当時の組織指導部が〈反スタ〉戦略を歪曲した根拠を、思考法の問題としてほりさげた。これにも沈黙。いま、答えてみよ!

 〔当時の組織指導部が〈反スタ〉戦略を歪曲した根拠を、私は2014年に、彼らの思考法にかかわる問題としてほりさげ、彼らにつきつけた。彼らは、唯物論的思惟から飛翔している、というように、である。
 水木章子は、私の批判をうけとめ私の諸論文を学習したのか、その後彼女が書いたところの中国の国家と党および政治経済構造を分析した論文は、私の分析内容を踏襲したようなリアルなものとなった。そうすると、その後、彼女の論文はピタリと出なくなった。彼女は、論文を執筆することができないような境遇あるいは精神的神経的状況に追いこまれたようであった。
 このような不可解なことが起こったのである。
 「革マル派」現指導部は、ポンタ(本多延嘉)ばりの手口を使ってわが探究派を非難する前に、自分たちが世界革命戦略を歪曲した根拠のこの抉り出しに答えたらどうだ!
     2022年8月7日  松代秀樹〕

 

 唯物論的思惟からの飛翔


 もう少し直接的なことがらを問題にしなければならないのかもしれない。
 「解放」二〇一三年の新年号の水木論文では次のようなことが書かれてあった。
 「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば、次のことが問われなければならないはずだ。党員の腐敗は、彼の共産主義者としての・共産党員としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題なのである。労働者階級の前衛としてのみずからの使命を自覚した党員であればこそ、その〝腐敗〟は法律のレベルにおいてではなく、共産主義者としてより厳しく問われるのである。党員と党はそれだけの責任と自負をもたなければならない。
 また、党員の腐敗はたんにその党員一人の問題ではない。同時に党組織そのものに欠陥や限界があるという問題として反省しなければならないのである。党員の腐敗問題は、当該の党員を除名して国家の司法機関に送る、ということによっては絶対に解決されえないし、そのようなかたちで解決してはならない。だがこのことが胡錦濤らには分らないのだ。」
 これを読んだ人は、あまりにも現実離れしている、と感じないだろうか。誰もそう思わなかったのであろうか。いま、私のこの文章を読んでいる人は、ここまで読んできて、すなわち、私に、現実離れしている、と指摘されて、そう言われればそうだなあ、と感じたであろうか。それとも、いやそんなことはない、と感じたであろうか。あるいはまた、そう言われればそうかもしれないけど、黒田さんの展開にのっとって原則的な批判をやっているのだから、これはこれでいいんじゃない、というような感想をもったであろうか。
 ここが大切である、と私はおもう。水木論文の筆者もまたそうである。いま私に、現実離れしている、と言われて、どう感じたであろうか。
 私が引用している文章を読み、これにたいする、現実離れしている、という私の一言を読むならば、その人は、現実の中国共産党中国共産党とよばれる物質的存在そのものをみるはずである。みる、といっても、この物質的現実そのものをわれわれは直接的にみることはできない。いま、私の文章をここまで読んできたというこの場面においては、その人は、中国共産党という呼称が妥当するこの物質的現実そのものをおのれの分析対象として措定し、この物質的現実そのものを分析すると意志してその人は、自分自身がすでに獲得しているところの、中国共産党にかんする知識を総動員して、この物質的現実にかんする自分自身の分析内容を再構成するわけである。この内面的営みを、自分自身が自己否定的に、意識的におこなうのかどうか、ということが問題なのである。
