『自然破壊と人間』(野原拓著プラズマ出版) 近日発売!!

3月12日から書店販売をはじめます。

 筆者からのアピール「はじめに」を掲載します。

 

 はじめに


 バイデン政権は脱炭素の政策に舵を切った。アメリカもまた、西ヨーロッパ諸国、中国につづいたのである。ここに、石炭・原油天然ガスなどの化石燃料を自国の経済成長のための主軸とすることを主張して、温室効果ガス削減の動きに対抗する国はなくなった。日本の菅政権も、大慌てで、再生可能エネルギーの技術開発を前面に押し出しはじめた。


 だが、このことは、各国の権力者たちや資本家たちが、自分たちが地球環境を破壊してきたことを反省して政策を転換した、ということを何ら意味しない。自分たちがあまりにも環境的自然を破壊し大水害や森林火災やまた絶滅種の増大などをもたらしてきたことのゆえに、彼らは、ブルジョアジーとしての利害からしても温室効果ガスの削減に踏み出さざるをえなくなったのであり、各国の権力者たちがおしなべてその政策を採ったうえでは、太陽光発電や水素などのエネルギー源の技術開発および生産が、そしてこれにもとづく産業構造の大再編が、膨大な利潤を生む部門となったからなのである。これらの諸部門への資本の投下が、米欧日などの国家独占資本主義国や中露の国家資本主義国に溜まりに溜まっている過剰資本を処理する形態という意義を獲得したからなのである。
 だからこそ、全世界の諸独占体は、新型コロナウイルス感染拡大の影響をうけて危機に瀕した諸企業を救済するために株式市場・債券市場やあるいは諸企業に直接的に注入された国家資金、これを活用して脱炭素の新部門の興す、とともに、既存の生産設備を直接的に廃棄し、そこで働いていた労働者たちを大量に解雇する動きを開始したのである。


 サハラ砂漠太陽光パネルをおき、それによって得た電力でもって水素を生産して液体にし、この液体水素を、水素を動力とするタンカーでヨーロッパやアジアに運ぶ、というような諸事業に、各国の金融資本は群がりはじめているのである。
 このような諸行動があくまでも資本を増殖するためのものである、ということは、最大の自然破壊をなす森林の破壊を各国の権力者や資本家たちがやめていないことに端的にしめされている。
 アマゾンの熱帯雨林は、その全体の一五%をすでに失った。肉牛の飼育牧場をつくるために、そして輸出用の大豆を生産するために、木々は伐採された。このような資本制的開発の行動を裏で操っているのが、アメリカのアグリビジネス企業なのであり金融資本なのである。
 ボルネオ島を中心とする東南アジアの森林は、かつての植民地時代から連綿とつづき拡大されてきたプランテーション経営や鉱業開発のために破壊されてきた。いまでは、こうした経営は、その諸生産物を買いあさる中国の国家資本の勢力圏のもとに編みこまれているのである。
 森林は、その樹木が光合成をおこなうものとして、二酸化炭素を吸って酸素を出す自然のたまものである。そればかりではない。光合成によって成長した木々は、それ自体、太陽エネルギーの凝結体をなす。石炭・原油天然ガスなどの化石燃料は、過去の太陽エネルギーの蓄積物である。森林破壊というかたちで太陽エネルギーの現在的な蓄積を阻害したうえで、化石燃料の消費という形態をとって・蓄積された過去の太陽エネルギーを地上に解き放つのは、そのことそのものにおいて地球の温暖化をもたらすのである。森林内での巨大な水力発電所の建設は、その森林の破壊をなす。だが、水力発電は、再生可能エネルギーの部類に入れられているのである。
 原子力発電は、原子核のなかに閉じこめられていたエネルギーを地球上に放出するものである。生産された電気エネルギーは最終的には熱エネルギーとなる。このゆえに、原子力の消費は、地球を暖めているものなのである。
 このようなことの一切が無視されているのは、現在直下のエネルギー転換が資本の自己増殖のためにおこなわれていることにもとづくのである。


 いまもてはやされている斎藤幸平は、地球温暖化の根拠を資本主義そのものにもとめている。このかぎりにおいて、その主張は斬新であり、正しいといえる。だが、彼の言う・資本主義の克服は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共的に管理せよ、ということでしかない。いくら地方公共団体が経営したとしても、その経営体は資本なのであり、公的資本という規定をうけとるのである。日本では電力は民間資本によって経営されているのであるが、公的経営をなすところの、水道局の労働者も、住宅公団の労働者も、市民病院の医療労働者も、さらに公立学校に雇われている教育労働者も、いま過酷な労働を強いられ・こき使われ、搾取されているではないか。
 どんな経営体に雇われているのであれ、すべての労働者がみずからを賃労働者=プロレタリアとして自覚し、資本によって賃労働が搾取されるというこの階級関係そのものをその根底から転覆するために階級的に団結しなければならない。
 このような労働者たちの階級的団結ということを無視抹殺し、資本主義的な秩序はそのままにしたうえで公共的なものをひろげていけばいい、としているのが、斎藤幸平なのである。これは、彼が「マルクスの再解釈」の名のもとにマルクスエコロジー的に歪曲したことにもとづくのである。
 マルクスは、プロレタリアの労働を疎外された労働としてあばきだし、この労働の疎外の廃絶をめざしたのであった。斎藤幸平は、これをねじまげたのである。労働の疎外というのはまだ表面的な把握であって、これをほりさげて、人間による自然の疎外という根本問題をマルクスはつかみとったのだ、というように、である。これは、労働力の商品化を、だから生産諸手段の資本制的私的所有を、その根底からくつがえす、というマルクスの・プロレタリアートの自己解放の理論を否定するための理論的詐術なのである。


 われわれは、このような、マルクスエコロジー的解釈替えをあばきだしていかなければならない。
 われわれは、マルクスと・それをうけついだ黒田寛一の実践的唯物論を、そして『資本論』の真髄を貫徹して、二一世紀現代世界の諸問題を思索し解明するのでなければならない。


 矛盾に満ち満ちたこの現代世界を変革するために、この本に主体的に対決されんことを望む。
           (二〇二一年二月一九日 野原 択)

 

近日発売予定!!『自然破壊と人間』(プラズマ出版  野原拓)

f:id:tankyuka:20210301110013p:plain

筆者は熱く呼びかけます!

矛盾に満ちたこの現代世界を変革するために、この本に主体的に対決されんことを望む。

 

 ぜひ書店でお買い求めください。

なお、お近くの書店でお取り寄せすることもできます。

直接、版元であるプラズマ出版にご注文することもできます。送料は版元が負担します。詳しくは、プラズマ出版のホームページをご覧ください。

FAx   047-409-3730

e-mail  plasma.pb@outlook.jp

URL   https://plasmashuppan.webnode.jp/   

                             (2021年3月1日  編集部)

脱炭素産業革命のもとでの 米・中のレアメタル資源争奪戦の激化

 1 はじめに

 

 人間は「自然がなければ、感性的外界がなければ、なにものをも創造することはできない。」
                    ~(マルクス『経済学・哲学草稿』)~

 いかにデジタルテクノロジーが高度化され、金融をも含む経済のデジタル化が進もうとも、また宇宙空間をも含む軍事的抗争がハイテクノロジーを基礎に展開されようとも、その高度技術は、自然=地球から得られる素材なくしては成り立たない。いや、創り出し得ないのである。
 「クリーンエネルギーへの転換」という名のもとにおしすすめられている脱炭素産業革命も同様である。
 EV自動車、自然エネルギーによる発電、水素エネルギーの利用。脱炭素産業革命はデジタルテクノロジーの高度化を技術的な基礎としている。しかし、当然にもこの技術の高度化は、自然=地球から得られる素材からしか生まれ得ない。その素材が、レアメタルレアアースレアアースと呼ばれる諸元素はレアメタルと呼称されるそれに含まれる)である。この希少金属の個々の特性の把握と利用によって、既存技術は飛躍的に高度化され、デジタルテクノロジーが生みだされてきたのである。
 携帯電話一つをとってみよう。そこには、タングステン、インジュウム、リチウム、パラジュウム、ニッケル、タルタン、コバルト、ベリリウムガリウムストロンチウムなど数多くのレアメタルが使われている。このレアメタルレアアース個々の特性を生かして利用可能とする技術の高度化によって、私たちは携帯電話を利用することができるのである。
 脱炭素産業革命はこのレアメタルレアアースを大量に必要とする。気候危機に抗するクリーンエネルギーへの転換という美名の下に急激に進められている脱炭素産業革命は、決してクリーンな「持続可能な自然と人間との共存」などというものではない。またそれは、米中対立のなかにあって激烈な資源争奪戦として展開されているのである。

 

  2 レアメタル採掘による自然環境の破壊

 

 レアメタルレアアースは土中の岩石に微量に含まれている。だから採掘には、大量の岩石を掘り起こさねばならない。たとえばバナジウム1㎏を生産するためには、8.5tの岩石を、セリウム1㎏は16t、ゲルマニウムは50t、ルテチウムにいたっては1200tもの岩石から1㎏しか精錬されない。膨大な採掘が必要なのである。と同時にこの掘り起こした岩石のなかからレアメタルを取り出すのには、硫酸系または塩酸系等の化学薬品が大量に使用されるのである。この化学薬品の垂れ流し、またはそこに溶け出した他の重金属によって、地下水や河川の水が汚染されるのである。
 レアメタルレアアースを含む鉱脈の発見も広大な地域での調査・試堀が必要とされる。
 そのために自然が破壊されていくのである。ブラジルのアマゾンやインドネシアでの森林伐採はそれと無関係ではない。先日岩手県遠野市においても、太陽光発電施設建設のために90万平米の森林が伐採され、それが原因で河川の汚染被害がでたことが報じられていたが、その数十倍数百倍規模での森林破壊が行われているのである。
 中国内モンゴル自治区包頭市は世界一のレアアースの生産量を誇る。アメリカのシリコンバレーをしのぐ勢いで発展してきている。しかし、その環境汚染の現実には驚愕する。
 何ら浄化されていない汚染水が人口湖に貯められ、地下水、地域の河川、黄河を汚染していると報じられている。人工湖の近くの村は「がんの村」と呼ばれていた。現在は住民すべてが移住させられている。
 コンゴはコバルト、タンタルの主要産出国であるが、労働者・人民は手掘りの過酷な労働を強いられている。流出する重金属、化学薬品による鉱山周辺の河川・地下水の汚染というかたちでの環境の破壊とこれにもとづく周辺住民の体内へのコバルトの蓄積は、通常の43倍にものぼる、という報告がある。いうまでもなくコバルトは発癌性物質であり、肺炎・肺機能異常、遺伝子異常、精巣萎縮、精子数の減少などの人体への影響が報告されている。
 超合金の加工などに使われるクロムは、中央アジアカザフスタンが主要産出国であるが、その生産施設からの排水による河川・地下水の汚染により、その水は、飲料水はおろか農業用水にも利用できない状態となっているのである。
 今、アメリカ帝国主義権力者・独占資本家どもが注目しているアルゼンチン、ボリビア、チリなどの南米諸国でも、塩類平原の地下に眠るチタンの採掘をめぐり、河川の汚染、自然生態系の破壊、また鉱床をおおう氷河の破壊が問題となっている。
 採掘の一例をあげると、リーチング方式と言われる採掘法では、採掘対象となる鉱山に大量の硫酸アンモニウムが注入される。その結果、残留する硫酸・硫酸カルシュウムによって土壌の酸性化がもたらされ、「草木も生えぬ」という土地だけが残るのである。
 セリウム、ネウジウム、ジスプロシウム、テルビウムなどのレアアースの精錬過程ではトリウム、ウラニウムなどの放射性物質が同時に産出される。ウラニウム、トリウムは原発の燃料となる。また精錬過程の排水にそれが混入することが指摘され、フランスのレアアース精錬工場は廃業となっている。
 上に見てきたように、レアメタルレアアースの産出・精錬過程は極めて大きな自然破壊・環境汚染を伴うものであることが明らかである。そればかりではない。環境破壊が行われるということは、同時に、そこで働く労働者の「身体の汚染」も放置されているということである。だからアメリカ、フランスのレアメタルレアアース鉱山、精錬工場は閉鎖しなければならなかったのである(昨年、アメリカのネバダ州のレアメタル鉱山は、テスラとパナソニックによってふたたび生産を開始する、と報じられた)。そしてその「汚れた仕事」は中国・アフリカ・中南米諸国へと移ったのである。
 低賃金で労働環境を何ら整備することなく、また環境汚染対策も行わないですませることができる地域へと移されたのである。
 コンゴでは、鉱山での児童労働の問題が報告されている。低賃金で劣悪な環境での労働にもとづく搾取と自然環境破壊。
 これが、クリーンエネルギーを支えるデジタルハイテクノロジーのための資源産出の実態なのである。

