても、明らかである。スミスの規定には、労働者が「彼が加工する材料の価値に、彼自身の生活維持費の価値と彼の親方の利潤とをつけ加える」という労働が生産的労働であるという正しい規定と、「ある特定の対象または売ることのできる商品にそれ〔労働〕自体を固定し実現する」労働、つまり「労働が終ったのち少なくとも暫くのあいだは存続する」「商品」を生産する労働が生産的労働であるという誤った規定とがふくまれている、というように、マルクスは論じているからである。
 すなわち、生産的労働と不生産的労働との概念的区別は、労働が貨幣と交換されるというように現象する場合(同一性)に、労働が資本としての貨幣と交換される――この場合には労働力商品が・それの使用価値の消費が価値増殖であるという独自性のゆえに資本の幼虫をなす貨幣と交換されることを媒介として、直接的生産過程において労働力の使用価値が生産手段の使用価値とともに消費される――のか、労働が貨幣としての貨幣と交換される――この場合には労働のうみだす有用的効果つまりサーヴィスが収入の一部をなす貨幣と交換される――のか、ということの区別に、成立する。それゆえに、サーヴィス業に資本を投下した資本家にサーヴィス労働者が雇われた場合には、この労働者の労働はこの資本家との関係においては生産的労働と規定されるのである。というのは、資本家は価値増殖のために労働力商品を買ったのだから。もちろん、サーヴィス商品の購買者=消費者にとってはサーヴィス労働の有用的効果(使用価値)だけが問題である。

 

 サーヴィス労働が原理論のレベルにおいては捨象される理由

 

 ところで、このようなサーヴィス労働については、原理論のレベルにおいては捨象される。原理論は「総資本=総労働」のレベルにおいて成立するのであり、原理論においては生産手段生産部門と生活手段生産部門というふたつの生産部門の区別を措定して論じられるにすぎないからである。


 このことについて、マルクスは次のように論じている。
 「つまり、資本主義的生産の本質的諸関係の考察にあたっては、商品世界全体、物質的生産――物質的富の生産――のすべての部面が、(形式的または実質的に)資本主義的生産様式に征服されている、と想定することがでざる。{なぜなら、こうしたことは、だいたいしだいに起こってきていることであり、原理的な到達点であって、この場合にだけ労働の生産力は最高点にまで発展するからである。}このような前提は、極限を表わしており、したがってそれはますます厳密な正確さに近づいて行くのであるが、この前提のもとでは商品の生産に従事するすべての労働者は賃労働者であり、生産手段はこれらのすべての部面において資本として労働者に対立している。その場合に、生産的労働者すなわち資本を生産する労働者の特徴としてあげうるものは、彼らの労働が商品に、<労働の生産物である>物質的富に、実現されるということである。このようにして生産的労働は、その決定的な特徴、すなわち労働の内容とはまったく無関係なその内容にはかかわりのない特徴とは違った第二の副次的規定を受け取ることになるであろう」(『学説史』第三分冊、一九九頁)


 ここでは、原理論つまり資本制生産の普遍本質論が成立する抽象のレベルが、対象の構造の側から論じられている。「商品世界、物質的生産のすべての部面が、資本主義的生産様式に征服されている、と想定する」というように。そして、このような抽象のレベルにおいて論じる場合には、サーヴィス労働については捨象されるのであって、生産的労働は物質的富に実現される労働であるというように、生産的労働は第二の副次的規定を受け取るのだ、と明らかにされている。いうまでもなく、ここにいう「生産的労働の決定的特徴、すなわち労働の内容とはまったく無関係なその内容にはかかわりのない特徴」とは、「剰余価値を生産する労働」ということである。こうして、原理論のレベルにおいては、生産的労働は物質的生産において剰余価値を生産する労働である、と規定されることになる。このことは、原理論が対象とする領域は物質的生産部門であって、サーヴィス産業つまり非物質的生産部門はふくまれないということにもとづいているわけである。この意味において、教育労働、一般にサーヴィス労働は、原理論のレベルにおいては不生産的労働として捨象されているといえる。