 その人の内面には、次のような何かがわきおこってこないだろうか。今日の中国共産党は、「いやしくも「前衛党」を名乗るのであるならば」と大上段にふりかざして批判するような相手なのだろうか、とか、これは誰にむかって言っているのだろうか、読者としてどういう人を念頭においているのだろうか、今日の中国共産党を「前衛党」とみなして幻想をもっている人などいないのではないだろうか、とか、そう言えば、中国共産党はプロレタリア前衛党という自党の規定をなしくずし的に修正して、労働者階級の前衛であると同時に中華民族の前衛でもある、だったか何か、そんなふうに規定した、というようなことを読んだことがあったなあ、こういう党を「労働者階級の前衛としてのみずからの使命の自覚」を基準にして批判していいのだろうか、とか、中国共産党の地方幹部は、当該地方の経済成長をどれだけ達成することができたか、ということでもって評価される、という話を聞いたことがある、こういう党にたいして、「彼の共産主義者としての・共産党員としての思想性・組織性・倫理性にかかわる問題」というような問題設定ができるのかなあ、とか、こういうような何かが、である。
 私のこの文章を読むことのできる組織的〝地位〟にある人たちは、何ごとかを感じる感性をもはや失ってしまっているのであろうか。ただ解釈するだけの頭になってしまっているのだろうか。
 水木論文の筆者の問題は、今日の中国共産党という、自分が分析し批判する対象、この物質的対象を、自分がすでに獲得している・過去のそれへの批判内容(過去において中国共産党ないし共産党にたいしてなされた批判の内容を自分が体得したもの)があてはまるものへと自分の頭のなかで加工しておいたうえで、自己の観念において加工しこしらえあげたこのものに、自分がすでにもっている批判内容をぶちあてている、ということにある。
 彼女は、唯物論的思惟から飛翔してしまっているのである。彼女は自己の観念の世界にすんでいるのである。こうなってしまえば、自分が現実の壁にぶつかったとしても、これをも自分の観念から解釈することになる。いつまでたってもこのことをくりかえすことになるのである。指導的メンバーたちがこの観念を共有するならば、これらの全員がそうなってしまうのである。
 過去において中国共産党にたいしてなされた批判、その内容を自分が体得したものをそのまま使おうとするならば、現存在する中国共産党スターリン主義の大枠のなかにあるものとしてあらかじめ加工しておくこと、自分の観念のなかで・現存するとしたものにスターリン主義という枠をはめこんでおくことが必要となるのである。このことを正当化するための絶好のものとして、「ネオ・スターリン主義」というレッテルに、彼女および彼女を自分の主張を理論的に基礎づける学者としてとりたてた指導者がとびついたわけなのである。
 それにしても、彼女は、胡錦濤らに何をわからせようとしているのであろうか。引用した文面に言う「共産主義者としての思想性・組織性・倫理性」とか「労働者階級の前衛としてのみずからの使命の自覚」とかは、この表現からして、われわれの言う意味でのそれと読める。だが、胡錦濤らは、こういうものとはすでに無縁なのではないだろうか。それとも胡錦濤らが今もっているところのこの表現にあたるものをさすのであろうか。だが、胡錦濤らが「自らの使命」としているのは、彼らの党=国家官僚としての利害を貫徹する、というものであって、それをつらぬけ、と彼らにわれわれが尻押しするようなものではまったくない。もしもこのように尻押しするのであるならば、それは反プロレタリア的である。さらに、「みずからの使命」の中身がわれわれと胡錦濤らとではまったく異なる、ということを捨象して、われわれと彼らとが同一の土俵にたっていると形式上みなす、というのであるとするならば、そのような土俵は、観念的被造物でしかない。
 党官僚および党員は、国有企業の経営者であるか、国家がその株式を市場で売却したところの株式企業の経営者であるか、あるいは党員としてとりたてられた私営企業の経営者であるか、そしてまた、これらの諸企業を統括するところの国家諸機関・地方行政諸機関の官僚ないし各級の党書記であるか、なのであって、――労働者や農民は、その少数の者が、彼らの先兵になるかぎりにおいて党員という資格を得るのであって――労働者や農民をよりよく搾取し収奪する者が、よくネズミを捕るネコとして評価されるのである。このような原則的な搾取と収奪から逸脱するかたちにおいて私腹を肥やす者が「腐敗」とやり玉に挙げられるのである。だから、胡錦濤らの「使命」の中身をあばきだすことをぬきにして、彼らを尻押しすることは反プロレタリア的なのである。
