梯子をはずされた同志加治川

 探究派公式ブログに掲載した(八月一四日)「同志加治川は一からやり直さなければならない」という論文を読んだ読者より手紙がおくられてきた。そこでは次のように述べられていた。

 「加治川論文の追記を読みましたか。追記には『社会の弁証法』の英訳版が引用され、それによれば、加治川さんは黒田さんに梯子を外されています。しかし、加治川さんはそのことを自覚できないようです」と。


 加治川論文を読んだ当初には私は気づかなかったが、あらためて読み返してみたところ、その追記には次のように書かれていた。「初版Dialectics of Society(英語版『社会の弁証法』)一三一頁 §43の7行目~9行目「天然資源」の規定のところ。All those that labor merely separates from immediate connection with the land are called natural resources. この下線部分は現在完了形(has merely separated)にすべきであろう。」(加治川論文 二五九頁)


 たしかにこれは、読者の言うとおりである。引用されている英訳版『社会の弁証法』(DSと記す)の叙述を和訳すればこうなる。「労働が大地との直接の関連から、たんにきりはなすにすぎないすべてのものは、天然資源とよばれる」と。つまり、労働が主語にされ、その労働が大地との直接の関連からたんにきりはなす(merely separates)、と英訳されているわけである。これにたいして、同志加治川は、「現在完了形has merely separatedにすべきであろう」、と訴えている。しかし、黒田がおこなった英訳は、現在形だから、時制でいえば今切り離す、ということであり、主体の意志をあらわしている、ともいえる。だから、この英訳は、むしろ『資本論』の和訳にちかい。『資本論』の和訳は「労働によって大地との直接的関連からひき離されるにすぎぬ一切の物は、天然に存在する労働対象である。」という訳文なのだからである。労働を主語にすれば、〝労働がひき離すにすぎない〟となるのだからである。これに反して、同志加治川は、「has separated 」、つまり、〝労働によってきりはなされた〟という現在完了形に訳してくれ、と言っているのである。彼は、過去の黒田さんの表記にしがみついているだけなのである。


 黒田さんはDSを英訳するさいに、「た」を「る」に変えて英訳した、ともいえる。なぜなら、一般に、われわれが天然資源と規定するのは、いまだ大地からひき離されていない、採取労働過程になげこまれるところの資源をさしているのであるからだ。あるいは、マルクスが「天然に存在する労働対象」と言っているその趣旨をくむならば、いままさに人間が・労働手段として駆使する物質的なものをもってそれに働きかけるところの、だからいままさに人間のこの労働によって大地との直接的関連から引き離されようとしているところの、天然の物質的なものをさす、といえる。ようするに、マルクスは「労働によって大地との直接的関連からひき離されるにすぎぬ一切ものは、天然に存在する労働対象である」と言っており、英語圏のひとびとに理解をうながすためには、マルクス的に表現するのがふさわしい、と黒田さんは考えたからであろう、と思う。そして、この『資本論』のマルクス的な規定が、もっとも論理的に正確である、と私は思う。つまり、天然に存在する諸物は、それが労働によって大地との直接の関連からひき離されるところの、この労働過程に投げこまれることによって、それらは労働対象となる、と論じているのだからである。このような論脈で、マルクスは「となる」の論理を駆使しているわけなのだからである。同志加治川の言うところの、意識場において主観によって客観を概念的に規定すれば労働対象となる、というような観念論的な解釈ではなく、現実場において諸物が他の諸物と物質的諸関係をとりむすぶことによってそれ独自の規定性をうけとる、という存在論的な論理が駆使されているわけなのだからである。これにならって、黒田さんもまた英訳のさいにその論述を整序した、ということだろう。

 だから、同志加治川がなすべきなのは、己がただただ『社会観の探求』の表記を絶対化し、しかもその表記をおこなった黒田さんの主旨とも無関係に、いやむしろ、ねじまげるような観念的な解釈をしていたのだ、と自己を否定的にみかえすことである。
        (二〇二〇年九月一九日 桑名 正雄)