 

  3 激化する米中のレアメタル資源争奪戦

 

 鄧小平が「中東には石油があるが、中国には鉱物資源がある」と述べたように、レアメタルレアアースの多くは中国が主要産出国である。世界の消費量に対する生産量の割合は、たとえばインジウム44%、バナジウム55%、蛍石65%、ゲルマニウム71%、アンチモン77%、タングステン84%等々。レアアースに限って言えば、実に95%が中国で生産されている。そのなかにはもちろん、EV自動車に欠かすことができないネオジウムも含まれている。中国はレアメタルレアアース資源大国なのである。だがそれだけではない。習近平中国の進める「一帯一路」戦略の陸の経路は、実に中央アジアレアメタルレアアース資源諸国家と一致しているのである。またアフリカの資源諸国家への政治経済的影響も拡大してきている。今、軍部のクーデーターが起こったミャンマータングステン、ニッケル、錫、タルタンを産出する。ミャンマーの軍部は中国に近いと報じられている。ミャンマーだけではない。カンボジアラオスも同様にタングステンなどのレアメタルの鉱脈があり、中国の資本が支配している。北朝鮮レアメタルレアアースの鉱脈をもつ。中国はすでにその権益を獲得していると言われている。新疆ウイグル自治区人民への大弾圧は、レアメタルレアアース資源とは無関係ではありえない。新疆ウイグル自治区にその大鉱脈が発見されたのである。習近平の率いる国家資本主義中国は、アジア、アフリカの専制政権をテコ入れしながら、まさにレアメタルレアアース資源の世界的な支配を目論んでいると言ってよい。
 他方、アメリカ帝国主義国家権力者バイデンは、「アメリカファースト」を叫んだトランプの孤立主義的諸行動によってもたらされたレアメタルレアアース資源争奪戦の出遅れを、躍起になって巻き返す動きに出るに違いない。またアメリカ国内の鉱山の開発、中南米政権へのテコ入れ、同盟諸国間の連携の強化などをもってする資源の確保に狂奔せざるを得ない。また中国の政治的・経済的影響力の及ぶアジア・アフリカの専制的諸国家に対しては、自然破壊、人権、あるいは児童労働の問題を持ち出して揺さぶりをかけていくだろう。中国においても、その政治的経済的影響力の及ぶ資源国においても、労働者・人民は劣悪な環境のもとで低賃金で働かされている。このことが、欧米帝国主義各国の取得するレアメタルレアアースとの価格の差としてあらわれてくるからである。だがこのことは、欧米帝国主義の鉱物メジャーが人間の社会的生活の環境に配慮し、労働環境の整備された生産をおこなうことを意味するものではない。彼らは、今まで、汚染水を垂れ流し、自然を破壊し、劣悪な環境のもとで労働者を低賃金で働かせ、労働者・人民を重金属による汚染まみれにしてきたように、また専制政権をテコ入れし、地域住民の様々な反対運動を弾圧してきたように、これからもそうするのである。そうしなければレアメタルレアアースを素材とする製品が高騰するのである。それは、帝国主義諸国の諸独占体が中国の諸独占体との国際競争に敗北することをもたらすことになるのである。
 レアメタルレアアース資源争奪戦は、ミャンマーのごとく専制政権を生み出していくことは間違いない。また、アフリカ、西・中央アジアでの紛争を激化させるに違いない。
 その背後には、アメリカを中軸とする帝国主義各国と中ロの国家資本主義との対立の激化がある、と言わなければならない。
 レアメタルレアアースの争奪戦は、それの価格を高騰させる。帝国主義諸国の独占資本家どもは、労働者の賃金の引き下げと合理化によって搾取を強化していくことは明らかである。いまや、さまざまな雇用形態が導入されることにもとづいて、労働者の団結が破壊され、いままで勝ち取ってきていた労働者の諸権利は奪われつつある。ギグワークやフリーランス、労働者の個人事業主化など、あらゆる方法で、それはなされてきている。独占資本家どもがそれに拍車をかけることは必至である。
 われわれは、「クリーンエネルギー」の名のもとでの脱炭素産業革命の実態をあばきだし、レアメタルレアアース資源国の労働者人民と団結し、また石油・石炭資源国の労働者・人民と団結して、世界的な闘いを構築していかなければならない。と同時に、米中レアメタルレアアース資源争奪戦を背後にもって行われるであろう戦争を断じて許してはならない。
 全世界の労働者・人民の団結をつくりだそう!

 

  追記

 

 今日、2月24日付け日経新聞において、アメリカが、半導体や電池などの重要部材のサプライチェーンづくりにおいて、同盟国や地域との連携を強化し加速させる、という大統領令にバイデンが署名することが報じられている。これは、レアメタルレアアース資源の独占を目論む中国に対抗するためのものである。まさにレアメタルレアアース資源争奪戦は激化しているといわなければならない。また、半導体の主要生産国である台湾をアメリカ帝国主義は防衛する、ということでもある。東シナ海における武力衝突、中国の台湾への軍事進攻が現実的になりつつある。われわれはこれを断じて許してはならない。
       (2021年2月24日   西 知生)

「党物神崇拝」の克服とは?

 唯圓氏「KKの幼児退行と鶴巻派佞臣の相互浸透」論

          について

 

(一)「メタモルフォーゼ」――問題の所在

 

 当ブログに掲載された「唯圓」氏(以下、「氏」と略す場合がある。)の「メタモルフォーゼ」問題に関する寄稿文(続編)「KKの幼児退行と鶴巻派佞臣(註1)の相互浸透」を読んで、私が学ぶことは多かった。旺盛な探究心にもとづく氏の「メタモルフォーゼ」問題についての点検は、反スターリン主義運動の前進をはかる立場にたつかぎり、歴史的な意義をもつ、と私は考える。それ自身が、直接的に反スタ理論の創造的発展を意味するものではないとしても、今日の「革マル派(註2)の変質と対決し、その思想的=組織的根源を暴き出すという避けて通ることの出来ない課題にとって極めて貴重な資料を提供するものとなっているからである。氏の尽力を多としたい。(なお、氏の点検は「メタモルフォーゼ」問題にとどまるものではないが、ここでは「メタモルフォーゼ」問題に限って言及する。)

 

(註1)鶴巻派:「革マル派」の本部事務所(解放社)が新宿区早稲田鶴巻町にあることから、またこぶし書房も発足時には同所にあったことから「革マル派」中央指導部をこう呼ぶ。唯圓氏独自の造語である。
 佞臣:「ネイシン」と読む。広辞苑によれば「佞奸な臣。へつらう臣。」
(註2)革マル派」:「 」をつけるのは、〈黒田教団〉へと転落した〈もはや革マル派とは言えない自称革マル派〉を表すためである。

 

  「メタモルフォーゼ」をめぐる歴史的経緯

 

 まずは、氏自身の寄稿文「青恥・赤恥・頬かむり」(当ブログ掲載〔一月二六日~三一日〕)に引き続いて、続篇「相互浸透」でも、氏自身の実体験にもとづいて明らかにされた「メタモルフォーゼ」に関する留意点について(さらにまた私自身の認識をも加味して)整理する。

① 一九七五年発行の『変革の哲学』(こぶし書房)では、著作上では初めて「メタモルフォーゼ」の記述が見られること(一一六頁)。

② 一九八九年六月刊行の『資本論入門』では、マルクスの叙述を紹介して、「姿態(ゲシュタルト)転換」としていること(一九〇頁)。

③ 一九九一年九月に刊行された『覺圓式アントロポロギー』所収の「ウンコロジー」(これには、「一九八七年三月二日」の日付がある。)では、「この生物有機体に普遍的に妥当する法則がメタモルフォーゼ」とされている(一八頁)。「アテハメオロジー」(これには、「一九八七年三月二三日」という日付がある。いずれも一九八七年に、革マル派機関紙「解放」に掲載されたものであろう。)そこには「特定個人の生物有機体のメタモルフォーゼがどのように攪乱されたり身体機能が故障したり」というような記述があり(八五頁)、これは「さっきメタモルフォーゼといったが」というように再確認されてもいる(八六頁)。

④ 一九九三年三月刊行の『宇野経済学方法論批判』(こぶし書房の改版)「あとがき」では、「『資本論』第一巻第三篇第五章の叙述のなかの労働過程の一般的諸規定(「自然と人間とのメタモルフォーゼ」の本質論)」とされていること(四九六頁)。

⑤ 一九九四年四月に刊行された『社会の弁証法』では、「物質代謝(メタモルフォーゼ)」、「マルクスが「自然と人間との間のメタモルフォーゼ」というように労働過程を根源的に規定している」、「労働過程(または生産的実践)は、メタモルフォーゼの社会的形態である」等の叙述が見られ(一二九~一三〇頁)、「質料転換」という語には「メタモルフォーゼ」というルビが付された(一三二頁)。
 「メタモルフォーゼ」は『社会観の探求』(一九六一年執筆)にはまったくなかったものである。

⑥ 一九九八年一月に刊行された『変革の哲学』の英語版としての『 Praxiology 』では、「metamorphose 」ではなく、「Stoffwechsels」 と「metabolism」 が用いられいる(四五、四六頁)。

⑦ 一九九八年一一月刊行の『 Essential Terms of Revolutionary Marxism (革マル主義術語集)』では、日本語では「メタボリズム(新陳代謝、同化と異化)」(二四五頁)、英語では「 metabolism 」、ドイツ語としては「 Stoffwechsel 」(二四四頁)というように正しく記されている。

⑧ 二〇〇三年八月刊行の『社会の弁証法』の英語版『 Dialectics of Society 』では、⑤の当該箇所は、「metabolism」「metabolic interaction」とされている(一二五、一二八頁)。

⑨ 二〇二一年一月刊行の『黒田寛一著作集』第二巻(KK書房)としての『社会の弁証法』では、一九九四年の同書の初版とまったく同様であり、「物質代謝(メタモルフォーゼ)」等の記述はそのまま維持され(一一一頁)、「質料転換」に付された「メタモルフォーゼ」のルビもまたそのまま再現されている(一一三頁)。

 

 このような経緯は、唯圓氏の精力的な理論探求の過程で丹念な追跡を通じて明らかにされたものである。私自身は、ドイツ語を学んでいた一九八〇年代末に初めて関心を抱いたのみであり、また氏のような全面的な吟味はしてこなかったので、大いに勉強させていただいた。〔なお、私・佐久間の記憶している事実として、一九六〇年代の同志黒田の講演のなかに「メタモルフォーゼ=新陳代謝」との口述があることについては、資料的に確定出来ないので、上記からは省いた。〕
 また、おそらくは一九九八年に革マル派から最後的に追放されて以後の「独立・独歩」の営みの中で、氏がこれほどの勉強をされてきたことには驚かされている。というより、私自身の不勉強を暴露されているようで、恥ずかしい限りである。

