「運動づくりと組織づくりの弁証法が貫かれている!」——抹殺された2000年代初頭の組織的とりくみ その2

〔ここに掲げるのは、2000年代初頭に労働者同志が自分の実践の教訓を書いた二つ目の論文である。宮津直巳の署名である。「その1」の論文で書かれている実践を基礎とし・これにひきつづいてこの同志が遂行した実践の教訓と湧きおこった感動が明らかにされている。——松代秀樹〕

 

「解放」第1830号(2004年8月2日付)掲載
パトスを燃やして職場活動をがんばるぞ!

 

 私はある機械の製造現場で働く労働者です。先日、私の所属する単位組織で私の展開する職場活動について先輩労働者から指摘をうけ、目の前がパーッと明るくなった。ここでは、そのときの論議の受けとめをまとめ、私じしんのたたかう出発点としたい。
 私の働く現場は重労働の現場である。体中を汗と油でドロドロにしながら、一箱70㎏・80㎏からなる部品の入った箱を何度も何度も一人で運ばなければならない。腰痛など体調を悪くする現場労働者が後を絶たず、体を壊した同僚が退職を余儀なくされて会社を去っていく日を、私は悔しさをかみしめながら何度も体験した。もちろん、現場では経営者にたいする不満は渦巻いている。しかし、誰も表立って経営者に不満を述べる者はいない。以前、私の同僚が、この職場の現実をなんとかしたいと考えて労働組合を結成しようと活動したことがあったのだが、結成の動きを経営者につかまれていきなり解雇されてしまったのだ。それから私の職場はよりいっそうもの言えない職場にされてしまった。私は、なんとかこういう状況を突破できないかと考えてあれこれとりくんではきたのだが、なかなかこじあけることができず、私じしんの不甲斐なさに地団駄踏む思いが続いていたのである。

 

  先輩労働者の話を聞いて意欲が湧いた

 

 ところが、先日、こうした私の職場活動をめぐって組織的に論議してもらい、活動のイメージがパッと広がった。職場活動とはこうするのか! と、やる気がわいてきたのだ。
 ある先輩労働者が、労働組合をつくるためにそのケルンをいかにつくるのかという話を、彼の貴重な経験も交えながら次のように話してくれた。「上司にたいして、もの言えない職場で言っていくためにみんなを組織化する。『今度、上司にこういうことを言おうと思うんだけど、どう思う?』『俺、がんばって○○と言うから、そうしたらそのときにお前も何か言ってくれよ』」「そうやって職場で行き詰まったことをめぐって論議しようとか学習しようとかと働きかけ、労働組合をつくって闘う自覚をもった労働者を組織化していく。そして、そこで論議したことを基礎にしてまた職場でとりくみ、それをめぐってまたグループで論議して、と」――先輩労働者からはもっと豊富に様ざまな活動が紹介されていたのだが、ここでは省略する。こうした論議で私のイメージがガッと膨らみ、ウチの職場でもできるじゃないか! とやる気がわいたのである。
 もう少し、私の頭の中で膨らんだものを対象化してみる。〝職場にケルンをつくるといっても、職場から問題意識のいい労働者を一人ずつ引っこ抜くのではなく、あくまで職場で職場の課題をめぐってみんなを組織化してとりくむ。課題は何でもいい。すべてが団結をつくる課題たりえるのだ。なんでもみんなで話し合う。話し合うように私が橋渡しをしながら関係を横につないでいく。そのただなかで、直面した困難にたちむかって、ケルンになりそうな人を・われわれの直面している困難を解決するために学習しようとか、労働組合について調べてみようとかと組織化していけばいいのだ。これは、本人のバネに合致しているから組織化しやすいぞ! そしてそこでの論議を基礎にして再び職場でのとりくみを進めること、こうすることによって本人の自覚は高まるとともに、自分の参加しているグループへの信頼感がつくられる。この積み重ねをつうじて、そのグループ=ケルンの一員たるの自覚において自分の所属する職場でのとりくみを担う、となる。これはすごい組織化の構造だ!〟〝私は、みんなをとりくみに組織化するなかで、それぞれの反応を見極めながら、誰が反応がいいのか、誰がケルンたりえるのかを発掘していけばいいんだな! これは面白い! とワクワクした気持ちになったのである。

 

  運動=組織論が貫かれていることに感動

 

 同時に、かなり前の組織会議での学習会を思い起こした。それは、われわれの諸活動について、いわゆる1の活動・2の活動・3の活動についての学習会である。そのとき、学習会のチューターが学生であった一九六〇年代の話をしてくれた。当時、九州地方の大学で社会科学に関心をもつ一年生を組織化してつくったところの「マルクス主義研究会」、これをあたかも闘争委員会であるかのように機能させ引き回して失敗したということが全国的な反省論議となったという。そこで、次のような教訓がうみだされた。学習・研究を目的とするマル研=サークル組織と当面する大衆運動を推進する母体となる闘争委員会では組織の質が違う、前者の組織のメンバーを結集して後者の組織を創造するためにはそこの担い手の質を高めなければならない、サークル組織に所属する担い手の自覚を高めることを媒介にしなければ運動を組織する母体となる組織=闘争委員会をつくりだすことはできない、と。このときの論議について、学習会のチューターが「自分たちが大学でよく似たことをやっていたのだが、九州地方ほどでもなかったので全国的な問題にはならなかった」と笑って話していたことが面白く印象に残っていたので、そのことと重なって当時の論議が私の脳裏に印象深く残っていたのだ。
 私は、このときの論議をパッと思い起こし、へー面白い、同じ構造じゃないかとイメージが膨らんだ。既存の職場において、労働組合がないがゆえにあらかじめ労働者的な組織はつくられてはいないけれども、私は労組をつくりだすための下地として労働者のまとまり・信頼関係を横に横につくっていく。この信頼関係の質を労働者的なものに、より高次なものに引き上げていくためには、そこに所属する担い手・即自的な労働者の意識を高め変革しなければならないということだ。そして、こうした活動に媒介されないかぎりは、担い手もまた決して強化できない。私は、労働組合を結成するためのケルンをいかに創造するのかの活動について話を聞きながら、こうしたイメージをわかしつつ、とりくんでみた。すると、今までなかなかつくることができなかった現場労働者の結束をつくることができたのだ!
 そして、私がワクワクしたのにはもう一つの理由がある。先輩労働者の話してくれた職場活動の根底に貫かれてものとして見えてくるのは、わが運動=組織論の原則。運動づくりのただなかでいかに組織を創造するのかの、かの運動づくりと組織づくりの弁証法が貫かれていることを直観するがあまりに、嬉しさと感動がわきあがり、オルグがとても面白く感じられた。この活動の発想、解明は、本当に素晴らしい!
 これからも私は職場でケルンを創造するために奮闘する決意である。

ともにガンバロー!
       (2004年7月   宮津直巳)