国際的な理論闘争から逃亡した「革マル派」中央官僚 

ロッタ・コムニスタの文章はどう切り刻まれたか

 咋2022年の第60回国際反戦集会にあたって「革マル派」中央官僚は、NATOを構成する西側の帝国主義国家権力者らがプーチンに対して「怯んだ」ことを非難し、ゼレンスキー政権への武器輸出を加速させるよう要求した。マルクス主義を標榜する組織は世界中に数あれど、ここまで公然と西側帝国主義プロパガンダを素直に受け入れたのは「革マル派」中央官僚派くらいのものである。彼らは、自分たちこそが「スターリンの末裔=プーチン」に真正面から対決できる「反スタ」左翼なのだと自負(?)しつつ、ウクライナ「防衛」を支持しない他の左翼諸潮流の「混乱」「対応不能」を罵ってはばからない。
 そうした彼らの態度を“理論的”に基礎づけたもののひとつが、昨年5月22日付の中央労働者組織委員会(WOB)論文(「自称「左翼」の錯乱を弾劾しウクライナ反戦の炎を!」)である。ここで中央官僚は、「ウクライナ軍」と共に「勇猛果敢に」ロシア軍と戦闘している「ウクライナの労働者・人民」を支援することこそが「左翼」の任務であると主張した。彼らは、〈誰が侵略し・誰が侵略されているのか〉を強調してウクライナを丸ごとひとつの「被侵略国」として措定し、ゼレンスキー政権が西側帝国主義の利害を代弁していることも、ウクライナブルジョアジーが労働運動を徹底的に弾圧していることも、全て不問に付した。「革マル派」中央官僚は、ウクライナ国内の階級闘争から下部メンバーらの目を背けさせることによって、ゼレンスキー政権尻押し運動へと彼らを動員したのである。戦争が始まった途端に階級闘争を放棄して「国民」一丸となってブルジョア国家を守ろうと呼びかける立場を、一般に「祖国防衛主義」あるいは「民族排外主義」という。まさしく、かつての第二インターナショナルばりに祖国防衛主義へと転落した「革マル派」中央官僚は、そのことを弾劾したわが探究派を、マルクス主義の「二、三のテーゼのようなものを枠にアテがって、ウクライナ情勢を評論しているだけの俗物なのだ」と書いた(『解放』2731号、22年8月15日付)。勇ましい彼らの口先は、だが実のところ、小心者としての精神的本質のあらわれである。本ブログの読者から寄せられた通信が、このことを改めてわれわれに教えてくれた。

1、「(中略)」とされたメッセージ

 ウクライナ民族主義の前に拝跪し、ゼレンスキーとNATOの応援団と化した者たちの主催した「国際反戦集会」——60年前に〈米・ソ核実験反対!〉を掲げて闘ったとき以来のわが革命的反戦闘争にまたしても泥を塗った昨年の集会には、にもかかわらず少なからぬ諸団体・諸個人がメッセージを寄せてきた。例年、メッセージはまず集会当日に参加者へ翻訳付きで配布された後、『解放』紙上で何度かに分けて日本語訳が掲載され、そして『新世紀』に原文が掲載される。これらメッセージが集会実行委員会の意に沿うものだとは限らない。それでもなお、異なった見解や批判はそのままにして公表されるのが、これまでの常であった。実際、昨年・第59回の集会に対してインドの「ファリダバッド労働者新聞」が、集会実行委員会の掲げた「イスラミック・インター-ナショナリズム」のスローガンを全く正当にも批判したとき、彼らのメッセージは、一部が省略されながらも主張の骨子は歪曲されずにそのまま公表されていた(『解放』2685号、21年9月13日)。寄せられたメッセージがたとえ異なる意見を含んでいたとしても、それは組織内および組織間での討論に委ねるべきであり、余計な手を加えるのは組織成員に対しても先方の組織に対しても不誠実である。ここ数年にわたって腐敗を深めてきた「革マル派」中央官僚たちといえども、この一線は守ってきたのだった。しかし、昨年・第60回集会においては、この一線が越えられたのである。
 何が起こったのか、事の詳細を私がようやく知るに至ったのは、迂闊にも最近のことだった。教えてくれたのは、匿名の読者である。その人は、イタリアのグループ「ロッタ・コムニスタ」が昨年・第60回集会に寄せたメッセージに着目するよう提案してきた。少しいぶかしみつつも検討したところ、次のことが判明した。