 

(二) 同志黒田の暗澹

 

 上記に見るように、英語版には「メタモルフォーゼ」の誤用はないのである。一九九八年一月の『 Praxiology 』以降に発刊された英語版の諸著作では、すべてで「メタモルフォーゼ」という語は用いられていない。そして一九九八年一月のこの転換は、唯圓氏のこぶし書房に宛てた手紙〔一九九七年五月〕に由来している、と捉えて良かろう。当時すでに革マル派の基本組織から排除されていたと思われる彼は、彼の〝管理〟担当者から聞いていた『変革の哲学』の英語版の刊行予定の「一九九七年六月」を前にして、同志黒田の「メタモルフォーゼ」に関する誤認がそれに反映されないようにと考え、手紙を書き伝えようとしたのだ。そして、同月末には「回答」が届いたと唯圓氏はいう。

 

 唯圓氏には回答があった

 

 「発信者名はなかったがことの性格上「名乗るまでもない人」つまりKKご本人からと理解すべきでしょう。」として氏は続ける。

 

 「KT(当地の常任〔当時〕)から聞いたその内容は次の4点であった。
1.Metamorphose の使い方が誤りだという指摘は大筋で正しい。
2.この誤りには数年前にすでに気づいている。
3.英文で書かれたものではすでに訂正されている。
4.余談として指摘されている『現代における平和と革命』(二八〇頁)の「市川正一」の誤りについては発行直後に気付き、増刷分ではすでに「志賀義雄」に訂正して発行している。」
と。この4点であった。」

 

〔このうち、「市川正一」に関しては、事実は「すでに訂正している」ではなく、実は「そのうちなおす」ということだった、と唯圓氏は言う。この件については、本稿では捨象する。〕

 

 私が「メタモルフォーゼ」のルビは誤りであることを記した同志黒田宛の手紙を常任メンバーに託したのは、⑤一九九四年四月の『社会の弁証法』刊行の直後であったが、これには何の回答もなかった。唯圓氏が手紙をこぶし書房に宛てたのは、一九九七年五月であるが、それは氏が②の『資本論入門』を読み、「姿態(ゲシュタルト)転換」という表現を見て、同志黒田が「姿態変換」はマルクスが用いた「メタモルフォーゼ」という語の訳語であることを知らないことが判明し、「メタモルフォーゼ」という語を誤って理解している、と断定したからだという。
 そして氏は、当初は彼自身が「一九九七年六月刊行」と聞いていた『変革の哲学』の英語版の刊行が実際には一九九八年一月となったのは、氏の手紙が届いた時にはすでに完成間近に至っていた同書の当該箇所を訂正するために、刷り直すこととなったからではないか、と推察している。――これはおそらくその通りであろう。
 だが九四年には同志黒田は転換せず、私への回答もしなかった。九七年にはなぜ転換したのか。

 

  一九九四年の私の手紙への無回答

 

 氏は、「探究派公式ブログ」掲載の私の小論(二〇二一年一月二〇日付)「 神官たちの醜怪」を読んで「私の一九九七年五月より前にそれとは独立に九四年春にすでに指摘した方がおられると知って本当にうれしく思う」とした上で、「回答」の「2.」の「数年前に気付いている。」というのは、ゴマカシであること。さらに「3.英文で書かれたものではすでに直している。」というのもゴマカシだ、という。
 「2.」の問題について氏は、同志黒田が「数年前に指摘が出ていたことに、今気が付いた」というのが、その正しい読み方であるとし、このことをもって、氏は「時制をずらすKK話法」だ、と言う。
 私は、氏の仕事のおかげで、いま様々なことを推し量ることが出来ているのであるが、この点について、異なる意見をもつ。
 
 私は、小論「神官たちの醜怪」では、『著作集』第二巻にあえて「メタモルフォーゼ」を残したままで刊行した「革マル派」指導部の腐敗をもっぱら暴露するということにとどめた。唯圓氏によって同志黒田その人の問題性が論じられているが、私はそれは歪んでいると考える。本稿では、前稿よりさらに論を進め、同志黒田その人の問題についても論じることにする。

 

  手紙の行方

 

 一九九四年当時、私は同志黒田の指示にもとづいて、ある産別労働者組織の学習会のチューターとして勤しんでた。(さらにまたその数年後には、私は党常任の任につくことを――二度三度と――求められることになったのである。)その当時に、私の同志黒田宛の書面を、途中で隠蔽する常任メンバーがいたとは思われない。手紙が同志黒田のもとに届いたことは疑いない。書面を読めば、内容は疑問の余地のないものであることに同志黒田ならすぐ気がつく。だから同志黒田の「数年前に気付いている」との返答じたいは真実を述べたもの、と私は考える。だが、同志黒田がその気づきを組織的に普遍化し、日本語版の諸著作の訂正を指示しなかったのは、なぜなのか。
 今にして私は思う。それは同志黒田の〝狭量〟のゆえではない。私の手紙を受け取った時の同志黒田の衝撃は、私がこれまで想像しえた範囲を遙かに超える深刻なものだったのではないか。彼は暗澹たる気持ちに襲われたのではないか。そしてこのことが、彼がこの時に誤りを誤りとして認め、組織的に普遍化するという当然のことをせず、また私に返答もしなかった主体的根拠ではないのか、と。

 

  同志黒田の衝撃

 

 metamorphose に関する誤った知識は、同志黒田が若いころから、おそらくは一九六〇年代から護持してきたもの、と私は考える。そして一九七五年の『変革の哲学』以降の、公にされた諸著作には、この誤った知識にもとづく記述が連綿と続いていることはすでに見たとおりである。その誤りを指摘されたことは、同志黒田にとって、重い事実だったのだろうと推察する。その重さは、誤った思い込みの内容に由来するものではない。いやむしろ、あまりにも歴然とした簡単な誤りでしかないにもかかわらず、その誤りを自覚する契機がこれまでなかったことをこそ彼は突きつけられたのである!

 

  誰が考えても分かること

 

 唯圓氏が指摘し、私も指摘しているように、革マル派結成以後だけでも三〇年、彼ととともに闘ってきた数多の先輩同志たちは、誰一人として彼の簡単な誤りを指摘しなかったと思われる。もしそうでなければ同志黒田は歴史を偽造したことになるのである。『変革の哲学』刊行以前にも、同志黒田が「メタモルフォーゼ」について口述したことは多々あったであろうと推察される。
 組織成員たちの中には、医師も多い。彼らは病身の同志黒田の、比較的身近にもいた。医師でなくても、ドイツ語や英語についてある程度の水準にある同志はそれなりにいたはずである。彼らが英訳本刊行の先頭で尽力したであろうことは推測に難くない。しかし、そのなかの誰一人として彼の誤りを指摘しなかった。同志黒田は、一九九四年に至るまで、革マル派組織の内から〔また外からも〕、一度として教えられなかったのである。誰一人気づかなかったなどということはあり得ない。同志黒田が言っていることだから、というある種の精神的萎縮が判断を鈍らせたということなら、ありえよう。また、気づいたメンバーはなぜ同志黒田に直言しえなかったのか、それほどまでに同志黒田を畏れていたのか。いずれにせよ、誰も指摘しなかったことは厳然たる事実である。このようなことが瞬時に同志黒田の頭蓋を駆け巡らないわけがない。――晩年の同志黒田には、今日から見て著しい衰退が見られることも事実であるが、一九九四年の同志黒田は、『実践と場所』の仕上げに勤しんでいた時期である。
 定かではないのだが、同志黒田は、どこかに、遙か前に〝若い仲間から指摘されて、誤りに気づいた〟と書いていたという記憶がウッスラと蘇ってくる。遠い過去にはそのようなことがあった、だが今は、……という思いが浮ぶのは、自然な流れであるとさえ言える。「メタモルフォーゼ」の問題は党組織そのものに潜む重大な問題性を示すものであることに、同志黒田が気づかないわけがないのである。

 

  〝叛逆者〟の正鵠

 

 さらにこのことを重くする〝事実〟がある。それは、この問題を指摘したのが、私・佐久間だということなのである。
 私は、一九八七年以来、革マル派組織建設の底に通奏低音のように流れる同志黒田の言説の絶対化、今日的に言えばその神格化傾向こそが、党組織の硬直化の根源である、と考えていた。一九八九年だったのではないか、と思うが、同志黒田宛に「意見書」を書いたこともある。その内容については、文書そのものを残していないので、定かではないが、次の一句だけは鮮明に覚えている。――「たとえ小さな欠陥であろうとも、そのメンバーの組織的地位が高ければ高いほど、組織破壊的な作用は大きいのであって、それだけ厳しい自己点検が問われるべきであるはずだ」と。これは直接的には、当時の「鬼塚龍三」を名乗る人物をさして述べたことであったが、当然にも同志黒田をも意識して書いたものであり、同志黒田には当然そのようなものとして解されているはずである。また、「〝山パンのような生動的な組織〟は画餅に終わるのか」と訴え、最後を「お考えを伺いたい。」という文言で締めくくったことはよく記憶している。だが、当然にもというべきか、返答はいただけなかった。こういうことからして、一九九三年夏までの私は、党の指導部(同志黒田を含め)からは、いわゆる「同志N」の「反権威」主義という悪い面だけ受けついだ〝捻くれ者〟と看做されていたようである。有り体に言えば〝反発分子〟として、である。(この意味では唯圓氏と同じ。)
 同志黒田の側から考えれば、そのようなメンバーからしか「メタモルフォーゼ」の問題性は指摘されなかった。(「同志黒田の絶対化」ということについては、これまで多くのメンバーが疑問をもったに違いない。けれども、この問題について真剣に考えた人たちは――つまりスリヌケできなかったメンバーたち――は、ほとんどすべてが「解決不能」な問題とみなして戦線を離脱したであろうことは推測に難くない。痛ましいことである。)

 

  重畳する諸問題


 しかも、である。その前年の一九九三年には、いわゆる「賃プロ魂注入主義」の問題が発覚した。党指導部建設そのものの破綻を同志黒田は突きつけられたのであった。この問題に関して、一九九二年三月一日の春闘決起集会におけるいわゆるDI報告〔「3・1報告」〕の問題性について、その当時に明確に批判していたのも、私・佐久間のみであった、という事実を同志黒田は一九九三年夏には突きつけられていたのである。〔この問題については、稿を改めて論じる。〕そして、この問題と連動して、唯圓氏も指摘している沖縄の党組織、および旧国鉄(JR)の党組織の離反が相次いだのであった。これらの事態に直撃されて、同志黒田が深い挫折感を味わったことは推測に難くない。
 数多の弟子たちの中で、「メタモルフォーゼ」問題を指摘した(当時においては)たった一人のメンバーがこの私であり、同志黒田その人の指導をも含め、革マル派建設の現状に強い否定感を表明してきたメンバーであったという事実を突きつけられて彼は何を思ったか。それは私の想像を超える。しかし、同志黒田にとって、「metamorphose 」の問題は、決して些末な問題ではなく、他の重大な組織問題とともに革マル派建設そのものの挫折をつきつけるものとなったのではないか、と私には思われてならない。
 一九九四年に私の手紙を読んだとき、同志黒田に重々しい直観が働いたであろうことは確かである。あえて言おう。――同志黒田はそこで問われたのではなかったか。

 

〔晩期の同志黒田の諸論文に私は、深い失意ないし挫折感を読み取る。このように言うのには、もちろん、探究派結成以後のわが同志たちとの討論を通じて明らかにしてきた諸問題についての認識がベースとなっている。ここではこれ以上立ち入らないが、われわれにはいずれ明らかにする責務があると考えている。〕

