斎藤幸平「疎外論」批判 第3回 若きマルクスの実践的立場の確立

 三 改竄


 斎藤幸平によるマルクス疎外論」の解釈を追ってきた。だがそれは、若きマルクスが近代資本主義の労働者の現実と対決し、思考し、学問的苦闘の上に掴み取ったものとはほど遠いものである。若きマルクスの思索・学問的苦闘を追いながら、斎藤がいかにマルクスを改竄しようとしているのかを暴露し批判していかなければならない。

 

  1 若きマルクスの実践的立場の確立

 

 1843年マルクスは『ユダヤ人問題に寄せて』と『ヘーゲル法哲学批判序説』という二つの論文を「独仏年史」に発表している。
 ドイツでは、イギリスやフランスのようにブルジョア革命が成し遂げられなかった。プロイセン王国という絶対王政のもとでの資本主義化がおしすすめられたのである。ただドイツでは頭のなかだけでの革命が行われたのだ。その思想的表現がドイツ古典哲学であり、その集大成ともいえるヘーゲル哲学である。このようにマルクスは捉えたのであった。
 ヘーゲル『法の哲学』序文の「理性的なものが現実的であり、現実的なものは理性的である」というヘーゲルのテーゼは、プロイセン君主制を理論的に基礎づけ、擁護するものでしかなかった。マルクスは、ヘーゲル哲学を土台としつつも、当時のドイツ社会の現実と対決し思惟していた。だからフォイエルバッハ唯物論からするヘーゲル哲学批判に共感をもち、依拠したのであった。『ユダヤ人問題によせて』においては、フォイエルバッハ唯物論的宗教批判に依拠しつつ、ユダヤ人の政治的解放の問題から人間の人間的解放を思考し、「あらゆる解放は、人間の世界を、諸関係を、人間そのものへ復帰させることである。」と論じたのである。
 さらに、マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』において、ドイツ革命の主体としてプロレタリアートをみいだすのである。
 「どこにドイツ革命の積極的な可能性があるのか? 

 答え。それはラディカルな鎖に繋がれた一階級の形成にある。市民社会のいかなる階級でもないような市民社会の一階級、あらゆる身分の解消であるような一身分、その普遍的な苦悩ゆえに普遍的な生活を持ち、なにか特別な不正ではなく不正そのものを蒙っているがゆえにいかなる特別の権利をも要求しない一領域、もはや歴史的な権原ではなく、ただなお人間的な権原だけを拠点にすることができる一領域、ドイツの国家制度の諸帰結に一面的に対立するのではなく、その諸前提に全面的に対立する一領域、そして結局のところ、社会のすべての領域を解放することなしには、自分を解放することができない一領域、一言でいえば、人間の完全な喪失であり、それゆえにただ人間の完全な再獲得によってのみ自分自身を獲得することのできる一領域、このような一階級、一身分、一領域の形成のうちにあるのだ。社会のこうした解消が一つの特殊な身分としているもの、それがプロレタリアートなのである。」

 この時点において、マルクスはその哲学的方法はヘーゲルを土台としつつ、また唯物論的立場としては、フォイエルバッハに依拠しつつも、はっきりと、ドイツの解放が、そして「社会のすべての領域の解放」がプロレタリアートによって成し遂げられると確信している。と同時に「人間の完全な喪失であり、それゆえにただ人間の再獲得によってのみ自分を獲得することができる」と述べているとおり、それは人間の人間としての解放として位置付けられているのである。
 マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』を「ドイツ人の解放は、人間の解放である。この解放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである。哲学はプロレタリアート揚棄なしには自己を実現できず、プロレタリアートは哲学の実現なしには自己を揚棄しえない」と高らかに宣言し締めくくる。哲学論議に明け暮れるヘーゲル左派から決別し、目の前のプロレタリアートの現実と対峙し、革命の主体がプロレタリアートであり、その解放が、人間の人間としての解放であると捉えた、マルクスの、いや人類の巨大な一歩である。そしてそれは、プロレタリアートが、哲学をおのれのなかに内在化し、自覚することによって、人間としての解放が実現されるということ、哲学からとらえ返せば、プロレタリアートを主体して、哲学が実現されるということに他ならない。
 まだ、マルクスヘーゲル哲学の方法を土台とし、フォイエルバッハに依拠しているとはいえ、マルクスの「哲学ならざる哲学」、「現実の学としての哲学」の創造の出発点に立ったのである。それを可能ならしめたものは、マルクスプロレタリアートのドイツ社会における現実の姿と対峙し、人間の人間としての解放を現実的に思考したことに他ならない。このマルクスの実践的立場こそが、若きマルクスをして巨大な一歩を踏み出させたのだ、と私はうけとめている。

 

 では、斎藤はこの若きマルクスを、『ヘーゲル法哲学批判序説』におけるマルクスをどのように捉えるのであろうか。斎藤は次のように述べる。
 「『ヘーゲル法哲学批判序説』において、マルクスは近代の「国家」と「市民社会」の二項対立を批判したが、この分裂した現実を克服し、私的な個人が市民社会を超えて、公共圏へと参加することのできるようなあり方を「民主主義」の「理念」として現実的に対置した。
そのうえでこの理念に倣って、民主主義運動にコミットするように人々に訴えかけたのだった。」と。
 なんという卑劣な政治主義であろうか。
 斎藤は、プロレタリアートを「私的な個人」と言い換え、プロレタリアートの「人間の完全な喪失であり、それゆえただ人間の完全なる再獲得によってのみ自分自身を獲得することができる」ということ、すなわちプロレタリアートの人間の人間としての解放を「公共圏への参加」などと捻じ曲げる。ドイツ解放を、しかもプロレタリアートによる根源的な人間の解放としてのドイツの解放を、「民主主義運動」などと、今日のブルジョア民主主義におもねり、それに受け入れられるものとして、創造されつつあるマルクスのイデーをも破壊してしまうのである。
 まさに、マルクスの破壊・捏造と言わなければならない。斎藤には学問的良心の一かけらも感じることはできない。そこにあるのは卑劣な政治主義でしかない。
       (2021年1月26日   潮音 学)