ブルジョア民族主義への転落を隠蔽する早瀬 (「民族自決」原理をのりこえるために)ーー『新世紀』322号・早瀬論文批判(下)その1

 これまでの連載にて、同志黒田が理論的に整理した「エスニシティ」概念を「革マル派」中央官僚・早瀬光朔がどのように悪用しているかを見てきた。これに引き続いて本稿「下」では、彼・早瀬がレーニンの〈分離ののちの結合〉論を、やはりブルジョア民族主義への自らの転落を正当化するための論拠にまで貶めていることを明らかにする。 

 すでに紹介したように、90年代のユーゴ反戦闘争における西欧トロツキスト諸派に対する論戦の中で酒田誠一は、〈分離ののちの結合〉論を「ネイション・ステイトの止揚」を目指す指針として捉え返していた。このような理論的把握を今日の「革マル派」中央官僚らが完全にぶち壊している以上、酒田論文が解明したところのものの再主体化が必要であることは、すでに述べたとおりである。
 とはいえ、〈分離ののちの結合〉論に貫かれたレーニンその人の独自な革命的立場を改めて確認するだけでは、今日の情勢にあってはやはり不十分であろう。たしかに、スターリンによって徹底的に踏みにじられたこのレーニン的原則は、「抑圧民族」のプロレタリアートが「被抑圧民族」のプロレタリアートと連帯するための革命的方向性を示したものとして、われわれが今日なお参照するべきひとつの原点をなす。しかしながら、旧ロシア帝国領の中でもブルジョアジーが階級としてなお未確立な段階にあった地域にまでこの〈分離ののちの結合〉が一般的原則として適用されたことは、プロレタリアートの過渡期国家として確立されるべきソ連邦の中にひとつの歪みを生み出す結果となったことも事実なのである。今日プーチンは、かの悪名高き「ロシア人とウクライナ人との歴史的一体性」論文においてレーニンの〈分離ののちの結合〉論を、ソ連邦解体の遠因となった政策だとして非難している。これ自体はウクライナ侵略戦争を正当化する虚偽の宣伝であるとはいえ、それを全くの虚偽だと切り捨てるだけであれば、却ってそれは真に克服していくべき理論問題に蓋をすることにもなる。「革マル派」中央官僚の度し難いナショナリズムのみならず、プーチンの言説と対決するためにも、レーニンの〈分離ののちの結合〉論そのものの批判的検討を避けて通ることはできないと私は考える。
 そこでまずは、「革マル派」中央官僚・早瀬がレーニンの〈分離ののちの結合〉論についてどのように述べているのかを見ておこう。

 「レーニンと初期ボルシェヴィキは、独立した民族国家を単純に否定するズンドウの「世界革命」なるものをめざしていたわけではまったくない。彼らは、「内容上ではないが形式上は民族的に」というマルクス・エンゲルスの革命理論(『共産党宣言』)にのっとって、ロシアを起点とするヨーロッパ=アジア・プロレタリア革命の連続的遂行を展望していたのである。それゆえにレーニンは、つくりだされるべきソビエト諸共和国の連邦について、「ヨーロッパ=アジア・ソビエト共和国連邦(ソユーズ)」という名称を提案したのであり、それは「各共和国の完全な同権と自由意志にもとづく加盟」および「離脱の自由」を保証するものでなければならない、と主張したのである。
 レーニンボルシェヴィキが、ソ連邦結成後に、ウクライナにおける「ウクライナ化」(=「土着化」)政策を推しすすめたのもまた、同じ理由による。彼らは、右のような「分離ののちの連邦制」という原則に立脚して、各民族ソビエト共和国の——それぞれの内部での労農同盟の創造と・そこにおけるプロレタリアートヘゲモニーの確立、これを基礎とする階級的相互連帯にもとづいて——インターナショナール(民族的即国際的)な連合をつくり出そうとしたのである。
 このようにレーニンは、ウクライナにおける「民族解放」と「労農革命」を、——労働者階級の国際的な階級的団結を基礎にして——ウクライナ労働者・人民の「自己決定」にもとづき遂行すべきことを一貫して促したのだ。まさにそれゆえに大ロシア主義者・プーチンは、このレーニンを蛇蝎のごとく忌み嫌い、ありとあらゆる悪罵を投げつけているのである」(『新世紀』322号、103-104頁)