 

 私の手紙を受け取った同志黒田は、恐らくは深刻な精神状況に陥ったのではないか。それが、誤りをすぐ組織的に周知し、訂正することに踏み出さなかった主体的根拠ではないか、と私は考える。
 その時点では誤りには気付いたのであろうが、その誤りを認め訂正する気はなかったのではないか。それとは別に、一九九七年五月に唯圓氏の手紙を受け取った同志黒田は、氏に指摘の正当性を認める回答を指示し、英語版に関しては誤りを訂正することに踏み切った。一九九八年一月に刊行された『変革の哲学』の英語版での是正が、最初であったと思われる。
 このように、一九九四年と一九九七年とでは同志黒田は異なる態度をとった。この違いはなぜなのか。
 唯圓氏も――失礼ながら――私と同様に〝捻くれ者〟と看做されていたということは、氏の文章から推察しうる。いや一九九四年の私と比べても、党指導部からは疎んじ

られていたと思われるのが、当時の氏である。しかし、同志黒田は、唯圓氏の手紙を読んだことを転機として、著作の英語版に関しては、「メタモルフォーゼ」の誤りを是正することに踏み切ったことはほぼ間違いない。
 これは何故か。この時の同志黒田の、氏の手紙の受けとめがどうであったか、というようなことを私が推し量るのは、困難であり、何事かを言えるわけではない。

 

  英語では間違いが歴然

 

 まさか前年の一九九六年に「躍出」(=革マル派議長の辞任)して心境が変わったから、などということはあるまい。一つだけ明確なことは、英語では誤りがヨリ鮮明に出てしまう。というより、英文では意味不明となってしまうのである。おそらくは、『変革の哲学』の英語版としての『 Praxiology 』刊行の寸前に、唯圓氏からの手紙に直撃され、このことに現実感覚がもたらされたのではないのか。
 すなわち、著作の日本語版では、例えば『社会の弁証法』なら「質料転換」に付したルビ、ないし「物質代謝」「質料変換」の説明の問題性にとどまる。読者は「メタモルフォーゼ」の用い方に疑問を感じるか、それの誤った理解を受けいれるか、だけである。その限りでは、これまでと同じなのである。しかし、英語ではそうはいかない。 「metamorphose」 か、「metabolism 」ないし「 metabolic interaction」 かの違いは一目瞭然である。訂正しなければ論旨そのものがおかしくなるのである。

 

  同志黒田の意志と遺志

 

 同志黒田は明らかに、おのれの「メタモルフォーゼ」の理解の誤りに気づいた。にもかかわらず、一九九四年の私の指摘以降も、諸著作の誤りの訂正には踏み出さなかった。ようやく一九九七年五月の唯圓氏の指摘を転機として、英文の著書に関してはその誤りが反映しないような措置にのりだしたのであった。
 しかし、その後も、日本語版の著作は改められず、注意を喚起する註のようなものもつけられなかった。組織的に周知されることもなかった。組織的に周知されなかったことは、永く党の最高指導部の一員であった同志松代が、こぶし書房のメンバーたちとの学習会で初めてこのことを教えられた(二〇〇七~二〇〇八年)という事実からしても明らかである。二〇〇〇年頃に、労働者組織のある学習会で一常任メンバーが『覺圓式アントロポロギー』における「メタモルフォーゼ」の誤りを得々として指摘したのも、その常任メンバーが――唯圓氏からの手紙を受け取って大騒ぎとなったこぶし書房のメンバーたちと共通する――ある特別な事情で「メタモルフォーゼ」問題を聞き及んでいたからであって、同志黒田が、特定のメンバーたちを意図的に選別して伝えたからではなかろう。事程左様に、同志黒田のこの問題に関する対処は、明快ではないのである。
 本年一月に「革マル派」官僚どもによって『黒田寛一著作集』第二巻として刊行された『社会の弁証法』の当該箇所が改められなかったことを、われわれは問題にしてきた。一九九七年の唯圓氏からの手紙への「回答」があってからも、日本語の諸著作の当該箇所を訂正する、もしくは註をつける機会はあったにもかかわらず、同志黒田の生前にもそれは一切なされなかったのは、なぜなのか。
 唯圓氏の文章を読み、仲間達との討論を通じて、私は、同志黒田には訂正する意志はなかった、あるいは訂正しないことにした、というのが真相ではないか、と考えるにいたった。この点では、唯圓氏と意見を同じくする。そして同志黒田は何らかのかたちでその意志を一定のメンバーたちに伝え、それが、いわば遺志として受けつがれたのではないか。この遺志に、「革マル派」官僚どもがすがりついたのであろう、と考える。あるいは、同志黒田が訂正するようにとの明確な指示を残さなかったので、官僚どもは訂正しなかったということかも知れないが。いずれにせよ、唯圓氏が〝佞臣〟と呼ぶ彼らは、彼らに固有の理由で、つまり自己を護るために訂正しなかったのである。

 

 〝正面から私に立ち向かえ〟

 

 同志黒田は、一九九四年・一九九七年に、訂正するかどうか、を迫られた。もちろん、自身の些細な誤りをそれとして認めたくない、というほど彼は狭量ではないと私は考える。ましてや、自ら誤りを認めなければ、気づかれないだろうなどと考えるほど、愚かではありえない。いやむしろ、過去に、永年にわたって流布してきた誤りを訂正することを、それがその誤りをなかったことにすることでは決してないにしても、彼は潔しとしなかったのではないか、といま私には思えてならない。それはこの問題が、彼個人の学問的営為を超える問題であるからだ。

 

 彼は、われわれに向かって叫んでいるのではないか。

 

 この私と正面から闘え、私が諸君とともに精魂込めてつくりだしてきたこの組織を見つめよ、諸君はこの組織をどうするのか、と。

 

 彼は、おのれ自身をあえて晒しものにしてまで、われわれに問うているのではないのか。
 このように言えば、君はおのれの心情を同志黒田の行為に投影しているのだ、と言われるかも知れない。しかし、それならそれでも良いのだ、と私は応える。
 『著作集』第二巻に残された「メタモルフォーゼ」という語は、――「革マル派」官僚どもの思惑を超えて――同志黒田の「革マル派」官僚たちへの怒りと弾劾のシンボルとしての意味をもつのである!

 

(三) 党物神崇拝の裏返し

 

 唯圓氏が明らかにした諸事実にも踏まえつつ、私は、「メタモルフォーゼ」問題の意味するものを氏の見解と対比しつつ、明らかにしてきた。
 以下では、唯圓氏のタイトル「KKの幼児退行と鶴巻派佞臣との相互浸透」に端的に示される氏の意見そのものについて論じたい。

 

 組織論的アプローチの欠如

 

 それにしても、唯圓氏の見解には、組織論の匂いがしない。「党物神崇拝を超える」ことを氏は訴える。しかし、そこにはかつての革マル派に固有な「党物神崇拝」をもたらした組織的根拠についての組織論的考察は見られない。

 

 「幼児退行」とは

 

 晩期の同志黒田をこのように規定するのは、歪んでいる。たしかに、晩期の同志黒田には氏が「敷島の道」などとほのめかしているような思想的な退化が見られたことも事実であると言って良かろう。それはそれで論じるべきである。とはいえ、われわれはあくまでも同志黒田の革マル派指導者としての組織実践の問題を問題として論じることが肝要である。「世紀の巨人」「時代のはるか先をゆく偉大な指導者」というような今日の「革マル派」指導部が描いている人物像のようなものにたいして、「小保方さん」化とか「幼児退行」とかと言ってみても、いずれも同志黒田個人の人物評価のようなものでしかない。

 

 ひとつの問題を例にとろう。一九九四年に私は、同志黒田宛の手紙で、「メタモルフォーゼ」問題を指摘したが、返答さえなかった。そして、一九九七年に唯圓氏がこぶし書房にとどけた手紙への回答として、「数年前に気づいていた」という。
 このことから、何を考えるか。

 

  組織的諸関係からの退避

 

 あれほど「ケジメ」を説いていた同志黒田が、手紙を書いて注意を促した私に対して何のケジメもつけず、ダンマリを決め込んだのである。無視したわけでもない。内容的には受けいれたのである。こういうやり方を〝取り込み〟スタイルとして厳しく戒めてきたのは、われわれの良き作風であり、輝かしい伝統ではなかったか。この行為を規定している内的要因について私は、推察しうるかぎりで「(二)同志黒田の暗澹」に記した。だが、その内的要因がどうであれ、同志黒田の行為は、同志黒田を先頭にしてわれわれが磨いてきた組織論、われわれが同志黒田から学んできた組織論に照らすかぎり、組織成員失格と言わなければならない。たとえ些細なことでも、私の手紙になにがしかを教えられながら、何の返事もしないのは、相手との組織的関係を遮断することを意味する。組織的規範を超越する行為である。しかし、このような行為でも同志黒田の行いについては、誰かが異議を挟んだということを私は聞かない。(逆のことを私は山ほど聞いてきた。)何か深い意味があるのだろうと忖度(実は神秘化)したり、予め同志黒田は、組織的規範の外に――組織の上に――いる存在であるかのように、みなしているのであろう。いま私は、探究派建設の現段階に立脚してこのように断言しているが、一九九四年の私は、いわば「是非もないこと」であるかのように観念し、泣き寝入りしてしまったのである。返答しないというこの行為によって、同志黒田はみずから組織関係を超越し、事実上は組織「外」へと、党組織の「上」へと退避したと言わなければならない。
 小さな事例とはいえ、これこそ、「黒田神格化」のプロトタイプなのである。たとえ、絶大な指導性によって革マル派そのものを創りだしたご本人であったとしても、党議長として最高指導者であるとしても、いやそうであるからこそ、まさに「組織成員としての自覚」が問われたはずである。

 

 「道理」の空語化

 

 革マル派の終焉、その組織の「革マル派」への変質は、ある一定の独自な理論にもとづくものとはいえない。
 スターリニスト党は、「一国社会主義」論に、また「分派禁止」の官僚主義的組織論に立脚していた。だが、革マル派の終焉は、それらに該当するような、重大な理論的誤謬にもとづくものとは言えない、と私は考える。(同志黒田の叱咤激励のもとであれほど遂行された組織内思想闘争にもかかわらず、結果解釈主義やその根っ子をなす哲学的客観主義が克服されえなかった、というような諸問題については、ここでは論じない。)
 もちろん、ほんの一例を挙げるならば、誤った理論が同志黒田の権威にもとづいて――たとえば一九九二年三月のように「議長のメッセージ」だと称して――組織的に貫徹され、そのことが組織そのものの歪みと空洞化をもたらした場合というのはあるのであるが。そしてまさにいま論じている「新陳代謝=メタモルフォーゼ」説の通用も。「無理が通れば道理がひっこむ」と言われるように、である。これらについては、別途明らかにされなければならない。そして理論化されたものじたいの歪みというべきものも、もちろんないわけではないが、それらについてもまた別途問うのでなければならない。

 

