反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質の消失 第1回 革マル派組織建設の破産の経緯とその全貌

 〔松代秀樹執筆の「反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質の消失」という論文を連載します。——編集部〕


 反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質の消失


 一 革マル派組織建設の破産の経緯とその全貌


 一九九〇年代初頭のわが労働者組織のたてなおしの闘いにおいてうみだされた問題についてさらにほりさげて反省する必要がある、と私は感じる。われわれ中央指導部は、多くの労働者同志たちに職場をやめさせ、あるいは職場を異動させ、あるいは組合役員をおろさせたのであったが、これはどういう問題をはらんでおり、その根拠は何であるのか、ということをほりさげなければならない、と私は考えるのである。
 その後の経緯を省みて、その帰結地点を確認し、この確認に立脚してそこからふりかえろう。
 土井とそれにつき従ったわれわれWOB(中央労働者組織委員会)常任会議(労働者同志をその基本的な構成員とするかたちでWOBが形態的に確立されていないので、このWOB常任会議が実質上のWOBをなしている。このことからして、組織形態をさす必要があるときにはWOBと表記することがある)の組織指導の反省をおこなっている過程において、新たな事態が発生した。
 東京では、▽▽産別の労働者組織にかんして、土井の報告のもとに黒田が指示したリストにもとづいて、われわれWOB常任は、特定の労働者同志たちに職場をやめさせることを中心とする闘争をやったのであったが、これと同様のことが、「門中主義的傾向がある」ということが問題となっていた地方においておこなわれていた。
 黒田は、東京の▽▽産別組織にひきつづいて、当該の地方の労働者組織がおかしくなっているという判断のもとに、この地方のわが組織を創造しその責任者であった山里章を解任し、彼を他の地方に移動させ、自己のつくりかえのために学習させることとした。と同時に、この地方組織の責任者として中央から一常任メンバーを派遣した。そのメンバーはその地方では座喜味と名のった。
 座喜味は全国常任会議に出席するために上京したさいに、黒田から電話をうけることができるところへ行き、組織を点検した結果を報告し、黒田の指示をうけた。彼は、この指示にもとづいて、労働組合において重要な役職についていたメンバーを中心にして特定の組織成員たちに職場をやめさせた。
 土井の指導が問題であると論議になったのちに、座喜味が土井と同じような指導をやっていたとして黒田によって解任され中央に召還されたことを契機として、職場をやめさせられた組織成員のなかの一定のメンバーたちや、他地方に移動させられた一組織成員の妻である組織成員らが中心となって、この地方の組織成員の大多数が「山里さんを返せ」と唱和して反乱を起こした。
 黒田の指示のもとに、前原茂雄・西条武夫・私の三名と、□□産別の労働者出身の常任メンバーのなかの一定のメンバーは、急遽その地方にかけつけ、その地方の常任メンバーたちと論議して、彼らが座喜味に従って指導したその内容の反省をつくりだし、われわれはそれを提起して自己批判するとともに、多くの労働者同志たちの反発の仕方の問題性をつきだし、組織成員として内部思想闘争を展開しよう、と呼びかけてたたかったのであった。こうして、反発した同志たちの過半のメンバーは、組織成員としてわが組織を強化するためにたたかうことを決意したのであった。
 だが、この地方の労働運動上の拠点である産別のもっとも古参の一メンバーは、そう決意しえず「俺はやめる」と言いだした。
 すでに東京に帰っていた□□産別出身の常任メンバーたちは——現地では、労働運動上で付き合いの深かったこの古参のメンバーと論議オルグして彼をたてなおすことに努力し、そして心配していたのであったが、そうであったがゆえによりいっそう——その報告を聞いて、「彼を脱落させてはならない」、「彼を追いつめた中央指導部がわるい」と反発して、WOB常任会議に来なくなり、他の常任メンバーから彼らへの連絡がつかなくなった。
 当該の地方での闘いに区切りをつけたと判断した黒田の指示のもとに、前原茂雄一人を現地にのこして、私は東京に帰った(西条武夫は自分の担当の地方に帰った)。□□産別出身の常任メンバーが常任会議に来なくなったという話を聞いて、私は、彼らが中央指導部との組織的連絡を絶ったのだと判断し、危機意識をもやした。□□産別組織の担当常任であった私は、彼らがみずからの内面に、一九九〇年代初頭の組織のつくりかえの闘いのその仕方へのものすごい反発と土井に指示した黒田その人への疑念を抱えている、というように、彼らを分析していたからである。私は手をつくしたが、すでに彼らとの連絡はつうじず、彼らと論議することはできなかった。
 彼らは、彼らと無理やりに論議することをこころみたわれわれ中央指導部に、よりいっそう反発し、□□産別の労働者組織総体が中央指導部から離反し、組織的にたもとをわかった。
 その後、この産別の労働者組織のメンバーたちが執行部を担っていた労働組合、この組合が危機におちいるたびごとに、この労働者組織は分裂をくりかえし、ついに、この労働組合そのものが企業当局によってつぶされた。
 私は或る地方のわが組織の責任者をやっていたのであったが、二〇〇四年に黒田から「個別オルグ主義」と批判され、組織的に処分された。私は、黒田と彼に従った常任メンバーたちとの思想闘争において、たたかう術もなく敗北した。
 いま、私は、このおのれをつくりかえ、わが同志たちとともに探究派を結成し、この革マル派組織建設の破産をのりこえるためにたたかっているのである。
 □□産別のわが労働者組織は、わが反スターリン主義前衛党組織の労働者的本質を体現していたのである。黒田はそのように自負していたのであった。わが党組織がこの本質的実体を失ったことは、わが党組織がその実体的本質を、すなわち労働者的本質を、失ったことを意味するのである。したがって、彼らの離反を彼らの問題性として、その根拠を、彼らが黒田の哲学と思想を体得していなかったからだ、というようなことにもとめるのは、この問題をわれわれの党組織そのものの問題としてうけとめず、彼らにその責任をおしつけるものにほかならない。□□産別のわが組織の中央指導部からの離反を、わが組織そのものの破産として、わが革マル派組織建設そのものの挫折として、われわれはうけとめ、このことを徹底的にほりさげて総括し反省することが必要である、と私は考える。
 このように考え、わが革マル派組織建設の挫折の根源は、論理的にも歴史的にも、一九九〇年代初頭のわが労働者組織のつくりかえの闘いのゆがみそのものにある、と私はおもうのである。
        (2021年11月7日   松代秀樹)