革マル派中央指導部批判  第2弾        公務労働論の歪曲を批判した山野井論文

第2弾

 【二〇一三年に「解放」紙上に、山野井克浩署名の「公務労働についての一考察」という論文が掲載された。これは指導的人物による公務労働論の歪曲を批判したものであった。その指導的人物は「公務労働者は搾取されていない」とまで言い放っていた。批判されたその人物は何ら反省せず、革マル派中央指導部はこの論文の「解放」掲載をもって自己保身的に論争の収拾をはかろうとしていることが、その文面から読み取れた。私は中央指導部のこの変質を弾劾する文書を書き、それを、「或るサービス労働にたずさわる一パート労働者」からの投稿というかたちで「解放」紙上に掲載することを要求した。党中央指導部は、この文書を無視抹殺し、私には何の返答もしなかった。
 第2弾として、私のその文書と山野井克浩論文を、本ブログに掲載する。――2021年6月12日 松代秀樹】

 

2013年の革マル派中央指導部への私の批判文書    

                 松代秀樹

 わが組織のおそるべき変質の進行

 

 「解放」2286号がいまきた。8面論文「公務労働についての一考察」(山野井克浩)を読んだ。わが組織の変質はすさまじい。公務労働・教育労働・医療労働・サービス労働などにかんするわが組織の理論的追求の一切を否定しさるとは!! いまだに自己批判せず自説を堅持しているとおもわれる講演者Aさんにたいする山野井論文の筆者の疑問・批判はすべて正当である。「戸籍管理労働」「都市計画の策定にたずさわる労働」などの例をあげられて、山野井論文の筆者は少しばかり動揺してしまったようだが、これらの諸労働にかんしても他の公務労働と経済的構造はまったく同じである。あらゆる公務サービスにかんして、住民は「権力行政的」に・これを買うことをおしつけられている(直接に代金としてとられる額をこえる部分は税金というかたちでとられる)のであって、買うのも買わないのも自由というかたちで販売されているわけではない。Aさんの提起につらぬかれているものは、公務(労働)にかんする国家論的アプローチと公務労働にかんする経済学的アプローチとの構造的把握の欠如、経済学の無知である。そして組織指導部一体となったところの、自分たちの変質の無自覚、いやひらきなおり・批判の意図的無視であり、自己過信・自己絶対化である。
   2013・9・21
          或るサービス労働にたずさわる一パート労働者

 

 

山野井克浩「解放」2286号(二〇一三年九月二三日付)

 

公務労働についての一考察 

       ――「剰余価値の生産」をめぐって

 昨年夏、あるチューター(Aさんとする)が「公務労働」について講演をおこなった。この講演はたいへん意欲的な内容で、革マル派の諸同志が追求してきたこれまでのサービス労働論や公務サービス労働論を検討しなおし、いくつかの疑問点をも明らかにしたものであった。
 私はこの講演内容に刺激され、己の「疎外された労働」を見つめなおし新たなバネへと転化しようと思い、自治体労働(公務労働)についての諸文献を学習してきた。
 そのなかでAさんの主張への疑問点が次第に浮かび上がってきた。しかし当初は漠然とした疑問でしかなかった。私は公務労働論の学習会に疑問点を提起し同志たちと論議した。その結果、自分の疑問点をはっきりさせることができ、学習会にレポートとして提出した。
 以下、Aさんの講演を受けての私の疑問と、これをめぐる組織的な論議、そこでつかんだこと・なお課題として残されたことについて明らかにし、私の追求のワンステップとしたい。

 

  笠置論文に対するAさんの批判

 

 『共産主義者』第八十六号(一九八三年九月)の笠置論文に次のような展開がある(六二頁)。

 〈自治体労働者の労働は商業労働としてではなくサーヴィス労働としてあつかわれなければならず、自治体サーヴィスあるいは公務サーヴィスという商品の生産過程は、自治体労働者の労働過程と価値増殖過程との統一として明らかにしなければならない。「自治体労働は価値増殖過程と統一されていない」〔『共産主義者』第五十八号鳴海論文)のではない。このことは、サーヴィス商品の生産過程を直接的生産過程における搾取との類推において明らかにしなければならないということからして当然のことなのだ。/しかも、ここ〔鳴海論文〕では、住民は政府あるいは自治体から行政というサーヴィス商品(あるいは公務サーヴィスという商品)をおしつけられ、その代金として租税が徴収されるのだ、ということさえもがつかみとられていないのである。あくまでも、マルクスの次のような諸規定が、段階論のレベルにおいてほりさげられなければならないのである。「租税、つまり政府のサーヴィスなどの価格」(『直接的生産過程の諸結果』国民文庫版、一一六頁)。「サーヴィスはまた押しつけられるものでもありうる。役人のサーヴィスなど」。「欲しくもないサーヴィス(国家、租税)」(『剰余価値学説史』国民文庫版、第三分冊、一九一~一九二頁)。〉