 「道理」はあったのである!〝前衛党組織は、形態的にはピラミッドをなすのであるが、本質的には球体であり、実体的には板状なのである〟というような規定は、党組織のピラミッド主義的硬直化を防ぎ打ち破る拠点を示す論理としてくりかえし強調されてきた。私がそのような文言を初めて見たのは、このような文言がもっとも似つかわしくない人物の一人(鬼塚龍三)の、おそらくは別の筆名が付された論文であったように記憶している。もちろん、出所は同志黒田である。だが、鬼塚によって公然と打ち出されたということじたいが、この理論の〝羊頭狗肉〟の宿命を暗示しているように私には思われた。まさにそうなってしまった!
 しかもそれは、歪んだ組織観をもつ未熟な指導的メンバーによって「道理」が踏みにじられたからではない。もしそのような人物の行為であれば、それは比較的容易に打ち破りえたであろう。ほかならぬ同志黒田その人の先述したような組織的諸関係を超越するかのような行為によって、踏みにじられたのである!いかに優れた理論でも、実践によって貫徹されなければ「空語」と化し「画餅」となる。いやむしろ、そのような行為を是認するような観点から解釈されるならば、われわれの組織論はまったく似て非なるものへと変質することになる。今日の「革マル派」指導部が唱える「組織哲学」なるものがそのシンボル的表現である。
 同志黒田自身の上記のような逸脱、その組織実践・組織関係づくりの歪みが、反スターリン主義運動創成以来の苦難の連続のなかで、その実践における僅かな歪みの積み重ねの結果であろうことは推測に難くない。だが、このようなこともまた別途に具体的に論じられなければならない。

 

  権威主義的追随


 他方、同志黒田の超組織論的行為には、彼を敬愛し彼に学びつつ闘ってきたわれわれのうちに、彼を絶対化する傾きが蓄積されてきたことが相即する。そのような傾向について自覚し強い否定感をもっていると考えていたこの私自身の、たとえば一九九四年の惨めな姿を想起する時、病根の深さを思い知らされる。「組織成員としての主体性の確立」とは、かほどに重い意味をもつのである。――だがそれは、真の反スターリン主義的前衛党組織においては、あたかも自然の流れの如く実現されうるものとなりうるであろう。問題は常に前衛党組織そのものの質に、その創造のプロセスそのものに関わっているのである。「山パンのような生動的組織」とは、まさにそのようなものであろう。われわれはこのことを今まさに、肝に銘じている。
 かつて私に「黒田はスゴイ、スゴイ!」と繰り返していた人物Aや、私が「KKはおかしい、みんなKKを絶対化している!」と訴えたとき、屁理屈をこねてはぐらかし、とどのつまりは「われわれはすべてをKKに負うているのだ!」と恫喝してきた人物B、私の訴えにたいして「KKが言い出したら諦めた方がいいよ」と〝忠告〟してくれた人物Cなどが、今では〈黒田教団〉の宮司格や禰宜格の神職についていることを思うならば、事実上自己を〝例外者〟とする同志黒田と、彼を絶対化し崇拝する他の指導者たちの相互補完関係こそが今日明るみに出され、厳しく教訓化されなければならないのである。それなしに反スターリン主義運動の再生はありえない。
 同志黒田の〝退避〟先こそ、彼の逝去後に、彼ら神職たちによって不可侵の〝神棚〟とされ〝祭壇〟とされたのである!
 同志黒田の絶対化と神格化、組織そのものの宗教的疎外をもたらした思想的=組織的根拠を、われわれはさらに徹底的に剔出し、掘り下げてゆくのでなければならない。

 

〔なお、かつての革マル派に特有な党物神崇拝(同志黒田の絶対的権威化)はある種の〝政治的要因〟をももつ。それ自体と、その組織的意味については、本稿では全く触れていない。いずれ明らかにするであろう。〕

 

  「相互浸透」?

 

 手紙の一件を例とし素材としていま論じてきたことは、唯圓氏の「KKと佞臣との相互浸透」などという捉え方が、没組織論的であり、虚妄であることを示すためでもある。いやそもそも、「KK」と「佞臣」たちの「相互浸透」などありえない。それは唯圓氏の結果解釈の産物であると私は考える。
 「同床異夢」などという便利な言葉があるが、同志黒田と〝佞臣〟たちとは、相互に補完する関係に転落したというのが、正当な比喩であろう。同志黒田の逝去後、一四年を経てその関係は〝完成〟された、というべきであろう。

 

  俗人たちの「KK」批判をもちだすのは

 

 唯圓氏には、組織論的アプローチが欠如しているからこそ、中野信子香山リカのような脳科学者や精神医学者の名をもち出したりすることにもなるのである。氏がその言葉を援用している高知聡や佐々木力もまた、それなりに有意義な仕事をしてきた人物たちである。高知が、一九六六年に当時の革マル派書記長・森茂の政治集会報告の問題性を突き出し、反スターリン主義運動に喝を入れることになったことは事実である。しかし、彼らは共産主義者ではないのであって、その意味では俗人なのである。われわれは、俗人たちの〝傍目八目〟的言説に耳を傾けることも必要ではある。かつて同志黒田が高知の指摘を受けとめたように。われわれは、何も「革マル派」指導部のようにおのれの閉鎖空間に引きこもるものではない。だが、仮にも「KKの挫折を乗り越えること」をめざすのであれば、「KK」がどのように「挫折」したのかを、思想的にのみならず、組織論的に剔抉し教訓とすることに、注力すべきではないのか――まさに革命的マルクス主義の立場に立脚してでなければそれは不可能である。そしてこのことは、同志黒田の理論的実践的営為をまさに主体的に受けつぎ、われわれ自身が創造的な理論活動を推進することとの統一においてしかなしえないこともまた明確である。同志黒田の「神格化」の現実的基礎をなした、彼とわれわれとのあまりの理論的=能力的隔たりをもこえ、同志黒田の理論上の限界をものりこえて進むことが、われわれには問われるのである。

 

 「各人の精神的自立が問われる」とは

 

 「各人の精神的自立」は、もちろん当然のことである。だがしかし、「「党物神化」思考からの脱却」として、「各人の精神的自立」を直接対置するのは、一面的である。われわれは、「組織成員としての主体性」をこそ問うのでなければならない。われわれのこの〝常識〟までをも反故にするのは、「党物神崇拝」の裏返しであると言わなければならない。われわれは、氏に「信者」と称される、かつてのわが仲間たちの問題をも「組織成員としての主体性」の喪失として、組織論的=哲学的に照明し、彼らの再生に資するのでなければならないと考える。論じなければならないことはそれこそ〝山ほど〟あるのである。

 

〔この「組織成員としての主体性」の問題については、北井信弘著『現代の超克』(二〇一九年 創造ブックス刊 書泉グランデ及び模索舎にて販売、当ブログ編集部でも注文を受け付けます。)所収の「プロレタリア的主体性」とくに「前衛党組織の一員としての主体性」をぜひご検討いただきたい。〕

 

  前衛党組織論からの離陸?

 

 だが、上のように言っても唯圓氏には、そぐわないかも知れない。氏の「各人の精神的自立」論の裏側には「反前衛」主義のような匂いがする。どこまで言っても組織論的考察は見られない。様々な揶揄的表現(「畏き(かしこき)辺り」や「佞臣」など)の中にそれは埋没させられている。
 氏自身、反スターリン主義の立場から永きにわたって理論的研鑽を積み重ね、また革マル派組織成員としての一定のキャリアがあろうことは御本人が示されているとおりであるが、彼の文面には『組織論序説』などで展開されてきた反スターリン主義の組織論の香りがしないのである。反スターリン主義運動の組織論が前提とされているようで、そうではない、と私は感じる。わが日本反スターリン主義運動は、レーニンの前衛党組織論を革命的に継承しつつ独自の組織論を展開してきた。〈主体性論を基礎とした組織論〉がそれである。だが、氏には、「反前衛」主義の傾きが感じられる。「前衛党組織」建設の問題について、氏はなお留保されているのだろうか。氏は、革マル派組織のあまりの歪み、今日では〈黒田教団〉化するまでにいたったそれを痛感してこられたのであろう。その意味では探究派を結成し、結集するわれわれとの共通性をもっていると言って良い。だが、氏の「前衛党組織」問題への立ち向かい方は、われわれとは大きく異なる所以である。
 この項を結ぶにあたり、私自身――一九九二年三月以来――二度目になるのであるが、俗人的戒めを送る。

 

 羹に懲りて膾を吹く、なかれ。

 

  「黒田哲学の壮絶な最期」論の虚妄

 

 唯圓氏は言う。「晩年の生身のKK のこの無残な蹉跌をわれわれは乗り越えていくのでなければならない。」と(当ブログ掲載の「〔投稿〕青恥・赤恥・頰かむり」)。「無残な蹉跌」とは、この「メタモルフォーゼ」の一件にとどまらないことは明らかであるが、氏の考えるその内実はなお定かではない。今後、ぜひ探究派のブログなどで論じて頂きたい。われわれもまた、論じなければならないことが多々あると考えている。公開の場としての当ブログ上で良い論争が出来れば素晴らしいことだ。
 だが、この点に関しても、氏の立場の歪みを指摘せざるをえない。
 ブログ記事続編(「KKの幼児退行……」)で、彼は言う。「私たちはここに黒田哲学の壮絶な最期を見届けてしまいました。」
 この見解をわれわれは是認しえない。
 たしかに、「メタモルフォーゼ」問題のみならず、同志黒田の晩年の理論的=組織的実践には、われわれが断固として切開しなければならない諸問題があることをわれわれは自覚している。多くの問題を残したまま彼は最期を迎えた。残した問題性は、今日の「革マル派」によってグロテスクに体現されてもいる。だが、このことをもって、「黒田哲学の壮絶な最期」とするのは、どうしたことか。
 「生身」の彼の最期と、彼の「哲学」の最期とは異なるというだけのことではない。氏が仄めかしてもいるように、晩年の彼が思想的にも多くの問題を露呈させたことは確かであるが、その問題性を剔抉し、掘り下げのりこえてゆくことは、同志黒田の実践的唯物論を、そしてそれを貫徹した組織論をわがものとし適用することによってはじめて可能となるとわれわれは考える。彼の哲学の核心的なものは、われわれによって受けつがれているからこそ、決して「最期」を迎えることはないのである。われわれは、彼から学んだ「哲学」に磨きをかけ、さらに創造的に発展させるのでなければならない。現に今、われわれは着実にその道を歩んでいる。

 同志黒田の蹉跌をのりこえてゆくのは、彼の哲学を学んだわれわれである。

 

 改めて、唯圓氏に問う。

 

 貴方自身が今日このような論陣を張りうる主体的根拠は、永年にわたる黒田哲学との格闘によって、培われたものではないのだろうか。貴方自身が、同志黒田の哲学を受けついでいるのではないのであろうか。

 

  「独立独歩」とは――〝傍目八目〟との訣別は?

