ミラノでの国際会議・2日目の討論における革共同(探究派)代表の発言

 すでに報じてきた通り、7月15日と16日の2日間にわたって国際会議「帝国主義的世界秩序の危機とプロレタリアートの対応」が開催された。会合の2日目は、初日になされた各団体の報告および事前に寄稿された論文について、出席者それぞれが意見表明する場となった。以下に掲載するのは、この2日目の討論においてわが探究派代表がおこなった発言の日本語訳である。原文は、本ブログにて後日掲載する。

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同志諸君、

 昨日〔会議初日=7月15日〕の皆さんの発言を聞いて、我々のほぼ全てには共通の基盤があるという印象を受けました。すなわち、われわれのほとんど全てが、ロシアのウクライナ侵攻を東西間の帝国主義戦争として批判しています。そして我々は、プロレタリアートの国際的団結のみがこの戦争を終わらせ、この団結のみが我々の未来を社会主義に向かって切り拓くことができるのだと信じています。もちろん、左翼の間の様々な分裂を揚棄するには、このような小さな抽象的統一だけでは不十分です。また、今ここで新しいインターナショナルを創設することが問題なのでもありません。重要なのは、相互協力の基盤を持つことです。私たちは、国際的な結合をこれから発展させていく方向が何なのかについて考えるべきです。
 このような見地から、以下、二つのテーマについて私の見解を述べることにします。

 第一に、私たちマルクス主義者が「民族問題」にどう対処すべきか、の問題です。何人かの同志諸君は、マルクス主義者は民族自決権を擁護し続けるべきだと主張し、レーニンが書いた1914年の論文〔「民族自決権について」、『全集』第20巻所収〕に言及しました。これとは対照的にロッタ・コムニスタの同志たちは、民族運動は国際主義に従属すべきであること、現代帝国主義の時代にあって民族主義が何らかの進歩的役割を果たすことはありえないことを指摘しました。私は、原則として、後者の主張に同意します。民族自決権というテーゼを教条化する者は、あるエスニック集団が他のエスニック集団と混在して暮らす地域に火を放つことになります。私たちはユーゴスラビア紛争においてこのことを学んだはずです。ウクライナにおいて「民族問題」が深刻に受け止められるべきものであるとすれば、それは西側あるいは東側の帝国主義的利害に起因するのです。
 ところで、私は今「エスニック」という形容詞を使いました。エスニック集団とはさしあたり、言語、生活様式、宗教などの共通性に基づく共同体として定義されます。世界中には無数のエスニック集団が存在しますが、すべてのエスニック集団が「国民」(ネイション)と同一なのではありません。ナショナリティの問題を論じるためには、エスニック集団の概念とネイションの概念を、マルクス主義の観点から正しく理解する必要があります。
 この点で、私はマルクスエンゲルスの初期の著作『ドイツ・イデオロギー』を参照したいと思います。皆さんがよくご存知の通り、ブルジョアジーの特殊な利害と、プロレタリアートの特殊な利害とは、決して両立しません。そして二つの階級それぞれの特殊な利害が対立するところでは、共同体は成立しないのです。階級間の対立にもかかわらず、ブルジョアジープロレタリアートイデオロギー的に支配するためには、虚偽の共同性を作り出す必要があります。この虚偽の共同性こそ、資本家も労働者も同じ「国民」としての利害を持っているという幻想です。マルクスエンゲルスは、「国家とは共同性の幻想的な形態である」と書いています。では、ブルジョアジーは、その幻想的な共同性の材料として何を使うのでしょうか?それこそまさに、言語、生活様式、宗教の伝統なのです。要約すれば、エスニックな共通性を持つ集団が直接「国民」になるわけではありません。その反対です。ブルジョアジーは、幻想的なナショナリティを作り出すための基礎として、エスニックな共通性を必要とするのです。
 私は、エスニック集団の違いが直接政治的対立につながるのではないと思います。そうではなく、あるブルジョアジーと別のブルジョアジーとの間の政治的対立が、あるエスニック集団と他のエスニック集団との関係を「民族問題」にしてしまうのです。この意味でも、「民族自決権」を依然として擁護するのは、あまりにナイーヴです。

 第二に、スターリン主義国家が「堕落した労働者国家」であったか否か、の問題について。もちろん、多くの同志諸君が今日のロシアと中国とを帝国主義国家として把握していることを、私は高く評価しています。しかしそれだけでなく、スターリン主義を根本的に克服し、社会主義経済を建設するためには、スターリン主義の概念を正確に定義することが極めて重要です。この点で私は、トロツキーの「堕落した労働者国家」という定式を問題視しています。
 「堕落した労働者国家」という概念は、ソ連邦が生産の基幹部門を国有化したこと、そして生産手段の所有権が集団的なものであることを、前提としています。この見方では、スターリン主義官僚は、国有化された生産から利益を得る特権的な行政機構だ、ということになります。昨日私が話をした同志たちの中には、ソ連邦において生産手段は依然として労働者階級の集団的所有物であり続けたし、したがってソ連邦は、スターリン主義官僚の特権にもかかわらず、労働者国家であり続けた、そのように主張する人もいました。このように主張する同志たちは、論理的には、ソ連邦の国有財産を擁護することが我々マルクス主義者の最も重要な任務であると主張することになります。
 しかしそのような見方は、私の見るところ、きわめて馬鹿げています。生産手段が国有化されたという事実は決して、プロレタリアートが実際に生産手段を所有した、ということを意味しないからです。「堕落した労働者国家」というテーゼは、ソ連において生産手段が名目上「集団所有」であったことをそのまま現実の所有関係の表現だとみなす、素朴な見解に基づいています。
 決定的な問題は、誰が実際に生産手段を手にしていたか、という点です。ソ連邦プロレタリアートは生産手段を持っていませんでした。それは、すべての企業に存在すべきソヴィエト=労働者評議会が、スターリニストによって形骸化されるか、あるいは破壊されたからです。ある国家が労働者国家であるか否かは、生産手段が国有化されたか否かで決定することはできません。むしろ重要なのは、労働者評議会へと結集した労働者階級が、自ら生産を計画し、生産計画を実施できることです。なぜなら、マルクスエンゲルスが指摘したように、労働者階級の解放は労働者階級自身によって達成されるのだからです。

 私が昨日の演説で労働者評議会の重要性を強調したのは、以上のような理由によるのです。われわれの革命的イニシアティヴによって、プロレタリアートが既存のブルジョア国家内部において労働者評議会を形成し、生産手段を事実上掌握することができるならば、これは二重権力状態を創出し、プロレタリア革命への道を切り拓くことになります。実際的な見地からしても、労働者評議会の形成は決して将来の目標ではありません。今日、帝国主義諸国家においては、あらゆる労働組合労働貴族と修正主義者たちによって支配されています。職場における彼らの支配を打破するために、われわれマルクス主義者は、戦闘的労働者を既存の労働組合の内部で組織するだけでなく、今ここで、労働者評議会を創造するための基礎を建設するよう、努力しなければなりません。この理由からして、われわれマルクス主義者は、プロパガンダをするだけでなく、自らの職場で活動しなければならないのです。

(2023年7月16日 春木良)