 

 この主張にたいしてAさんは概略次のように批判した。

 

 自治体労働をサービス労働として捉えるという提起は正当であると思うが、「自治体サービスの生産過程は労働過程と価値増殖過程との統一をなしている」という展開は問題である。これでは自治体は価値増殖を目的とする資本と同じことになり、ブルジョア国家が公務(=ブルジョア的共同事務)を遂行することの独自性が位置づかなくなる。マルクスが「租税、つまり政府のサーヴィスなどの価格」と述べているように租税は政府サービスの価格としての意義をもつといえる。けれども、「行政サービス商品の代金として租税が徴収される」というように論じるわけにはいかないと思う。ブルジョア国家は資本制生産の維持・発展を根本的目的としてブルジョア的共同事務としての公務を遂行するのであり、そのための財源として租税を強制的に徴収する。ブルジョア国家(地方自治体)が階級支配を貫徹することを目的としたブルジョア的共同事務、この遂行としての行政サービス生産過程をば、価値増殖を目的としたところの行政サービス商品の生産過程として捉えるわけにはいかないのである。

 

 剰余価値を生まない?

 

 私はこのAさんの主張の次の三点に疑問をもった。

 

 第一は、自治体サービスの生産過程は、労働過程と価値増殖過程との統一をなしている、という展開は問題であり、自治体労働者は剰余価値を生産するとはいえない、としている点。
 第二は、行政サービスの目的は価値増殖ではなくブルジョア国家(地方自治体)が階級支配を貫徹することであり、ここに公務労働の独自性がある。また税金は国家(地方自治体)が公務を遂行するための財源として強制的に徴収するのであって、公務サービスの代金として租税が徴収されるとはいえない、という主張。
 第三は、したがって公務労働者は剰余価値を生産しているとはいえず、不払い労働を自治体に取得されているのであって、行政サービスの生産過程において搾取されているとは言わないほうがよい、とされている点。
 この第二、第三の点は第一の点と密接に結びついている。第二は公務労働の独自性にかんするAさん的把握からする第一の主張の基礎づけ、第三は第一の主張をふまえたポジティヴな見解といえるだろう。
 これらの主張は私が理解してきた自治体労働論とは基本的な点で異なるものだった。このようにいえるのだろうか、と疑問を感じた私は、もう一度関連文献(註1)を読み直してじっくり考えてみた。

 

 まず第一の点にかんしては、私は次のように考えた。

 

 サービス労働は経済学原理論の理論的レベルにおいては、物質的生産物を生産しないがゆえに「不生産的労働」と規定されて捨象され、段階論のレベルにおいて論じられる。この場合には「生産的労働」と規定される。「商品が使用価値と交換価値との直接的統一であるように、商品の生産過程である生産過程は、労働過程と価値増殖過程との直接的統一である。」(マルクス『直接的生産過程の諸結果』)、すなわち「生産過程の二つの側面が労働過程と価値増殖過程だ」ということである。そして、このような直接的生産過程からの類推において、段階論で論じられるサービス商品の生産過程も、労働過程と価値増殖過程との統一をなすとされなければならない。このサービス商品(公務サービス商品も含む)の生産過程の構造にふみこんでとらえるならば以下のようになる。
 (公務)サービス商品生産の労働過程的側面をとらえるならば、サービス労働者の労働そのもの、サービス対象(住民)、サービス手段(事務機器など)の三者がサービス労働過程の主客の条件をなす。サービス労働者がサービス手段を媒介にしてサービス対象に働きかけるという構造において、サービス労働過程は成立し実現している。この過程をとおして労働者はサービスという「有用的効果」を生産する。ところで、サービスの生産は、それの使用価値の消費と直接的に同時であるという特徴をもつ。サービスが終了したときには、このサービス生産過程は跡形もなく消え去っているわけである。
 また、このサービス商品生産過程の価値増殖過程の側面をみるならば、サービス主体(この場合自治体)は、行政サービス生産過程の実現をつうじて価値と剰余価値を生産する。そして自治体当局は、サービス商品の購入者である住民からサービスの代金、すなわち住民から徴収する税金の一部を受けとる。ここにおいてサービス商品の価値は実現されているわけである。これをつうじて自治体は、サービス生産過程の実現のための前提としての労働市場において購入した労働力とサービス労働手段にたいして支払った貨幣額を回収するのみならず、投下した資金(または資本)価値を補填するとともに剰余価値を取得する。そしてこの新たに生み出された価値は住民による「有用的効果」の消費とともに消滅するのである(註2)。
 このように公務サービスの労働は公務サービス商品の生産過程をなし、労働過程と価値増殖過程は統一されている。したがって、剰余価値を生産する。――これはわが同志たちが笠置論文いらい解明してきたことではないのかと思ったのである。