 

 唯圓氏の言葉は繰り返される。


 「私は何の力にもなれませんが、陰ながら探究派の諸兄姉や鶴巻派から自己を問い直して再出発しようとされる方々に注目してまいりたいと思います。」(「青恥・赤恥・頰被り」)「この暗い時代に「反スタ運動の再構築」のファッケル(註3)を掲げ続ける皆様のご健闘をお祈りいたします。」(「KKの幼児退行と鶴巻派佞臣との相互浸透」)

 

  さきほど挙げた人びととはもちろん次元が異なるが、これもまた〝傍目八目〟ではないか。

 

(註3)ファッケル  Fackel:ドイツ語で「たいまつ」「かがり火」。共産主義者にとっては、第一次大戦時に、「東部戦線」で対峙する独軍とロシア軍の兵士たちが、武器を置き、互いの塹壕を超えて、かがり火を灯して抱擁し、反戦・友好を誓い合った故事が想起される。この時の兵士たちが、ロシア革命とドイツ革命(これは敗北したが)の先頭にたった。なお一九七〇年代に、革共同革マル派関西地方委員会がその機関誌のタイトルに「ファッケル」を採用した。

 

 ぜひ、再考されたい。永年にわたり苦労して培った貴方の理論的力を、ぜひ活かしていただきたい。それが同志黒田への〝恩返し〟ではあるまいか。――われわれは、〝○○に非ずんば人に非ず〟の態度をとるものではないとはいえ。

     (二〇二一年二月八日  佐久間置太)

【寄稿】KKの幼児退行と鶴巻派佞臣との相互浸透  唯圓 ― 「Metamorphose」問題の意味するもの

 〔 この論文は、メタモルフォーゼ問題にかんする唯圓氏の寄稿論文の続編である。

 この論文は重要な問題を提起しているので、わが探究派の同志たちおよび読者の皆さんは真摯に真剣に主体的にこの論文に対決し検討してほしい、とおもう。「革マル派」現指導部による同志黒田寛一の神格化に端的にしめされる組織そのものの変質をうちやぶり反スターリン主義運動を再創造するために、すなわち真実の反スターリン主義プロレタリア前衛党を創造するために、組織そのもののこの変質の根源を徹底的にえぐりだしていくことが必要である、とわれわれは考える。この組織論的反省を深める論議をわが探究派の内と外にわたって活発にくりひろげることを、われわれは呼びかける。――編集部 〕

 

【寄稿】

 KKの幼児退行と鶴巻派佞臣との相互浸透   唯圓
  ― 「Metamorphose」問題の意味するもの

 1月26日からの当ブログへの「唯圓」の寄稿「青恥・赤恥・頬かむり」の続編です。「メタモルフォーゼ」問題での1997年5月の「黒田さんへのお尋ね」の手紙へのKK からのその当時の不思議な「4項目回答」の悲惨な意味が今2021年1月に開示されてしまったことを報告しなければなりません。こんなことは書きたくはなかった。知りたくもなかった。でもいくら痛苦でもこの冷厳な現実を直視すべきでしょう。そこからしか KK の挫折を乗り越えることははじめられないのですから。
(目次)
0. 97年5月の「畏き(かしこき)辺り」からの「4項目回答」
1. あれ? 『PRAXIOLOGY』は外部へは何冊売ったの? 「丸善の洋書部」で?
2. あれ? 「すでに気づいていた」はずなのに?
  ●蕎麦屋の出前の「今持って出ました」
  ●メンデルの法則の再発見
  ●時制をずらす KK 話法
3. あれ? これって偶然なの?  13回忌後の「アポトーシス
4. KK の挫折を踏み越えて
  ●「小保方さん」化と敷島の道
  ●党物神崇拝を超えて

 

0. 97年5月の「畏き(かしこき)辺り」からの「4項目回答」

 前回述べたように、1997年5月15日に私はこぶし書房経由で「黒田さんへのお尋ね」と題する手紙を書いた。6月に予定されている『変革の哲学』(1975年 こぶし書房)の英訳版たる『PRAXIOLOGY』の刊行を目前にして。『変革の哲学』(など)での「メタモルフォーゼ」との語をDK の『物質代謝』へのルビ(ふりがな)に用いるKK の用語法は誤りで(新陳代謝の謂なら)「メタボリズム」と混同しておられるのではないか。その真意や如何、もしそうなら英訳版では metabolism と訂正すべきでは、と。
なお余談として私は『現代における平和と革命』(こぶし書房新版 1996年7月)の「あとがき」p.280に「市川正一」とあるのは誤りで正しくは「志賀義雄」のはずであること、「誰か気が付いて出版前に解決すべきようなことではないでしょうか。悲しくなります。」とも書いた。KK をサポートする態勢の不備を指摘したのでした。
これへの当時の「回答」がどうであったか、まず確定しておきます。
この手紙を出したことについて、IY 君(当時私は「反発分子」として「活動停止・隔離処分」中で、その私との連絡員に任ぜられていた人が私より年下のIY 君。なお当時の私のネームは以下「H」と記す。)は最初97年5月中旬こう言った。
IY「何も東京まで手紙を書かんでも、発刊されてから論議するということでもよかったのでは。」
H「出てからでは遅いがや。間違いが海外にまで流れたらどうするだぁ。」
IY「だってもう印刷終わってあとは製本して配達するだけになっているんですよ。」
 H「そうか、間に合わんかったか。<がっかり>」
 IY「それに75年に出た本、もし問題があればとっくに発見されている筈じゃないですか。」と。
 で、その後97年5月末に東京からの回答が届いた。発信者名はなかったがことの性格上「名乗るまでもない人」つまり KK ご本人からと理解すべきでしょう。
 KT(当地の常任〔当時〕)からきいたその内容は次の4点であった。
 ① “Metamorphose” の使い方が誤りだという指摘は大筋で正しい。
 ②この誤りには数年前にすでに気付いている。
 ③英文で書かれたものでは既に訂正されている。
 ④余談として指摘されている『平革』(P280)の「市川正一」の誤りについては発行直後に気付き、増刷分ではすでに「志賀義雄」に訂正して発行している。  
と。この4点であった。
 この回答を聞いて、<わたしあたりが第一発見者でなくて本当にほっとした。こういう通報は無駄なるに越したことはない。>と大いに喜んだのでした。その時は。
 また(IY君のいない)この場でこういう話もあった。
KT「(Hの文書をみて)あれ? 6月にでると思ってたの? 12月だよ。」
H「え、そうなんですか。 IY君からは6月と聞き、だからこそ早よぉ知らさなあかんというので速達で送ったのだが。」
 KT「IY 君はなんでそんなこと言ったのかな。」
 H「なんやもう。<IY 君は、また不正確な連絡をやらかしたな。>」   
という問答があって、私のなかでは、(それ以上確かめることなく)97年6月発行告知はIY 君の常習的な(失礼!)伝達間違いのひとつとして処理されていたのである。
 ところが。ところが。

 

1. あれ? 『PRAXIOLOGY』は外部へは何冊売ったの? 「丸善の洋書部」で?

97年12月26日 次のようなやりとりで私は ”Praxiology”の刊行を知った。
  H「それで ”Praxiology”は結局いつでるのか。」
  IY「丸善の洋書部にもう並んでいるそうですよ。内輪ルートも近々。」
  H「洋書部! なんだ(格式の高い)×階かよ。」
  IY「×階かどうかは知りませんが洋書部だと聞きましたよ。」
  H「あれ? 今日も××館に寄ってきたがそこにはなかったが。」
  IY「××館のことは知りませんが、××館にはなくても丸善の洋書部には並んでいる、ということです。」
  H「そうかね、では、さっそく…。やっとでたか。あ、ところで、前に予約を募ったが、その“内輪ルート”にはわしも入っとるのか。」
  I「あの予約はチャラになりましたから、書店で買ってください。」
  H「じゃ、自分で買えばいいのだな。よし、明日いこう。」
 ところが翌27日、□□屋の隣〔当時〕の丸善本店に行ってみたら…。
 洋書部(×階)で
  H「…と聞いて、探してみたが見当らないが、どこにあるのでしょうか。」
  洋書部店員「あなたそんなことどこでお聞きになりました? 日本の出版社のも      のは、たとえ英語で書かれていても、それは和書という扱いになります。和書部へどうぞ。」
 和書部(○階)で
  H「×階で…と言われたが」
  和書部店員「で○階にもない? (コンピュータ画面を見せながら)黒田さんのもので今扱っているのはこれがすべてで、その『PRAXIOLOGY』という本はまだ…。」
二重虚報であった。
 どうして、こういうことがおこるのか。と翌28日に IY 君に電話で苦情を言った。
H「この本をめぐっての(IY 君の)連絡上のミスは2回目だぞ。」
IY「と言うと?」
H「(IY 君は)最初はこの本は6月にでる、と言ったのだぞ。」
IY「だってそれは事実最初はその予定だったからであって、予定のほうが     変わったということですよ。<自分に怒られても…>」
H「KTさんは、6月にでるなどとはIY君には言っとらん、と言うとるがや。どうなっとるんだ。」
IY「おかしいな、聞いてみます。」              と。
この不思議な問答の意味は、あとでまた振り返ります。察しのいい方にはもう見えているかもしれませんね。
それで、真相は、やはり「丸善の洋書部にならんでいる」(#)で正しかったのである。
…→IY→Hにいたるまで連綿と正確に伝達されてきた#という文言の発信源は東京なのであるから、東京の人が謂う(#)の文言の示すものは、△町の□□屋の隣〔当時〕の丸善当市本店の洋書部のことではなく、日本橋高島屋の向かい〔当時〕の丸善=東京本店の洋書部のことであるはずだ、と推測して正月に行ってみたらちゃんとあったのだから。
東京の洋書部店員「ああ、あの地味な装丁の本ね、本来洋書部の扱いじゃないんだけど、版元の方が年末に直接持ち込んできたんですよ…。はい、これでしょ。」と。
 この漫才みたいな話、ここまで読んで「ン!?」とひっかかった人いますよね。
 『PRAXIOLOGY』が「丸善の洋書部にもう並んでいる」とアナウンスされて、「はあぁ、偉いもんだな」と感激するのは組織内の方だけ。組織外の人は「解放」新年号の広告で『PRAXIOLOGY』の発売を知って「では」と書店に買いに行けば、どこに行くのでしょうか。「洋書部」などとは夢にも思わずに、丸善店員さんのいう如く(国内版元の本の)本来の扱い部署である和書部に直行しますよね。で、そこになければ肩透かし。買おうという意気込みをそがれてそれでオワリ。
そう「洋書部に並べる」とは「和書部には置かない」ことの言い換え。つまりブクロ派(中核派)やブントなど他派の人たちには「売らない」ということだと読むべきでしょう。「丸善の洋書部」で、「地味な装丁」の『PRAXIOLOGY』は私の買ったあの1冊以外に結局何冊売れたのでしょうね。
他派の人たちには「売らない」のは何故なのか。「メタモルフォーゼ」の訂正を見付けられて鬼の首を取ったように大騒ぎでバクロされるのを恐れたのでしょうね。組織内からは「気づかれるわけない」と高をくくっているのに他派はこんなに怖いんですね。こういうの「内弁慶」と言うんでしたっけ。
だけどまあ、よくもまあこんな手の込んだことを考えつくものだと感心しませんか。そんな「知恵」があるのなら、75年初版時に辞書を引いて確かめる手間を惜しまなければ良かったのにね。よっぽどパニックになったのでしょうか。
でもパニックはこれだけではありません。せっかく東京まで出たのだからと丸善だけでなく八重洲 BC など大型書店を回ってみました。ら、驚くべきことを発見してしまったのです。

 

2. あれ? 「すでに気づいていた」はずなのに?