 マルクスは、さらに現実には「非物質的生産」の領域ではどのような生産様式がおこなわれているのかということをも明らかにしている。
 「非物質的生産の場合には、それが純粋に交換のために営まれ、したがって商品を生産する場合でさえも、次の二つの場合が可能である。
 一、その結果が次のような商品である場合。すなわち、生産者とも消費者とも別な独立な姿をもっており、したがって生産と消費との中間で存続することができ、売れる商品としてこの中間で流通することができる使用価値、たとえば書籍や絵画や要するに実演する芸術家の芸術提供とは別なすべての芸術生産物のようなものである場合。この場合には、資本主義的生産はきわめてかぎられた程度でしか充用されえない。たとえば、一人の著述家が共同著作――たとえば百科全書――のために他の一団の著述家を下働きとして搾取するような場合にかぎられる。この場合、いろいろな科学的または芸術的生産者たち、手工業者や専門家が書籍商人たちの共同の商人資本のために労働するということは、たいていは、資本主義的生産への過渡形態たるにとどまるのであって、この関係は、本来の資本主義的生産様式とはなんの関係もなく、形式的にさえまだそのもとに包摂されていないのである。こうした過渡形態において労働の搾取がまさに最もはなはだしいということは、なんら事態を変えるものではない。 
 二、生産されるものが、生産する行為から不可分な場合。たとえば、すべての実演する芸術家、弁士、俳優、教師、医師、牧師、等々の場合。この場合にも、資本主義的生産様式は狭い範囲でしか行なわれず、また、事柄の性質上、わずかな部面でしか行なわれえない。たとえば教育施設の場合、教師は教育施設企業家のための単なる賃労働者でありうるし、また、この種の教育工場がイギリスには多く存在する。こうした教師は、生徒にたいしては、生産的労働者ではないけれども、自分の企業家にたいしては生産的労働者である。企業家は自分の資本と教師の労働能力とを交換し、この過程を通してふところを肥やす。劇場や娯楽施設などの企業の場合にも同じである。この場合、俳優は、公衆にたいしては芸術家としてふるまうが、自分の企業家にたいしては生産的労働者である。この領域での資本主義的生産のこれらいっさいの現象は、生産全体とくらべれば、とるに足りないものであるから、まったく考慮外におくことができる」(同、二〇〇~二〇一頁)


 ここでは、非物質的生産の領域における労働はそのすべてが資本制生産様式に包摂されるわけではないということが、原理論においては非物質的生産部門が捨象される理由としてのべられている、ととらえかえすことができる。ここで、「この領域での資本主義的生産のこれらいっさいの現象は、生産全体とくらべれば、とるに足りないものである」とのべられているのであるが、このような表現はマルクスが分析の対象とした十九世紀中葉のイギリス産業資本主義に規定されたものであって、われわれはたんに量的なものとしてとらえるべきではない。そうしないと、こんにちではサーヴィス産業が発達し、しかも資本家的に経営されていることが多いのだから、『資本論』の諸規定にサーヴィス産業部門にかんする諸規定を付加すべきであるというような見解が、でてきてしまうからである。もちろん、このような見解は、原理論のレベルにおける諸規定と段階論のレベルにおける諸規定とを区別することができないという論理的欠陥の産物にほかならないのであるが。


 『諸結果』では同じ趣旨のことが次のように論じられている。
 「ただサーヴィスとして受用されうるだけの労働、そして労働者から分離されることができて彼の外に独立商品として存在する生産物には転化することができない労働、といっても直接に資本主義的に搾取されうる労働は、資本主義的生産の大量に比べれば、全体として、あるかないかの大きさである。それゆえ、このような労働は、まったく無視してもよいのであって、ただ、賃労働を考察するときに、同時に生産的労働でもあるのではない賃労働の範疇のもとで取り扱うだけでよいのである。」(一ー九頁)