 

 公務サービスの独自性について

 

 また第二の点は、公務(行政)労働の独自性にかかわることとして問題になると思った。これについてのAさんの主張は端的に言って「税金によって国家に雇われて強制的にブルジョア的共同事務を遂行させられているのが公務労働(者)であって、公務労働者は剰余価値を生産しない」という規定であり、これが「行政サービスの独自性」とされている。
 だが、このような「独自性」の捉え方は、「行政労働」の内的構造を経済学的に明らかにしたものとはいえないのではないか、という疑問がわいた。あくまで価値増殖過程の構造が明らかにされなければならないのではないか、と私は考えたのである。そして、国家資本(国家資金を投じて価値増殖がおこなわれる形態の資本)や公的資本(地方自治体の資金が投下されたもの)の人格的表現である国家諸機関や自治体諸機関という公的機関が遂行主体である公務サービスは、それ自体が当局者による行政行為であるがゆえに、価値増殖という目的と同時に支配階級の目的、つまり「資本制生産の維持・発展という根本的目的」(Aさん)が貫かれる。私はこの点が「公務労働の独自性」といえるのではないかと考えた。
 また、Aさんの税金の捉え方の前提に、行政サービスは他のサービスとは異なり、生産されるサービス商品を購買者が代金を支払って消費するわけではない、という理解があると私は思った。Aさんは「租税、つまり政府のサービスなどの価格」というマルクスの経済学的規定を「としての意義をもつ。けれども……」と事実上否定して、さきのように主張しているわけだ。
 だが、行政サービス労働の構造を問題にする場合、租税についてのマルクスの本質規定をふまえるべきではないだろうか。そして、行政サービス一般について国家や自治体を、税金を資金として投下してサービスを生産する国家資本、公共資本あるいは社会間接資本と経済学的に捉えるべきではないか。私はこのような疑問をもった。

 

 「不払い労働の取得」とは?

 

 第三に、Aさんは「公務労働者は行政サービス労働過程において不払い労働を雇用主たる地方自治体に取得されてしまう」のであって「それゆえ公務労働者は行政サービス生産過程において搾取されているとは規定しない方がよい」という。
 不払い労働については『賃金論入門』マドの三七で次のように規定されている。

 

 「……支払われたこの賃金は、労働力商品の使用価値の消費としての労働の継続時間のなかの必要労働時間部分(v)をあらわすにすぎず、剰余労働時間部分(m)をふくむわけではない。この側面からするならば、前者の部分は支払い労働と規定され、後者の部分は不払い労働と規定されもする。」

 

 この意味では、すべての賃金労働者が「不払い労働を強制」されているのではないか。この不払い労働(剰余労働時間)こそが剰余価値を創造するのではないか。なぜ公務労働の場合に「不払い労働を取得される」と規定するのだろうか、と私はひっかかった。
 だが、この問題については私は難しいと感じた。
 ともかく、「搾取されているとは規定しないほうがよい」という結論については、永年体感し考えてきた私の「疎外された労働」の把握のしかたとは異なるものだった。
 たしかに「ブルジョア国家は資本制生産の維持・発展を根本的目的としてブルジョア的共同事務としての公務を遂行する」(Aさん)。この遂行を国家(地方自治体)は公務労働者に強制するといえる。だが同時に公務労働者は、その生産過程において剰余価値を生みだし「搾取」されているのだということ、この自覚において労働者は決起するのではないか、このように考えてきたからである。
 北見論文ではこのことが端的に次のように述べられている。

 

 「……公務労働者は、国家(自治体)によって疎外労働を強要され『搾取』されながら、しかし同時に『住民』と規定される被支配階級との関係においては国家的統治=抑圧の一端を担わされるのである。」(『共産主義者』第一七七号、一九九八年十一月、一六九~一七〇頁)