 東京の書店でおかしな発見をした。私の手紙の直後の97年5月25日づけ発行のこぶし書房『革命的マルクス主義とは何か』および『マルクス主義形成の論理』の増刷分に掲載されているこぶし書房の出版書籍一覧表には、通称マスキングという製版技術をもって急遽削除したと思われる不自然な<歯抜け>が数ヶ所あるではないか。
抜けているのは『変革の哲学』、『社会の弁証法』、『覺圓式アントロポロギー』、『宇野経済学方法論批判』の4点。要するにかの「メタモルフォーゼ」の語をふくむ著作は、すべて広告から除かれているのである! 潔癖と言えば潔癖なのかも知れないが。もっとも、「メタモルフォーゼ」の語をふくむこの4点もその少し後の「共産主義者」誌などの広告には堂々と掲載されているので、そのような極端な対応は一時的なエピソードに終わったのであろうが。
ともかく、私の手紙がついた頃こぶし書房にパニックが起きたもののようである。
 あれ? どうしてパニックになるのだろうか、「すでに気づいていた」はずなのに。

   

蕎麦屋の出前の「今持って出ました」
 もうひとつ。回答④、直後に気づいてすでに「市川正一」が「志賀義雄」に訂正されているという『現代における平和と革命』の「増刷分」を探し歩いて驚いた。(回転が早いはずの)東京の複数の書店において、1998年1月現在店頭にあるのは、1996年7月20日発行の初刷本ばかりなのだ! そば屋の出前の催促への「今持って出ました」ではないぞ! 
ちなみにその後発見したのだが、『平革』が実際に増刷され、「志賀義雄」に訂正されたのは2005年のことである。当時のこの「回答」は人を愚弄する大ウソであったことが事後的にも裏付けられている。
このような東京の書店での発見に踏まえ、かの「回答」をもう一度考え直してみた。
③の「英文で書かれたものでは既に訂正されている。」の「英文」とはどれのことか。英文のことを KT に糺すのはヤボとしか思えず自分で探してみたが、94年秋の「解放」にでたTerminology の№55「具体的有用労働」のことであればすでにみたようにこれはますます錯乱しているだけ。とても「なおした」などと言えるものではない。というわけで「すでに直した」ものは今に至るも発見できないのである。
では「②この誤りには数年前にすでに気付いている。」はどうか。

 

●メンデルの法則の再発見
 この「探究派公式ブログ」の1月20日「神官たちの醜怪」と題する佐久間置太さんの論考によれば、1994年4月のこぶし書房版の『社会の弁証法』刊行の直後にその「メタモルフォーゼ」用語法の誤りについて、当時佐久間さんがKK に(常任経由で)レポートを提出して指摘したが KK からの返事はなかったとのことである。
 私の97年5月より前にそれとは独立に94年春にすでに指摘した方がおられると知って本当にうれしく思うのだが、だが残念ながら上述の、94年秋の「解放」にでたTerminology の№55「具体的有用労働」は錯乱したままであって、それを見るとき、この94年春の時点では佐久間さんのせっかくの指摘は実を結ばなかったのが実際のようである。取り次いだ常任が値打もわからないまま放置していたか、KK まで届いていたとしても KK はピンと来なかったか。
 ただ「数年前」というのには符合する。おそらく97年5月の私の手紙が REMINDER になって埋もれていた94年春の佐久間さんの手紙を呼び覚ましたのだと思われる。佐久間さんの手紙を読み(聞き)直した KK はその意義を認識し、実際にも『Dialectics of Society』(2003/8 こぶし書房 『社会の弁証法』の英訳版)には佐久間さんの提起を採用しているわけである。
 歴史的には「メンデルの法則の再発見」という事例がある。理解されずに忘れられ埋もれていた「メンデルの法則」とほぼ同じ内容を後年のド・フリース(など)が独立に提唱した時に、それが蘇ってあらためてメンデルの名で顕彰された、という有名なエピソードである。
 というわけで、この「この誤りには数年前にすでに気付いている。」との回答は時制をずらしてこう読まるべきである。「数年前に指摘が出ていたことに、今気が付いた」と。

 

●時制をずらす KK 話法
 そう KK の「回答」は時制をずらして読まれねばならない。「場所の哲学」者は時制から自由であるかのごとくである。世間ではこういうのを「詐欺」と言うのではなかろうか。
「④『平革』の「市川正一」(P280)の誤りについては発行直後にきづき、増刷分ではすでに訂正して発行している。」は「そのうち直す」との意味だった。
では「③英文で書かれたものでは既に訂正されている。」は? そう『PRAXIOLOGY』で「これから直す」の意味だったのだ。だからこそ97年6月発行の予定が98年1月まで延びたのだ。
しかし発行予定日を事後的に元から98年1月予定であったことにしないと「すでに気づいていた」とつじつまが合わなくなる。連絡ミス常習者で H も疑わないのをいいことに IY 君の「連絡ミス」ドジのせいにして。知らないところで濡れ衣を着せられていた IY 君が怒り出すのも当然ですよね。IY 君の言うように、97年6月刊行予定で「もう印刷も終わっている」のに、それを破棄して、もう一度作りなおしたものが98年1月に出た『PRAXIOLOGY』だった、と言うのが真相なのでしょうね。
煩雑をいとわずに現実の経過と IY 君の言と KT の言とを両方再生産しておいたので、ことの次第は皆さんにももうお分かりのことではないでしょうか。
「北井さんさえも聞いてなかった」ことを知って驚いたこぶし書房の若い人たちの反応が「暗い陰」をともなったものとして北井さんに反映した(2021年1月20日の北井信弘氏ブログ https://ameblo.jp/nbkitai-ameba/entry-12651471671.html)のも物的基礎を措けば偶然ではないと理解できましょう。
さて、でも「洋書部に並んでいる」が「和書部では売らない」つまり他党派系には売らない、ことの言い換えであったことを知った人は「英語ではもう訂正した」にせよ「英訳本はこれから直す」にせよ、その言明の、もう一つの重大な含意、本当の意味にも気が付かないだろうか。私もこの1月になってやっと気が付いたのだが。それは…

 

3. あれ? これって偶然なの?  13回忌後の「アポトーシス

 英訳版では「メタモルフォーゼ」→「metabolism」に訂正した KK。なのに、肝心の日本語版は『変革の哲学』も『社会の弁証法』も KK 存命中に増刷していて、つまり訂正が可能であったのに、訂正しなかった。しなかったのである。
 私もあまりのことに断定をためらったのだが、近習が××だとか、佞臣が「無謬の KK 神話」を欲しているから、というだけではこんなことはおこりえない。KK 本人の意志として「(日本語版は)直さない」ことで押し通したのだ。だって23年も前に KK は宣言しているではないか。「英語では直した(直す)」と。KK 語はこう読まるべきであろう。つまり「日本語版は直さない」と。
 今回の KK 書房版「KK 著作集」の2巻目として刊行された(決定版)『社会の弁証法』でも本文を直さないのは(著者が鬼籍に入っている以上)当然としても、註記としても英語版では訂正されている旨を告げなかった。佞臣が「無謬の KK 神話」を作りたいから、だけでなく、KK ご本人の一徹な LIVING WILL でもある、という面もあるとしなければならないのではないか。痛苦にもそう判断せざるを得ないのだ。
 
 もちろんそんなことをすれば、それは直ちに鶴巻派の命取りになる。
 KK にはもうそれがお分かりにならなかったのか。それとも、13回忌を過ぎたあたりでの幕引き、アポトーシス(予定計画的な自死)を自覚的に仕込まれたのか。「自由とは必然性の洞察である」とのヘーゲルの言葉を私たちに教えてくださった KK にどのような深いお考えがあったのか。私のような凡人にはそれはもうわからない。

 

4. KK の挫折を踏み越えて 

 あのあまりにも人を馬鹿にした4項目回答を、KK 自身からのものだとは私は思いたくなかった。「正常性バイアス」をかけて君側の佞臣が勝手に言ったことだと思おうとしてきた。情けないじゃないですか黒田さん。でも、KK は佞臣どもに担がれているうちにすでにそれと相互浸透してしまっていたのだと2021年1月のこの現時点において痛苦にも判断するほかない。まだ KK に未練を保ち続けようとしていた自らにドッチラケになるのでなくてはならない。
 そのことを拠点としてしか、 KK の挫折を踏み越えて進むことは出来ないのだから

●「小保方さん」化と敷島の道  
 さてそれにしても、1997年5月に私の手紙に接したときの KK のパニック反応はおよそ常人の理解を超えるものがあると言わねばならない。「あ、間違えていたか、ありがとう」で済む話が、なんでこんなにみっともない大騒ぎのすえに23年後の鶴巻派自体の命取りにまでに盲進することになるのか。手紙を出した私自身が唖然としている。
 4項目回答を覺圓師が読んだらどう言われるのだろう。思想家の倫理とか何とか言うような高尚な次元の話なのだろうか。ただのプライド固執が。
むしろ中野信子氏とか香山リカ氏に伺ってみたほうがいいのかも知れません。ただ一言「幼児退行」と言われるか「自己絶対化」「自己引きこもり」による「自己保存」と言われるのでしょうか。英語では直しても日本語では直さない、なんて小保方晴子さんの「あります!」を彷彿させるではありませんか。
 思えばしかし、JR 戦線や沖縄の「門中派」の離反、「議長辞任」をくぐって、97年時点ですでにもう背骨が折れかけていたところに Metamorphose 問題が直撃してしまったのかも知れません。すでにもうまともに現実と対決できる精神状態でなくなりかけているところへ。見たくない、見ない、というのは唯物論ではないのだが。
この後の KK はどんどん自閉的になっていく。『実践と場所』は労働運動の展望を失っての縄文世界への逃げ込みと引きこもり。『政治判断と認識』なんて恣意的認識の狂いの政治的居直りとしか読めない。はては韻文朗詠の敷島の道にうつつを抜かす、残念な晩節を送ることになってしまいます。わたしはどうもこの悲惨な局面へ KK の背中を押すことに助勢してしまったのでしょうか。
 ともあれ私たちはここに黒田哲学の壮絶な最期を見届けてしまいました。それは私たち自身のこれまでと決別することでもなければなりません。受け継ぐとは乗り越えること。KK はこう言うでしょう「俺を乗り越えて進め!」と。
 
●党物神崇拝を超えて
 さて私は「KK の挫折を乗り越えて進もう」と言うばかりで、その内実をまだ示していません。鶴巻派と決別して以来の亀の歩みのなかで私の模索したきたこと、それは、スターリン主義の超克の徹底の内実の一つとして「党物神化」思考からの脱却、各人の精神的自立が問われなければならないのではないか、ということです。党のカルト化をいましめなければならない。ということでもあるでしょう。
 「KK の言うことは誰も疑わない」宗教的自己疎外の恐ろしさを私たちは噛みしめてきました。Metamorphose 問題はその端的な一例でした。でも、Metamorphose の語の誤用なんてある意味では内容的にはたいしたことではありません。べつに党の路線を左右するようなことではないのですから。
もっと大事な問題で「KK の言うこと」だからと誰も疑わないで信じてしまって大変なことになってしまった悲劇を私たちは経験しているのではないでしょうか。もう皆うすうす気づいているんでしょ。鶴巻派の下部活動家の方々も気が付かないふりは辞めたほうがいいですよ。「心のきれいな人」でいることの虚しさにドッチラケになることから始めるべきではないでしょうか。
 長文をお読みいただいて有難うございました。この暗い時代に「反スタ運動の再構築」のファッケルを掲げ続ける皆様のご健闘をお祈りいたします。
            (2020年01月28日   唯圓)

斎藤幸平「疎外論」批判 第7回 斎藤によるマルクスの切断

 (3)斎藤によるマルクスの切断

 

 斎藤によればマルクスは『ドイツ・イデオロギー』において「哲学と決別」したのだという。また、『共産党宣言』は生産力至上主義であるとし、マルクスが農業問題や自然科学の研究に打ち込むことによって、「物質代謝」という生理学的概念を獲得し、『資本論』では、人間と自然との関係たる「物質代謝」の「攪乱」・「亀裂」を資本主義の矛盾として扱うようになったのだと言う。


 1843年(『経・哲草稿』を著した頃)のマルクスはまだフォイエルバッハの「啓蒙主義」と同じ「意識の改革」という次元の唯物論であった、と斎藤は述べる。その唯物論は、具体的で人間的な「感性こそが真の人間解放のための原理となるという唯物論」であるという。そのフォイエルバッハ唯物論に差を感じたマルクスは「受動的要素」である「普遍的苦悩」に訴えて、市民社会変革の必然性を説くようになり、それに対応する形で、マルクスは感性的要求に依拠した「実践」を矛盾解消の現実的な基盤として掲げ、またフォイエルバッハの感性を原理とする唯物論に依拠しつつも、「労働の具体的感性を「真なる」唯物論の原理とし、疎外された現実に対置するようになる。」というのである。さらに、「マルクスが「類的存在」の概念を用いながら、「人間主義自然主義」を実現する社会主義を構想しようとすると、「友情」や「感性」や「愛」といった類的存在をめぐる非歴史的術語が前面に出てきてしまい、資本主義の特殊性に対する批判は抽象的で、非歴史的な次元に押し込められていく」。だからマルクスは哲学と決別し、経済学や自然科学といった科学的分析の道を追求したのだ、というのが斎藤の説明である。