(1)『解放』2735号(22年9月12日付)に掲載されたロッタ・コムニスタの文章(日本語訳)は、「(中略)」という表記で、全文掲載ではないことが示されている。記事は「ロシア、ウクライナ、万国の労働者は団結しよう」という題で、これは編集局がつけたものである。
(2)今年1月付の『新世紀』322号に掲載されたロッタ・コムニスタの文章(原文英語)には、「(...)」とだけ記されている部分がある。これもやはり、全文掲載ではないことを示すものである。『解放』に載った日本語訳よりも分量が多い。
(3)「革マル派」の公式ホームページ(英語版)では、ロッタ・コムニスタから送られてきた文章が、中略の断り書きなしに掲載されている。『新世紀』掲載分よりも分量が多く、部分的に削除した形跡も特にないため、これが完全版であると思われる。単語数にして3600程度、文字を詰めてA4用紙で印刷して5〜6頁分になる長文である。これをもとにして確認すると、『新世紀』掲載分では全体の内およそ3分の1相当の1200単語分の文章が削除されていることが判明する。

2、“共感”の捏造と理論闘争からの逃亡

 国外の団体から寄せられたメッセージにそれなりの分量がある場合、文意を損なわない限りで一定の調整を行うことは、一般的にはやむを得ないことではある。『解放』は——「革マル派」総体としての理論的水準が低下したことにより——6頁立てに減らされているのだから、さしあたり「中略」で対応するという判断を編集局が下したならば、それもまた理解できることである。しかし、紙幅を比較的自在に変更できる『新世紀』で原文を削除するとは、一体どういうことなのか。そして何よりも問題なのは、その切り取り方である!
 まず『解放』に掲載されたロッタ・コムニスタからのメッセージを読んでみよう。その文面だけを漫然と眺めていると、このグループの主張は「革マル派」のそれと大きくは変わらないように見えるかもしれない。例えば、この部分のように。

「同志諸君、諸君はアピールのなかで「ウクライナとロシアの労働者人民は、両民族のプロレタリアート・農民・兵士が合流したあの一九一七―一八年ソビエト革命の精神を甦らせて、互いに連帯してたたかおうではないか」と、ウクライナとロシアのプロレタリアートの団結を呼びかけている。諸君が書いているように、帝国主義戦争を真に阻止できる力は、「ただウクライナ労働者人民、ロシア労働者人民、そして世界の労働者人民の共同した闘争だけである」ことを歴史的経験は示している。これが、世界のボルシェヴィズムが示した、戦争に反対し、革命に向かう道なのだ!」

 ここだけを読めば、ロッタ・コムニスタは「革マル派」に共感を寄せているかのように読めてしまう。たしかに彼らは、国際反戦集会実行委員会の発した海外アピールを注意深く読み、その文言をきちんと引用して、ウクライナ反戦闘争を共に展開しようと呼びかけている。『解放』編集局が付けた記事タイトル「ウクライナ、ロシア、万国の労働者は団結しよう」もまた、このグループが「革マル派」にさしたる異論を持っていないかのように印象付けるものだ。だが、次の部分はいかにも不自然である。

「同志諸君、「アピール」において諸君は、「大国」の侵略にたいする「被抑圧民族」の「正義の戦争」にかんするレーニンの立場を提起している。「不屈の戦うウクライナの労働者人民・兵士と固く連帯する、と諸君は表明している。「侵略者にたいして戦うウクライナ人民を孤立させるな!」と諸君は言う。「一般民衆と結びついたウクライナ軍の強さ」を諸君は見る。
 さらに諸君は、ウクライナ労働者たちに向かって、「労働者階級が中核となり、軍と領土防衛隊と住民・義勇兵が一体となって」ロシア軍を撃退せよ、と呼びかけている。そして最後に、自称「左翼」——親ロシアの立場をとる者(スターリン主義的郷愁にとらわれている)も中間主義的立場をとる者も——の腐敗を弾劾している。これらの諸点、とりわけレーニンのスローガンについて、すべての国際主義的諸潮流のあいだでの突っこんだ理論闘争が必要である。なぜならば、帝国主義戦争の連鎖が進行し、世界戦争という次なる大惨事の勃発をまえにして、不意をつかれることがないように、できるだけ早く、これらの諸問題と革命の展望が、広く論議されなければならないからである。
(中略)」

 ロッタ・コムニスタは「理論闘争」を呼びかけているのに、ここで唐突に「(中略)」が来るのは一体どうしたことか?こうなると、レーニンの「正義の戦争」論を利用してウクライナ「軍」の戦闘を美化する「革マル派」に対する異論が「(中略)」されているのではないか、と思えてくる。そこにはよほど都合の悪いことが書かれているのだろうか? ちなみに「革マル派」中央官僚は、さきに言及した5月のWOB論文において、このロッタ・コムニスタを「マルクス主義への無知蒙昧」に属するものとして、次のようにこき下ろしていた。