 ここで「あるかないかの大きさであるがゆえに、無視してもよい」ということは、「ただ、賃労働を考察するときに」ということとの統一において理解されなければならない。すなわち、「総資本=総労働」のレベルにおいて論じているのであるからして「賃労働」の具体的形態については別に論じられなければならないとマルクスはのべているのであって、宇野三段階論をうけついでいるわれわれからするならば、「ただ、賃労働を考察するときに」ということは「諸資本=諸労働」のレベル、したがって段階論のレベルにおいてというようにとらえかえされなければならない。もちろん、このようにとらえかえすならば、サーヴィス労働は「同時に生産的労働でもあるのではない賃労働の範躊のもとで取り扱うだけでよい」という展開をば産業資本主義段階におけるサーヴィス労働の特殊性を明らかにしようとするものとしておさえかえし、帝国主義段階におけるサーヴィス労働の特殊性を明らかにしなければならないわれわれは、「同時に生産的労働でもある」サーヴィス労働、つまりサーヴィス産業に資本を投下した資本家に労働力を販売した労働者の労働の諸規定を論じなければならない、ということになるわけである。

 

 サーヴィス労働と商業労働の混同

 

 ところで、「教育労働は直接に剰余価値を生まないものである」というような表現がとられる場合には、無自覚的にサーヴィス労働を商業労働と混同しているということがあるかもしれない。『資本論』第三部において「商業的労働者は直接には剰余価値を生産しない。……彼が資本家に利益をもたらすのは、彼が直接に剰余価値を創造するからではなく、彼が労働――一部は不払の――を行うかぎりにおいて剰余価値の実現費を軽減させるからである」(『資本論』第三部、青木書店刊、四二九頁)というように展開されているからである。たとえサーヴィス労働と商業労働とを完全に二重うつしにしているのではないとしても、商業労働とのアナロジーにおいてサーヴィス労働を規定しているといいうるであろう。たしかに、「直接には剰余価値を生産しない」という意味においては、商業労働もまた不生産的労働と規定することができる。だが、この商業労働は原理論である『資本論』の第三部の商業資本の諸規定において論じられるのであって、原理論のレベルにおいては捨象されるサーヴィス労働とは明らかに異なるのだ。そもそも、生産的労働と不生産的労働との概念的区別は、労働と貨幣とが交換される場合に、労働が資本としての貨幣と交換されるのか、労働が貨幣としての貨幣と交換されるのかという区別にあった。ところが、商業労働は貨幣としての貨幣と交換されるのではなく、商業労働者の労働力が商業資本家に販売されるのであって、それは生産的労働と不生産的労働との区別を論じる領域とは関係がないのである。だから、たとえ商業労働を不生産的労働と呼んだとしても、収入の一部をなす貨幣とサーヴィス労働とが交換される場合にこの労働が不生産的労働と規定されるということとは、別の規定なのである。この両者は剰余価値を生産する労働と対比されるという点において同一性をもっているにすぎない。
 【ところで、次のように展開される場合には、サーヴィス労働が商業労働と完全に等置されている。
 「帝国主義段階においては〝直接的生産過程における労働〟以外の労働も多数存在するようになる。それらは一般的には〝剰余価値のマイナス〟をマイナスする労働として、剰余価値を『生産』する。だから、その労働は生産的労働と規定される」。行政は「個別資本によって直接担うならきわめて過大となる諸利害を、代理人たる国家=自治体を介すことにより、各資本の統一的利害として貫徹する」。「すなわち、自治体労働は価値増殖過程と統一されていないために直接剰余価値を生産しない。だとしても、個別資本にとっては、各種利害を貫徹することが〝剰余価値のマイナス〟のマイナスとしての意義を持っているところから、直接的生産過程における搾取とアナロジーして、その類推において、ブルジョアジー代理人によって『搾取』されているといえるわけである」(『共産主義者』第五十八号、六四~六五頁、鳴海論文)
 ここでは自治体労働がサーヴィス労働としてとらえられずに商業労働としてとらえられているか、サーヴィス労働そのものが商業労働と等置されているかのいずれかである。ようするにサーヴィス労働の独自性がおさえられていないということである。つまり、段階論のレベルにおいて、自治体労働、一般にサーヴィス労働が、直接的生産過程における剰余労働の搾取との類推において規定されるのではなく、商業労働との類推において規定されてしまっているということである。
 一般に、〝剰余価値のマイナス〟、正確には〝剰余価値からのマイナス〟という場合には流通費のことを指す。したがってまた〝マイナスのマイナス〟という場合には流通費の節約のことを指す。この流通費の節約は商業資本の機能であり、したがって商業資本が成立する根拠をなす。


