「コロナ後の社会」なるタワゴト

  「革マル派」の神官どもは、2021年の「解放」新年号から「コロナ後の社会」についてなにやら語り始めた。曰く、
「だが、マルクス唯物史観を背骨とするわれわれにとって、いわゆる『ポスト・コロナ』が何であるかは自明である。末期性を露わにしている腐朽せる現代資本主義をその根底から覆し、それをつうじて開かれる『つぎの今』とは、真実の社会主義共産主義の創造以外にありえないのだ」と。
 これはかつてのスターリニストの史的唯物論における「五段階発展説」と同断のシロモノだと言わねばならない。社会法則の実体である人間をそこから閉め出した上で、社会は原始共産体→古代奴隷制社会→封建社会→資本制社会→共産主義社会と自動的に発展する、とみなすものである。確かに、資本制社会は歴史的に発展してきた疎外された人間社会の最終発展段階であり変革されるべき社会であるのは間違いないが、そのことにふまえて現存ブルジョア国家を打倒する戦略・組織戦術・戦術を解明するとともに、われわれのこの指針にのっとってわれわれが実践する・われわれのこの実践そのものを解明するのが、革命実践論としての革命理論であるはずだ(もちろん革命実践論の固有の領域にふまえながらである)。自らの革命実践ぬきに「ポスト・コロナ」の「真実の共産主義社会主義」を語るのはいうまでもなく客観主義にほかならない(「どん底の闇が割れて…」なる言辞を想起せよ)。彼らには革命実践論的にアプローチしなければならない、という問題意識さえもが欠落しているのだ。
 さらにいうならば、問題はさらにその先にある。社会主義共産主義の実現はプロレタリア世界革命の完遂が前提であるはずである。神官どもは新型コロナウィルス感染症が収束したら全世界の労働者が立ち上がってプロレタリア世界革命が一気に完遂することを妄想しているのであろうか? あるいは過渡期社会(労働者国家のそれ)とプロレタリア世界革命完遂後の――過渡期社会の止揚にもとづく――社会主義社会を二重写しにしているのであろうか? 前者であるならばそれは文字通り錯乱であるというほかない。後者ならば、国家=革命論ならびに社会主義社会論が完全にパーであると言わなければならない。
 下部党員の苦闘はおろか現代世界からも完全に浮き上がった「革マル派」神官どもに、プロレタリア階級の「前衛党」を名乗る資格がはたしてあるのだろうか? 神官どもをいまだに指導部の座に居座らせている下部党員諸君、よく考えてほしい。
       (2021年1月21日    風間優作)