「たとえば、「ウクライナにもブルジョアとプロレタリアがおり、ロシアにもブルジョアとプロレタリアがいる」(イタリア・ロッタコムニスタなど)、だから「挙国一致はオカシイ」と言う。あるいは「労働者は祖国をもたない」という『共産党宣言』におけるマルクスの言葉をもちだして、ただただ「国際主義を」と主張する(トロツキストたちに多い)。だが彼らは、「労働者は祖国をもたない」というプロレタリア的存在についての本質論だけを振りまわしこれを現に今生みだされているウクライナ侵略戦争問題に投影しているだけであって、そこでは民族問題をマルクス主義者はどう考えるのかということを完全に考察のらち外に追いやってしまっているのである」

 〈民族問題をマルクス主義者はどう考えるのか〉を没却した無知蒙昧、そのように罵倒した相手から、まさしく民族問題についての理論闘争が要求されたことに、「革マル派」中央官僚は動揺したのだろうか。彼らが削除した文章を具体的に検討してみよう。

3、「(中略)」されたのは何か

 「革マル派」英語版ホームページ掲載分を元に、ロッタ・コムニスタのメッセージのうち「革マル派」中央官僚らが隠蔽したものを再構成すると、次のようになる。

(一)マルクス主義者は、民族独立の要求=「民族問題」を無条件に支持してきたのではない。1848年革命においてマルクスエンゲルスが民族ブルジョアジーの民主主義革命に肯定的な評価を与えたのは、それが中世的封建制を打倒する進歩的な闘争だったからであり、そしてレーニン民族自決権のスローガンを掲げたのは、植民地支配からの解放を目指す民族独立運動帝国主義打倒の闘争を推進する有力な部分だったからである。「マルクス主義にとって「民族問題」とは常に、原則の問題ではなく、階級闘争の問題だった。すなわち、プロレタリアートが民族問題を有効利用する可能性の問題だったのだ。したがって、プロレタリアートの国際的闘争を利するような民族ブルジョアジーの主張のみが、マルクス主義によって支持されるにすぎない」。
(二)しかし帝国主義の世界支配下で諸産業が完全にグローバル化した20世紀後半にあっては、「新興地域の民族問題でさえ、その具体的な重要性を失う」。ブルジョアジープロレタリアートの間での階級闘争は国際化しており、一国内にとどまるものではない。こうした条件のもとで、帝国主義諸国家は、各地域の民族的・国民的独立の要求を、自らの勢力圏獲得のために利用している。これはウクライナでも同じことであって、EUとNATOリヴィウを拠点としたブルジョアジーを利用し、「ロシア帝国主義」はドンバスと東部地域のブルジョアジーを利用している。「同志諸君、夜が昼に続くのと同じように、資本主義において平和と戦争は絶えず交互に繰り返されるのであり、それらは同じコインの裏表である。ウクライナにおける帝国主義戦争は、帝国主義時代において民族問題が最早過去のものとなったことについて、革命家たちに再び省察を促す。これは決して偶然ではないのだが、「ウクライナ問題」と題した1939年4月の文章においてトロツキーは、「ある帝国主義に対抗して別の帝国主義に奉仕することによってウクライナ問題を解決しようと提案した「民族主義者」」(!)を攻撃し、「帝国主義の時代における」民族問題の変質について警告したのである」。
(三)「帝国主義時代において民族問題が最早過去のものとなったこと(the exhaustion)」についてのトロツキーの探究を、われわれは今日さらに発展させる必要がある。今日プロレタリアートの闘争は、マルクスエンゲルスの時代とは異なり、ブルジョア的な民族的要求とのつながりをもたない。「革命戦略は、世界中どこにおいても「民族問題」なしでやっていける。プロレタリアたちが民族ブルジョアジーのために闘うよう強いられることは最早ない。民族ブルジョアジーのために戦うなら、プロレタリアたちは帝国主義勢力によって利用されることになるからである」。共産主義者は「ウクライナの国民的結束」「ウクライナ軍とウクライナプロレタリアートの政治的一体化」に反対し、「搾取されたウクライナ大衆の政府に対する反抗」を支持するべきである。

4、帝国主義戦争反対のスローガンを掲げてたたかおう!