 

 このようにとらえるべきだと私は思った。

 

 組織討議でつかんだこと・なお追求すべきこと


 私は、以上のように考えてきたことをレポートとしてまとめ、ある組織会議に提出した。この私のレポートをめぐってAさんをまじえた組織討議の場をもつことができた。
 Aさんからは次のような意見が出された。

 

 「公務労働が疎外労働であることは否定しないが、剰余価値を生まない公務労働はいっぱいある。公務とは何か、考える必要がある。」「福祉サービスなどは私的資本でもおこなわれるので公務労働といっても特殊性がある」と。

 

 私は当初、この意見をきいて当惑し混乱した。「一般に、公務サービス商品は他のサービス商品と同様に市場で流通し貨幣(徴収された税金の一部)と交換されるのであり、価値は創造され剰余価値は当局によって搾取されている、これはすでに解明されていることではないか」という持論を反芻し主張した。「公務とは何か」を考える必要については、公務労働を考える場合の一つの課題だろうと考えた。
 私は、当日論議に参加した仲間に、翌日の別の会議でいくつか質問した。そこである同志の「Aさんとアナタとはアプローチが逆なのではないか」との一言が私の思考の閉塞を破るきっかけとなった。

 

 「そうか、Aさんは講演の前半で『公務とは何か』について考察していた(註3)。このことは公務の労働過程を分析する前提として公務について解明しているということなのだ。これにたいして私は諸文献にあたり、そこにとりあげられていた自治体労働、たとえば『本質的には資本家階級の意志を体現する自治体当局者のもとで、道路・港湾・上下水道・清掃・学校・病院・公園など産業・生活環境を整備し、文化・スポーツその他の福祉・厚生施設をつくりだし、それを維持・管理し、機能させている』労働(註4)などをもっぱら念頭において、公務サービス労働とは何かを追求しようとしている、現実におこなわれている、この範疇に属さない各種の労働を措定していない」と。
 同志たちは例をあげてくれた。
 「戸籍管理労働」「都市計画の策定にたずさわる労働」等々。たしかにこれらの労働は私の想定した自治体サービス、たとえば教育・福祉サービスなどとは異なって権力行政的な性格をもっており、商品として市場に流通し住民に販売されているものとはいえない。Aさんは、公務を一括してとらえるのではなく、その具体的形態をどうとらえるべきかを追求すべきだと言っているのだ。私の追求のアプローチがおかしいのではないかと気づかされた。
 このようなことがらを深めていくことは私の新たな課題である。
 またブルジョアジーの階級支配の一端を担わされているという事実の認識によって自治体労働者は階級的に自覚するわけではない。Aさんが言う「公務労働者は剰余価値を搾取されているとはいえず、不払い労働を取得されている」という問題領域にかかわること、つまり自治体労働者の自覚の物質的基礎にかんする経済学的解明は今後の課題としたい。Aさんをはじめ論議に参加してくれた諸同志に心から感謝します。
〔註1〕主な関連文献
・『「資本論」と現代資本主義』(第Ⅱ部 習志野、松代論文)
・『共産主義者』第八十六号(一九八三年九月)〈資本主義的サービス労働論特集〉
 「スターリン主義者のサービス労働論について」(矢嶋論文)
 「医療サービス労働論ノート」(仙波論文)
 「教育労働の経済学的考察」(笠置論文)
 「芝田進午の「『労働過程』論の混乱」(藤葛論文)

 

〔註2〕「価値の消滅」(『革マル主義術語集』二五一、二七五頁)
 「サービス商品の購入者はこの商品の使用価値を消費するのであるが、この過程は同   時にこの商品の価値の消滅となる」(同書二七五頁)
 その他、『賃金論入門』九〇頁・マド二六(補註2)

 

〔註3〕Aさんの講演は次のような構成になっていた。

 

 はじめに
A 公務とは何か
 (1)芝田進午の「国家による公務の包摂」論
 (2)芝田進午批判
 (3)国家の諸機関と地方自治体との関係をどう捉えるか
 (4)ブルジョア的共同事務とは何か
B 公務労働(行政サービス労働)の基本構造
 (1)サービス労働の本質論のレベルでの規定
 (2)サービス労働の段階論的アプローチ
 (3)行政サービス労働そのものの構造

 

〔註4〕『革命戦線』第三六号、一九八四年二月、一四二頁