 マルクスが「感性的対象」とか「感性的労働」とかというように、唯物論の立場にたつことをあらわすために――フォイエルバッハの用語法に従って――使った「感性」を、斎藤は「友情」や「愛」といったものと同じものにねじまげている。後者は、肉体を持った人間を主張したフォイエルバッハのものである。そうであったとしても、フォイエルバッハは、次のようにヘーゲルを批判したのである。
 「抽象することは、自然の外部に自然の本質を、人間の外部に人間の本質を、思考作用の外部に思考作用の本質を置くことである。ヘーゲル哲学は、その全体系をこうした抽象に基づけることによって、人間を自己自身から疎外した。」と。
 フォイエルバッハは、絶対精神を原理とするヘーゲルの抽象的な観念的な体系に対して自然=人間を対置したのである。だからフォイエルバッハの哲学の原理は、というならば、自然=物質と言うほかない。


 マルクスは、フォイエルバッハにたいして、その唯物論ヘーゲル否定の否定を「もっぱら哲学の自己矛盾としてのみ」「神学を否定した後でそれを肯定した哲学、したがって自分自身に対立して肯定している哲学としてのみ、把握している。」(『経・哲草稿』)と批判したのである。つまり、フォイエルバッハは自然=人間をヘーゲルに対置するが、現実の自然=人間には目が向けられていない、人間を感性的労働の主体、実践の主体ととらえていない、と批判したのである。
 『ヘーゲル法哲学批判序説』において、マルクスは人間の人間としての解放の主体がプロレタリアートであること、それと同時にその頭脳は哲学であることをはっきりと宣言している。
 そのマルクスにとって「どうしても必要なこと」は「ヘーゲル弁証法と哲学一般への批判」であった(『経・哲草稿』序文)。マルクスには「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(ヘーゲル『法の哲学』序文)とし、プロイセン絶対王政とそれを支える宗教、並びにそのもとでの資本主義化を肯定し、絶対精神すなわち神に回帰するヘーゲル哲学の呪縛から、プロレタリアートを解き放つ「哲学」の創造が、「どうしても必要な」課題だったのである。
 マルクスは、「(ヘーゲルは)たんに抽象的、論理的、思弁的な表現にすぎなかったが、歴史の運動に対する表現をみつけだしたのである。」(『経・哲草稿』第三草稿)というように、フォイエルバッハ唯物論哲学を「歴史の運動」に適用しようと志向していたのである。すなわち、ヘーゲル哲学の唯物論的転倒である。それはまさに『経・哲草稿』における「疎外された労働」の論理展開において実現されている。「フォイエルバッハに関するテーゼ」は、このマルクスの実践的唯物論の確立にほかならない。
 マルクスはこの思考過程において、フォイエルバッハの直観的唯物論ヘーゲルの観念的弁証法止揚し、マルクス独自の「哲学」、弁証法唯物論を創造したのである。

 

 このマルクスの思考過程を、戦後日本の主体性論争を批判的に摂取しつつ、マルクス主義の主体的な形成の論理として、すなわち実践的唯物論の確立としてとらえ返したのが、ほかならぬ黒田寛一であった。
 彼が「『フォイエルバッハ・テーゼ』(1845年)に確立された実践的唯物論としての《哲学》は、このように、プロレタリアの「疎外された労働」の思弁的分析なしには決して確立されなかったのであり、このようなものとしてそれの核心は《実践論》にあると言ってよい。実践論あるいは労働論こそがマルクス主義哲学の核心をなすということは、それが疎外されたプロレタリアートの武器として実現されるべきものであるということである。」(『マルクス主義形成の論理』)と明らかにしているように、「疎外された労働」におけるマルクスの哲学的思弁はマルクスの「哲学ならざる哲学」の核心を形成していくのである。


 斎藤はこのマルクスの「核心」を切り捨ててしまうのである。斎藤がいかにマルクスを政治主義的に捻じ曲げようとしているかが、明らかではないか。

 「プロレタリア的疎外の直接的現実性の思弁的分析にふみとどまることなく、かかる疎外の現実的根拠の追求もまた歴史的および論理的に展開されていく。前者の側面すなわち、人間疎外の歴史的根拠の究明は〈唯物史観〉として、また後者の側面すなわち疎外の現実性の分析は〈政治経済学〉として形成されていく。まさにこのような哲学と密着した経済学、つまり〈経済学=哲学〉という形態で創造された新しい《哲学》、プロレタリア的疎外の実践的変革のための哲学――これがマルクス主義哲学の本質的性格にほかならない。」(『マルクス主義形成の論理』)と黒田が述べるとおり、マルクスの「核心」はマルクスの学問的、政治的実践において高められ、それぞれの理論分野において確立されていくのである。マルクス自身が『資本論』フランス語版序文において「私は、公然と、かの偉大なる思想家の弟子であることを告白した。」というように、『経・哲草稿』で創造されたマルクスの「哲学」は、マルクスの学問的全生涯の底を貫いているのである。
 斎藤は『共産党宣言』におけるマルクスは生産力至上主義だ、と言う。それは、マルクスはみずからが創造した弁証法唯物論=実践的唯物論を適用し、生産力と生産諸関係の矛盾の把握を基礎にして歴史を過程的に捉えること・すなわち・唯物史観にもとづいて『共産党宣言』を展開しているのだ、ということを、なんら理解していないことをあらわしている。ここにも斎藤がスターリン主義的な客観主義、タダモノ論的唯物史観を無批判に受け継いでいることが示されている。


 ただ斎藤だけではない。同様に「プロメテウス主義」としてマルクスを批判するヨーロッパの自称マルクス主義者の貧困が、われわれにとって痛苦な現実として横たわっている。この現実は、彼らがいまだスターリン主義との対決をおこなっていないことを意味する。非スターリン主義化はスターリン主義との対決ではない。スターリン主義との対決をぬきにしてマルクスマルクス主義を再生することはできないのだ。
 斎藤によるマルクスの切断は、彼の理論的貧困を一つの根拠とはしている。だがそれ以上に学問的良心の一かけらもない、極めて悪辣な政治主義がその根拠である。


 コロナ危機のただ中において全世界の階級闘争が歪められ、今また、「脱炭素産業革命」にもとづく攻撃が、全世界の労働者たちの頭上に振り下ろされようとしている。斎藤はその露払いにほかならない。
 われわれは、この斎藤によるマルクスの破壊、改竄、捏造を決して許してはならない。
       (2021年1月26日  潮音 学)

斎藤幸平「疎外論」批判 第6回 「自然からの疎外」という斎藤のまやかし

(2)「自然からの疎外」という斎藤のまやかし

 

 斎藤は、「疎外」の原因を「自然からの疎外」であると述べている。マルクスが疎外された労働を論じる前段で、国民経済学の諸説を引用して、「地代」に関して論述していることに、彼は注目する。内容的には、土地と農奴とが分離されることによって、プロレタリアートが生み出されたことをもって、人間の「自然からの疎外」である、と論じるわけである。しかしこれでは、なぜ土地と農奴が分離したのか、都市に農奴が賃労働者として流入していったのか、また、都市の資本家が封建的土地所有者たちの土地を借り入れできたのかということがあきらかにされない。これは斎藤の政治主義的な解釈にしかすぎない。
 プロレタリアの疎外された労働を出発点としてこれからの歴史的反省をとおして、国家の暴力をもってする・直接的生産者としての農奴からの土地の収奪を、人間労働が資本制的に疎外される根源的事態として、すなわち資本の根源的蓄積過程として、つかみとる、という方法とは、斎藤は無縁なのである。
 斎藤の認識方法は過程的かつ平板であると言わなければならない。ここに、斎藤がいかに無自覚であるとはいえ、スターリン主義的な認識論、客観主義的な過程的認識論をその方法にしていることが、はっきりと示されている。スターリン主義蒙古斑がくっきりと浮き上がっている。


 それだけではない。斎藤は、マルクスの次の展開をもって、自己の、人間の「自然からの疎外」論を基礎づける。

 マルクスは言う。
 「疎外された労働は人間から、(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的諸機能を、人間の生命活動を、疎外することによって、それは人間から類を疎外する。」と。
 マルクスは「疎外された労働は、人間から自然を疎外する」と述べているのである。

 

 だが、斎藤は「自然からの疎外」としている。「疎外された労働」という主語をはぶき、それに至る論理展開を切り捨てることによって、変革主体としてのプロレタリアートを切り捨てているのだ。そうして、マルクスは「人間と自然との本源的統一」という観点から「物質代謝」論を唱えた、とする斎藤自身の主張に添うようにマルクスを作り変えたのである。
 まさに、巧妙な詐欺的手段によるマルクスの捏造である。斎藤は、プロレタリア、プロレタリアートという言葉を極端にさける。と同時に「疎外された労働」というマルクスの概念そのものも消し去ろうとするのである。これをマルクスのイデーの破壊と言わずになんと言うことができるだろうか。
 斎藤には、マルクスを歪曲することをもって、数百万のボリシェヴィキを粛清し、数千万の労働者・人民を殺戮したスターリン主義の遺伝子が脈々と受け継がれている。


 いま、はっきりと言おう。斎藤幸平はスターリン主義者である。
 「自然からの疎外」というものへのマルクスの規定の言い換えを基礎づけるために、斎藤は、マルクス農奴と土地との関係をあらわすために使っているところの「和気あいあい」という言葉に注目する。マルクスは「外観的には」という注釈を入れているにもかかわらず、斎藤はこの注釈を切り捨てる。また、マルクス農奴を土地の付属物だと指摘していることについても、斎藤は意図的に読みかえをおこなっている。それは次の斎藤の論述によくあらわれている。
 「もちろん、農奴は強制されて余剰労働と余剰生産物を提供していた。だがそれでも、客観的な生産条件との統一を通じて、生産過程における自律性に依拠した「和気あいあいとした側面」を保持していたのであり、ここにマルクスは封建性生産様式における労働の肯定的な要素を見いだしている。」と。
 農奴は強制されて「余剰労働と余剰生産物」を提供していたのであろうか。いや、マルクスは、農奴が土地の付属物として土地と分離されていないと述べている。であるならば、農奴の生産物は、すべて土地の所有者すなわち封建領主のものであって農奴のものではない。「余剰労働・余剰生産物」など生まれることなどはない。生産物は現象的には、年貢として収奪されるように見えるのではあるが、封建領主は自分の土地でその付属物としての農奴が生産した生産物を回収しているにすぎない。農奴に残されるのは言うまでもなく、その生命と生産に必要な体を維持するだけのものであり、農奴の再生産に必要なものだけである。
 また労働も同じである。かつ労働には軍事的要員としてのものも含まれている。
 「余剰労働・余剰生産物」などと捉えるのは誤りである。マルクスは資本家による土地の占有と日雇い農夫との関係を論じることとの関係において、封建領主と農奴との関係を論じたにすぎず、また土地と農奴との関係も、近代的自我が確立されていない・土地の付属物としての人間が体現する「和気あいあい」であるにすぎない。けっして「自律した」などと捉えることはできないのである。


 斎藤は封建的生産様式と原始共産主義における生産様式の土地と人間の関係を二重写しにして論じている。マルクスが哲学的・思弁的にとらえた本質的労働論の自然と人間の関係(それは原始共産主義社会のそれに妥当するのだけれども)とを二重写しにして論じている。これもまた、階級闘争を抜きさったエコロジーマルクスを仕立て上げるための、斎藤の作為に他ならない。
       (2021年1月26日   潮音 学)