 「産業資本にとっては、流通費は空費として現象し、また空費である。商人にとっては、流通費は彼の利潤の源泉として現象するのであって、この利潤は――一般的利潤率を前提すれば――流通費の大いさに比例する。だから、この流通費に投ぜられるべき出費は、商業資本にとっては生産的投資である。だから、商業資本の買う商業的労働も、商業資本にとっては直接に生産的である」(『資本論』第三部、四三一頁)


 商業労働は〝剰余価値からのマイナス〟をマイナスするがゆえに――まさにこの意味においてのみ――生産的である。だが、このことは原理論のレベルにおいて規定されることである。また他方、段階論のレベルにおいても、商業労働は生産的労働そのものとして規定されることはない。――なお、商業労働は〝マイナスをマイナスする〟からといって、商業資本の利潤は「商業資本の買う商業労働」、それの不払い労働部分と直接に一致するわけではない。なぜなら、商業資本もまた利潤率の均等化に参加するのであって、一般的利潤率を媒介として商業利潤の額は決定されるのだからである。
 さて、自治体労働者の労働は商業労働としてではなくサーヴィス労働としてあつかわれなければならず、自治体サーヴィスあるいは公務サーヴィスという商品の生産過程は、自治体労働者の労働過程と価値増殖過程との統一として明らかにされなければならない。「自治体労働は価値増殖過程と統一されていない」のではない。このことは、サーヴィス商品の生産過程を直接的生産過程における搾取との類推において明らかにしなければならないということからして当然のことなのだ。
 しかも、ここでは、住民は政府あるいは自治体から行政というサーヴィス商品(あるいは公務サーヴィスという商品)をおしつけられ、その代金として租税が徴収されるのだ、ということさえもがつかみとられていないのである。あくまでも、マルクスの次のような諸規定が、段階論のレベルにおいてほりさげられなければならないのである。「租税、つまり政府のサーヴィスなどの価格」(『諸結果』一一六頁)。「サーヴィスはまた押しつけられるものでもありうる。役人のサーヴィスなど」。「欲しくもないサーヴィス(国家、租税)」(『学説史』第三分冊、一九一~一九二頁)。「いわゆる『高級』労働者――たとえば、官吏、軍人、芸術家、医師、僧侶、裁判官、弁護士など、すなわち、部分的に生産的でないばかりか本質的には破壊的な人々、しかも、『物質的』富のきわめて大きな部分を、一部には自分の『非物質的』商品の販売により、一部にはそれの強制的な押しつけにより、取得することを心得ている人々――の大群にとっては、経済学〔古典派経済学〕上道化師や召使と同じ階級のなかに追いやられて、本来の生産者(というよりはむしろ生産当事者)の寄食者ないし寄生者にすぎないものとして現われるということは、けっして愉快なことではなかった」(同、第二分冊、四九頁)。】

 

 教育労働の諸規定

 