 筆者は言う。
 「それにしても、子供や孫をアメリカやイギリスに〝留学〟させることの危険性に思いを馳せる程度の緊張感さえもが共産党最高指導部にはない。これはいったいどうしたことなのか。必ずや忍び寄ってくるCIAやMI6にたいする警戒心もない。」
 この大いなる驚きと弾劾は、対象をスターリン主義の枠内にあるものとして加工したうえでのもの、いわゆる左翼とみなしたうえでのものでしかない。共産党最高指導部のメンバーたちは、自分の子供や孫を諸企業の経営者や国家諸機関の官僚として育てあげようとしているのであるからして、アメリカやイギリスで資本主義的な企業経営や行政について学ばせることは当然のことであり、彼らを出世させるために不可欠のことなのである。彼ら官僚にとって、なにも危険なこととして意識すべきことではないのである。CIAやMI6にかんしても、彼ら官僚は自分たち自身が自国でそれと同様の機関をつかって反政府的な分子を弾圧しているのであるからして、彼らがそれらにたいしてもつ感覚は、いわゆる左翼がもつそれとはまったく異なるものであろう。
 さらに彼女は言う。
 「「文化大革命」をただただ嫌悪し恐怖する彼らは、この「文化大革命」もろとも、文化革命あるいは思想改造運動をも水に流してしまった。「整風運動」というかたちで党員の思想改造を不断におしすすめ、これをつうじて党と党員の組織性・規律性・思想性をそれなりに強化してゆく、という中国共産党に独自の党づくりの作風そのものを投げ捨ててしまったのである。こうして党員の思想改造というアプローチを抹殺しさっていること、中国共産党指導部が「党員の腐敗問題」をいくら声高に叫びつづけても決して解決できないであろう最深の根拠はここにある。」
 「党員の思想改造というアプローチ」というように筆者は言っているのであるが、ここに言う「思想」として彼女は一体何を念頭においているのであろうか。「思想」と言っても、毛沢東の時代と今日とではその中身がまったく異なるのである。かつてはそれは当然にも毛沢東思想なのであったが、今日ではそれは、中国を資本主義国として立派にするというものであり、そのことを「社会主義市場経済」と言いくるめているものなのである。彼女は、毛沢東思想でもって党員を改造せよと言っているのであろうか、「資本主義化」の思想でもって党員を改造せよと言っているのであろうか、それとも、完全に中身をぬきさった「党員の思想改造というアプローチ」という形骸だけを問題にしているのであろうか。このような批判がなんらかの意味をもつと筆者が感覚しているのは、対象をあらかじめスターリン主義という枠のなかにはめこんでいるからなのである。筆者は自分が過去に体得した知識という自己の観念世界に生きているにもかかわらず、そのことをまったく自覚しえていないからなのである。
 筆者はしめくくりとして次のように言う。
 「「社会主義国」を自称しながら、この国の政治経済構造を国家資本主義に転換させ、無産者につきおとされた労働者たちや失地農民や農民工たちを生き血として資本に供することによって延命してきた中国ネオ・スターリン主義。その党はいよいよ思想的に空洞化し、その組織の中枢から腐臭をはなってさえいる。」
 ここに言う「資本」は得体のしれないもの、無規定のものとなっている。「資本に供する」というように、中国ネオ・スターリン主義の党は、この資本の外側に存在するものとされている。たしかに、党という形態は資本とは別のものである。だが、党の構成実体、党員である人物は、資本の人格化された形態をなすのである。そして、党=国家官僚は、労働者たちや失地農民や農民工たちの搾取にもとづく資本の自己増殖を、党を実体的基礎として指揮し統括し統制しているのである。党が思想的に空洞化し腐臭をはなっている、というどころの話ではないのである。このような価値判断と弾劾は、今日の中国共産党を、あくまでも労働者階級の前衛党であるべきものとみなすかぎりにおいてでてくるものでしかないのである。筆者は、自己の観念世界にあらかじめ加工してとりこんだ中国共産党を威勢よく投げ飛ばしているのである。
          二〇一四年三月二十四日