労働者の階級的組織化のための一考察 (その2)

3.袋小路で……

 とはいえ、条件の面から見ればそれは自明ですらある。なんとなれば、彼のような労働者としての当然の感覚を活かすべき方途が、彼にとっては存在してこなかったからこそ、なのだ。
 彼のこれまでの労働者としての経験のなかでは、同様の、いやそれ以上の理不尽な処遇を受けることが多々あったに違いない。彼はどのようにそのような状況をくぐりぬけてきたのだろうか。彼自身が、あるいは彼と同じ条件におかれた他の労働者が会社=資本にたいして異議を唱えたこともしばしばあったに違いない。だがその異議は、よほどの好条件にささえられないかぎり、実現されることはない。現存する労働法規によって保障されている権利の実現でさえそうである。
 今日の日本の労働者階級と資本家階級との力関係のもとで、一般に、企業に雇用されている従業員の一人として、労働者が管理者にたいして会社・資本のやり方についての不満ないし異議を公然と唱えるならば、彼はたちどころに強い風圧にさらされることになる。おそらく石松さんもこれまでの労働者としての人生のなかで、会社にたいして不満を噴出させ攻撃にさらされたメンバーをしばしば見てきたであろうし、追いつめられて辞めていく労働者の姿をも多々見てきたはずである。このような体験は彼に、異議を唱えることが〝危険〟なことであり、労働者としての生活の破綻につながりかねない、という個人としての処世訓のようなものを残すことになる。このような処世の術を身につけてない労働者のふるまいに、彼はむしろ警戒心をもつことになる。そのような労働者は、彼の目には世間知らずの未熟ものにさえ見えてくる。
 資本にたいする労働者の個別的な反抗をささえる社会的=法的仕組みとしては、労働基準法があり労働基準監督署がある。しかし、たとえ労働者が労基署に相談ないし申告しても、賃金未払いのようなよほどのことでないかぎり、そして明白な証拠がないかぎり、監督官は動かない。身分を曝して相談・申告するというリスクをおかしても、効果を得られないことも多いのである。(会社経営者に、「労基署に行くぞ!」などと啖呵を切る猛者も中にはいるが。しかし、そのようなメンバーには、実は何らかの特別な条件があることが普通である。)一般に、労基署に提出された企業の就業規則のなかに明白な労働基準法違反となるようなことが含まれていても、現実に大きな問題が生起しないかぎり滅多なことでは労基署は動かないのである。このような労基署の対応は、労働者階級と資本家階級との今日的な力関係を反映しているのである。労基署への相談・申告であれ、労働審判の申立であれ、労働者にとっては相手方企業から報復されることへの覚悟、だから場合によっては自ら退社する覚悟がないとほとんど出来ないことなのだ。
 もちろん当該企業に労働組合が存在し、組合執行部が組合員たる労働者たちの不満等を集約し、労働法に依拠してであれ、労働者的権利意識にもとづいてであれ、会社=資本にたいして要求を打ち出す、というような条件がある場合には、不満をもつ労働者も孤立することはない。不満をどのように解決するのか、という問いは活きたものとなる。しかし、労働組合の組織率は低下を続け、2023年の調査では16%台、しかも労働組合の大部分は、大企業の御用組合である。そのような労働組合すら存在しないという条件のもとで働く圧倒的多数の労働者が外部の地域的な労働組合に個別に加入して会社と闘うこともある。そのような例が、この会社にも複数回あったようだ。だが、その結果は惨めなものとなったと言われる。労働者にはそういう行為が危険なことであるという経験知と諦めが残っていく。思想的に反労組的な考えをもってはいなくても、労働組合に近づくことじたいが、危険なこととして観念されるということにさえなってしまうのである。
 若い労働者の多くは、労働運動の匂いすら嗅いだことがない。それはそれで労働運動とは縁遠いものである。しかし、かつてそれなりに労働運動に加わった経験のある年配の労働者の多くは、労働運動の敗北と衰退を何らかのかたちで体験しているし、挫折を味わっているだろう。その場合には、労働運動への失望感はより深くなってしまう。

 

4. 労働者階級のど真ん中で闘おう!

 正当な労働者的直観・義憤をもちながらも、それが活かされることなく、経験的に獲得した労働者個人としての処世訓のようなものが、労働者としての労働・生活を営むことそのものを通じて固定化され、規範的に内面化されてしまうのである。それは労働者自身が、資本家が労働者を搾取するためにつくりだした規範を――あくどい抑圧と弾圧を通じて――内面化させられ、それをモラルとして受けいれさせられる、ということにほかならない。それは「資本の創世記」、いわゆる「根源的蓄積過程」において、資本が「血と火」によって労働者を過酷な賃金労働に馴化させたことの場所的=現在的再生産を意味する。
 このようにして労働者は、資本家に思想的にからめとられ、己の階級的規範を形成することができなくなってしまうのである。長期にわたり資本の軛のもとで呻吟してきた労働者の固定化した規範意識をうち破ることは至難の業ではある。
 だがまさにこのような疎外をうち破り、労働者の思想的=階級的自覚を深め、団結を強化することそのものがわれわれ共産主義者に問われている。労働者の多くが資本家的モラルに囚われているとしても、それは思想的にブルジョア化しているということを意味しない。外的強制によってはめ込まれた〝ギプス〟のようなものであって、労働者が労働者であるかぎり、石松さんについて見たように、労働現場で、また労働者としての社会生活の場面で、理不尽な思いを味わい続けることは避けられない。賃金労働者が働く場に〝無風地帯〟などありはしない。そこには、いわば〝純粋無垢〟な労働者もいないし、ブルジョアイデオロギーに完全に汚染された労働者もそうはいない。ほとんどの労働者は、ブルジョア的規範に縛られながらも、その内面にはたえず歪んだ規範意識に亀裂をもたらす義憤が湧き起こり、階級的現実への叛逆の萌芽が宿ることは必然なのである。われわれ=共産主義者の働きかけを通じて、彼らの階級的意識が高まり、労働者としての精神的背骨が形成されるにつれ、〝ギプス〟は〝見えない鎖〟として自覚され廃棄される。それに代わって、仲間たちと団結して労働者階級としての利害を守り、貫徹しようとする労働者的規範意識が形成されうるのである。

 いま述べてきたことは、労働者の階級的団結の創造に関して、その可能根拠を私のわずかな体験をふりかえり、考察したものにすぎない。

 プロレタリアの革命的前衛たらんとするわれわれ共産主義者は、おのれ自身の内面の省察とたえざる自己研鑽を主体的根拠として、ともに働く労働者として、仲間たちと叛逆の萌芽を共有するとともに、彼らの階級的団結の中心とならなければならない。同志たちのなかには様々な闘いをつうじて既に一定の組織的基盤を構築しえたうえにさらなる前進をはかる同志もいれば、労働運動の影すら見当たらない職場で、それこそ一人〝ポツン〟と実存し、苦闘を続け、闘いを一つ一つ教訓化して前進している同志もいる。私もその一人として、仲間たちの闘いに学び、教訓を組織的に共有して前進したい。

 われわれは、労働者階級の階級的組織化のために、その時々の諸問題をめぐって彼らに成長を促す思想闘争の指針を解明するとともに、組織活動の指針を組織論的にも解明するのでなければならない。このかんの階級闘争論の深化のための、組織的討議に踏まえつつ。

 そして、仲間たちへの思想的成長を促すかかわりの端緒は、理論の注入や、説教のごときものではなく、やはり〝苦難の共有〟そのものだろうと思う。

 (二〇二三年一二月一〇日  遠賀川 清)