 ここに書かれていることは、全くのところ奇妙である。
 第一に、『共産党宣言』の文章が意図的に切り取られ、訳語が加工されている。引用元の文はこうだ——「ブルジョアジーに対するプロレタリアートの闘争は、内容上ではないにせよ、形式からすれば、さしあたりnationalな闘争である。当然にも各国のプロレタリアートは、まずは自国のブルジョアジーから片付けていかねばならない」。この「national」という部分を早瀬はあえて「民族的」と訳しているのだ。しかしマルクスエンゲルスは、この箇所ではプロレタリア革命の「内容」と「形式」との対照関係を論じているのだから、内容上は国際的であることの対になる「形式」については——すでに100年以上前の初邦訳で堺利彦幸徳秋水が的確に捉えていたように——「一国的」と訳されるべきだろう。そうではなくこれを「民族的」と訳して、しかも一部分を切り取ってしまう早瀬は、マルクスエンゲルスが「自国ブルジョアジーの打倒」をこそプロレタリアートの「一国的」闘争の中身としていることをこっそりと隠したのだ。そうしておけば、ゼレンスキー政権を尻押しする「革マル派」の祖国防衛主義を隠蔽できるからである。
 だが、『共産党宣言』の精神とはこうである。各地域のプルジョアジーが支配階級としての自らの特殊的利害を「国民」(ネイション)全体の一般的利害として妥当させているところのそれぞれの国民国家(ネイション・ステイト)において、抑圧され搾取されている労働者階級は、「さしあたり」「まずは」、この国家内部での闘争を組織する以外にない。各国のプロレタリアートは、それぞれの国の政治権力を奪取することによって、新しく建設される労働者国家の主体=「国民」として自らを組織する。『宣言』第二章に云うように、「プロレタリアートはまず政治的支配を自ら獲得し、自らを国民的(national)な階級へと高め、自己自身を国民(Nation)として構成しなければならない。だから、プロレタリアート自身は、ブルジョアジーの云う意味とは全く異なるとはいえ、やはり国民的なのである」。それぞれの地域で成立していくべきこの新しい意味の諸「国民」が、横につながって連帯していくことは理の必定である。何故なら、各国の労働者階級は同じ資本制生産様式の下で搾取され疎外される被抑圧階級として国境を超えた同一性を本質的に有するのであり、その意味で皆が「祖国を持たない」。マルクスエンゲルスの言い方を裏返せば、労働者階級の闘争は「形式からすれば」それぞれの国家内部で展開されるとはいえ、「内容上」はあくまでも国際的なのである。それは、プロレタリア革命が人間の人間的解放たるの世界史的普遍性を有するからに他ならない。
 早瀬が上のような事柄を曖昧したことは、第二の問題点にもつながってくる。すなわち彼はレーニンの〈分離ののちの結合〉論に関して、「ソ連邦結成後」に連邦を構成する「各共和国」が分離の権利を有することを紹介する一方で、1917年に成立した革命ロシアからの〈分離〉ならびにソ連邦への加盟=〈結合〉を誰が・どのように「自己決定」するのかについては、一切言及したがらない。ツァーリ専制体制がロシア・プロレタリアートによって打倒されたのちにソヴィエト政権からの「分離」を望むのは、「各共和国」の中の一体誰であるのか。そもそも、ロシア革命の時点で「各共和国」なるものがすでに存在していたと云うのか?こう問いかけてみるだけで、早瀬の論が意図的に何かをぼかしていることはすぐに露見してしまう。
 これに対してレーニンは〈分離ののちの結合〉論において明確に、「被抑圧民族」自身によるブルジョア国家の新建設を支持したのである。「革マル派」中央官僚派と異なってレーニンその人が、ブルジョア民族主義者の積極的部分を支持することに何のごまかしもためらいも見せていないのは、その支持が、あくまでもプロレタリアートの闘争を前進させるという目的実現の観点において下された政治的決断だったからに他ならない。
 ロシア革命の後、過渡期国家の建設に向けた社会主義的諸制度を具体的に練り上げていく闘いの中で、旧帝政ロシア領内に住まう諸民族をどのようにしてプロレタリア革命へと糾合していくのかが焦眉の問題として浮上した。この問題を解決しないことには、帝政ロシア支配下にあってロシアに対する反感を募らせていた諸民族は、ボリシェヴィキを敵視する反革命勢力の内へと容易に取り込まれてしまう。1918年の春には既に英・仏・米・日といった帝国主義列強が干渉戦争を開始していたし、この時期に「ウクライナ人民共和国」の「中央ラーダ」を名乗る勢力は、ボリシェヴィキとは別個に調印したブレスト=リトフスク条約(いわゆる「ベレスチャ条約」)に基づいて、ドイツとオーストリアからの軍事的協力を得て革命ロシアへの公然たる敵対を開始していたのである。加えて、コルニーロフの反乱に参加していた帝政派のデニーキン将軍もまたロシア南部およびウクライナ中部において白軍を組織し、支配地域を拡大しつつあった。こうした中でレーニンは、ツァーリの支配から解放されたロシア以外の諸民族がソヴィエト政権との関係をあくまでも「自己決定」するべきことを主張する。たとえツァーリ専制体制を打倒したのだとしても、労働者国家が帝政期の統治機構をそのまま受け継いでロシア以外の諸民族に対して社会主義諸制度を“上から”押し付けるならば、押し付けられた側はロシアのソヴィエト権力に対してツァーリに対するのと同じ反感を抱くことになるからである。このような観点からレーニンは、旧ロシア帝政下にあった諸民族が革命ロシアから分離独立すること、すなわち独立したブルジョア国家を創設することを認め、そしてこの新生の国民国家において労働者・農民の階級が“下から”ブルジョアジーを打倒して、然るのちに改めてソ連邦へと結集することを望んだのである。これは事によっては、というよりも現実的な見込みからすれば、革命ロシアの領土的縮小を確実にもたらす。
 そうした「分離」を認めるレーニンの大胆な後退戦術は、すぐれた現実感覚に基づくものであると同時に、プロレタリア革命が「さしあたり」「まずは」一国的であるという『共産党宣言』のテーゼを彼が現実的に適用した結果であった。しかしこの適用の仕方こそが、後々まで禍根を残しているのである。
    (2023年1月26日 浜中大樹)