 このように『解放』ならびに『新世紀』が削除した部分において、ロッタ・コムニスタは、「革マル派」中央官僚に対する詳細な反論を提供していたのである。われわれもまた「正義の戦争」論に関するレーニンの文章を再検討して同様の結論を確認してきたところであり(山尾行平「レーニン「正義の戦争」論の政治利用」本ブログ22年11月11日付)、今回イタリアの同志たちが上のようにメッセージを寄せていたことを——遅ればせながらも——知って、とても心強く思う。
 その主張は、改めて繰り返すまでもなく明快である。彼らが指摘するように、共産主義者国民国家独立の要求を無条件に支持するのではない。今日、「プロレタリアートが民族的要求を利用することは、帝国主義勢力によって掌握されることなしには不可能であ」って、革命的左翼は、国民国家防衛のための戦闘ではなく自国政府打倒の闘いへとプロレタリアートを組織するべきなのである。
 NATOによる軍事支援反対・ゼレンスキー政権打倒を呼びかけるからといって、そのことはしかし、「革マル派」中央官僚が主張するような「〈プーチンの戦争〉の随伴者となってしまう」ことを決して意味するのではない。われわれはロシア帝国主義・プーチン政権によるウクライナ侵略戦争を何よりも真っ先に弾劾する。ウクライナの地におけるロシア軍の蛮行に憤怒を覚えつつ、殺害された人々、国境を越え避難した人々、今なお生存の危機に直面している人々に思いを馳せる。そのことと、今まさに武器をとって前線にいるウクライナ労働者階級に対してゼレンスキー政府打倒を呼びかけることは、決して矛盾しない。まさしくロッタ・コムニスタの諸君が明確に述べているように、「誰が最初に攻撃するのか、どの勢力が攻撃し、どの勢力が反撃するのかは、帝国主義においては重要でない。帝国主義が攻撃者なのであり、プロレタリアートは攻撃される者なのだ!」からである。
 この点に照らしてみると、「革マル派」中央官僚がこの戦争を専ら山括弧付きで「〈プーチンの戦争〉」と呼ぶ理由も改めて明らかになってくる。彼らはこの戦争が第一次世界大戦とは異なることを強調し、今回は「国と国との戦争」ではなく、「プーチンの軍隊がウクライナになだれこみ一方的に蹂躙している」ものと捉えた(前掲『解放』1731号)。しかし、この丸ごとの国民国家ウクライナ」とは一体何であるのか。この国家を支配するウクライナブルジョアジーは、2014年の「ユーロマイダン」に際して自ら西側帝国主義と結びつき、ロシア帝国主義の政治的・経済的影響力を削ぎ落としてきたのではなかったか。ロシア帝国主義はこれに対抗して東部ウクライナとクリミアを軍事的に確保し、西側帝国主義に対する緊張状態を繰り返し高めてきた。昨22年2月24日の以前において既に東西の帝国主義国家権力者らはそれぞれの勢力圏をめぐって角逐を繰り返していたのであり、こうした関係においては、それこそ〈誰が最初に攻撃するのかは重要ではない〉。これに対して「〈プーチンの戦争〉」を丸ごとの「ウクライナ」に対する「蹂躙」と把握する限り、「革マル派」中央官僚は、ロシアとウクライナとの間に存在していた既定の国境線を守るよう要求しているだけなのだ。そう要求するのは、彼らがプロレタリア世界革命を実現する立場をとうに放棄してしまったからに他ならない。

 今回『解放』そして『新世紀』がロッタ・コムニスタのメッセージを「中略」=隠蔽したのは、まともに「理論闘争」をすれば太刀打ちできないものを下部メンバーらに見せたくなかったからであろう。それにしても、これほどふざけた話はない。海外の諸団体からメッセージを受け取ることは、ただ単に自らを国際的に大きく見せたいがためなのか。寄せられた批判に対して真摯に応答するどころか、都合の悪いところを削除するというのでは、「国際反戦」など単なる茶番である。
 労働者・学生諸君! 見せざる・言わせざる・聞かせざる——こんな姑息なことをやるのが今の「革マル派」なのだ。いつまでも声なき羊群でいることは、諸君の望むところではあるまい。ロッタ・コムニスタからのメッセージを恣意的に切り取ったことについて、下部組織成員諸君は自らの指導部に対し、事の真相を問いただしてみてはどうか。諸君が党内で勇気ある闘いに踏み出し、プロレタリア国際主義の大道を共に歩むことを、われわれは心より希望する。

     (2023年3月20日 春木良)

『解放』2735号(22年9月12日付)