 ところで、たしかに和泉論文においては、「大多数の教育労働者は『公務員』として国家(自治体)予算で雇われている」ということや「教育労働過程の独自的構造」などが論じられている。けれども、ここにおいては、教育労働者の労働過程そのものの有用的効果つまり教育サーヴィスが商品として売買されるのだ、ということが欠如しているのである。したがって、①教育労働者が教育資本家にみずからの労働力を販売すること、②教育労働者が子供を教えるという教育労働者の労働過程、③父母が子供のために教育サーヴィスを教育資本家から買うこと、この三者が構造的に論じられていないわけである。
 教育サーヴィス商品を生産するために資本家はみずからの貨幣を投下する。私立学校の場合には私的な教育資本家の貨幣が投下され、国立・公立学校の場合には国家資金あるいは公的資金が投下される。いずれの場合にも、投下された資金は一方では教育労働手段(ただし教科書は父母の負担になる場合が多い)と交換されると同時に、他方では教育労働者の労働力と交換される。それとともに教育資本家は生産される教育サーヴィスを消費する子どもを募集する。教育資本家は教育サーヴィスという商品の生産に先だってその商品の購買者(子どもの父母)をあらかじめ市場にみいださなければならない。したがって、子どもは教育労働の対象となるものであるにもかかわらず、教育資本家はみずからの資金を投下して子どもを買うわけではけっしてない。すなわち、教育資本家の貨幣は教育労働手段および教育労働力に転態するだけであって、子どもには転態しない。教育資本家は生産される予定の教育サーヴィス商品の購買者である父母から子どもをあずかるだけである。教育資本家にとっては子どもは外的にあたえられるにすぎない。しかしとにかく、このような特殊性が刻印されているとしても、商品=労働市場において教育労働手段と教育労働力とが購買されることを媒介として、教育サーヴィスの生産過程が措定される。
 この教育サーヴィスの生産過程において、教育労働手段の使用価値とともに教育労働力の使用価値が消費される。この過程はそれ自身、労働過程と価値増殖過程との統一をなす。
 さしあたり、教育労働過程の側面を考察するならば、それは教育労働者が教育労働手段を使って労働対象である子どもの意識と身体を加工する過程である。
 和泉論文では次のように展開されている。「教育労働者は、政府の統轄(『公的承認』)の下に作成されている種々の教材を直接的な労働手段として、労働対象たる子どもの加工をおこなうわけである。だがその際、労働手段そのもののもつ内容上の特殊性に規定されて、教育労働者の労働は若干複雑な過程をたどって実現される。すなわち、教科書などの教材という対象的形態をとって現われる労働手段のうちに刻みこまれている科学、技術、知識などの体系を、教育労働者は自己の頭脳のうちに内在化、主体化することなしに、対象たる子どもへの働きかけをおこなうことはできない」(八〇頁)、と。
 ところで、価値増殖過程の側面において考察するならば、教育労働手段(黒板やチョークや教育器材など)および教育労働そのものは教育資本(私的資本であれ国家資本あるいは公的資本であれ)の定有をなす。教育労働手段は不変資本という規定をうけとり、教育労働そのものは可変資本という規定をうけとる。この場合に、労働対象をなす子どもは資本という規定をうけとらない。なぜなら、それは教育資本家の貨幣が転化したものではなく、教育サーヴィスのうけとり手=消費者にすぎないからである。(教育労働手段の一部をなす教科書は父母が買って子どもに与えるかぎりでは、不変資本という規定をうけとることはなく、子どもの消費手段にほかならない。)そして、教育労働は価値をしたがってまた同時に剰余価値を創造する。すなわち、教育労働手段の使用価値とともに教育労働力の使用価値が消費されることによって、教育サーヴィス商品が生産されるのであって、そこには教育労働手段から移転した価値部分と新たに創造された価値部分とがふくまれている。そして、この後者は労働力の価値に該当する部分と剰余価値とにわかれる、ということである。
 この教育というサーヴィス商品を父母は教育資本家から買い子どもにあたえるわけである。教育サーヴィス商品、一般にサーヴィス商品の独自性はそれの生産と消費とが同時だという点にある。教育労働はなんらかの手でふれることのできるような対象的生産物を生産しないからである。教育労働は子どもの意識や身体に対象化されるだけだからである。このような教育労働そのものの有用的効果、教育労働そのものの使用価値が、商品として売買されるわけである。したがって、父母が代金(授業料や教材費)を支払った{あるいは支払う}ことを前提として、子どもは生産される教育サーヴィスを消費する。教育労働者にとっての教育サーヴィスの生産過程が、子どもにとっては教育サーヴィスの消費過程としてあらわれる。教育サーヴィスの使用価値の消費とともにそれの価値が(移転するのではなく)消滅する。教育サーヴィスの価値は、教育サーヴィスという商品が父母の収入の一部をなす貨幣と交換されたところにおいて実現されているわけである。
 ところで、私立学校の場合には、父母は私立学校に教育サーヴィス商品の代金を支払い、国公立学校の場合には、父母は国公立学校に教育サーヴィス商品の代金を支払う。もしも後者の場合に無料(義務教育のばあい)であったとしても、父母は税金というかたちにおいて、その他の行政サーヴィス商品の代金とひっくるめて教育サーヴィスの代金を支払っているということなのである。
 もっとも、教育サーヴィスの量(あるいは質と量)を規定するところにおいて困難が生じる。教育労働者の労働時間は実際に教えている時間とそのための準備および諸雑務や家庭訪問の時間との合計からなる。ところで、子どもが教育サーヴィスを消費する時間は教育労働者が実際に教えている時間に等しい。さらにひとりの教育労働者はたとえば一度に四十人の子どもを教える。ここでもしも労働時間および実際に教える時間は元のままでひとりの教育労働者が一度に五十人の子どもを教えなければならなくなったとする。この場合には教育労働者の労働密度は増大する。ところで、教育資本家は一学級の人数が増えたからといって個々人の授業料を安くはしないであろう。そうするとこの教育資本家は従来よりも二五パーセントだけ多くの貨幣を回収することになる。このような場合に、教育労働者の労働密度の増大分と教育資本家が回収する貨幣の増大分とが一致するかどうかということは、感性的形態においては表現されない。小学校の教師の場合にはこの両者は大むね一致するであろうが、マスプロ教育の大学の教師の場合にはほとんどまったく一致しないであろう。マイクでしゃべっているかぎり、学生数がいくら増えても労働強度はほとんど増大しないであろうからである。したがって、さしあたり、教育サーヴィスの量は一日の授業時間の長さと生徒の数に依存し、教育サーヴィスの質は教育労働の質にしたがって教育労働力の質に依存するという以外にない。
ところで、この質と量をふくむ教育サーヴィスの社会的な総量の価格は、総授業料として与えられるのであるからして、この総価格が教育サーヴィスの総価値に一致すると想定する以外にはないであろう。

〔もっとも、義務教育が無料である場合に、税金のうちのどこまでが授業料にあたるのかということはわからないし、またそのように考えることは無意味である。そして高校や大学の場合にも国立・公立学校の方が私立学校よりも授業料が相対的に安い。とはいっても私立学校にも国庫補助金などがあたえられている。さらに税金の徴収の基準は、被徴税者の子どもが義務教育課程で教育を受けているのか否かということや国立・公立学校にかよっているのか私立学校にかよっているのかということなどとはかかわりがない。したがって、もろもろの学校における教育サーヴィスの価格を具体的に論じることは、教育労働の段階論的考察の範囲をこえるのであって、それは現状分析のレベルにおいておこなわれなければならない。教育労働の段階論的考察という場合には、段階論のレベルにおいて、教育労働者が搾取される構造を直接的生産過程における搾取との類推において明らかにすることを課題とするのであって、教育サーヴィスの価格については授業料という形態をとるか、無料の義務教育の場合のように税金の一部にふくまれるかするのだということを、一般的に明らかにするにすぎないのである。〕
                 (一九八三年二月十一目)