<理論以前>学

             あんなに頑張り、闘ったのに…

 会社側による不当な解雇に抗して解雇撤回要求闘争を闘いぬいた青年労働者A君。
 解雇は、二度にわたった。最初は、労働組合に結集する従業員を狙い撃ちにした「整理解雇」を名目とする解雇、二度目は最初の解雇が不当とされた場合でも組合員たちをあくまでも社内から一掃することを真の目的とした「廃業」を名目とする解雇。労働法用語を使えば「究極の不当労働行為」である。
 労働組合に結集する労働者たちは、労組指導部の指導のもとで、裁判所への解雇無効の提訴、労働委員会への不当労働行為救済申し立てを軸とする闘いを数年間にわたって闘ったのであったが、最終的には高等裁判所において、当初の「整理解雇」は有効、したがって「廃業」を名目とする解雇は、当否の検討の必要なし、という反動判決を下され、闘いは終焉のやむなきにいたった。当該の労働者たちの奮闘にもかかわらず闘いに勝利しえなかったのは、本質的には今日の労働運動の衰退のゆえであり、このことの突破こそが、闘った者すべてにつきつけられたのであった。まさに、そのために、教訓を導き出すことが問われたし、今も問われている。

                                           <「大岡越前」はいたか!>

 裁判での勝利を信じていたA君は、地方裁判所で「整理解雇は無効だが、廃業解雇は有効」という半分〝勝利〟の判決をえたときには、「裁判所は大岡越前=正義の味方だと思っていたのに…」と呟いた。それでも彼は、組合・支部指導部の方針のもとで控訴審を闘い、高等裁判所の再三の和解勧告を拒否し、裁判官に「解雇不当」を徹底的に主張し、「判決をだしてください!」と訴えた。その結果が、上記の判決であった。そしてそれを覆す見通しはなくなった。今度は「地方裁判所の裁判官はダメでも、高裁にいけばもっとよい裁判官が出てくるのでは、と思っていた」と彼は述懐した。「結局は、裁判官も自己保身という自分の都合で動くのか…」と考えたという。
 これは、既成労組指導部の労使協調路線にもとづく裁判依存主義がもたらした悲劇以外のなにものでもない。
 ところが、当該労組の中に実存した既成の組合幹部に抗する自称革命的左翼の活動家たちを指導するある者は、組合幹部が裁判所や「第三者機関」と称されるものに依存して闘いをすすめることを批判すべきではない、という驚くべき指導を活動家たちに行い、裁判に「勝つ」ための諸活動を担わせ、それによって彼らを「強化」出来ると考えていたのである。みずからが裁判依存主義に転落していたのである。彼が既成幹部と異なる所以は、幹部たちが裁判の帰趨に危惧を感じて「和解」を意図するのにたいして、「正当性をガンガン主張して断固として職場復帰の判決をとる」ことを、勇ましく・強硬に主張したという点であった。さしづめ〝闘う裁判依存主義〟とでもいうべきであろうか。その顛末が高裁での完敗であり、上に示したA君の述懐である。

            <こんなこともあるんだぁ…>

 何という「革命的左翼」であろうか。この「革命的左翼」の実態を象徴的に示したのが、電話で高裁判決の一報を受け取ったときに、当時のこの組織の最高指導部の一員であり、名高い理論家であった某の「こんなこともあるんだぁ…」という茫然自失の言である。何という階級的警戒心の欠如!なんという平和ボケ!昨今の労働裁判の実態からかけ離れているだけではなく、裁判所がブルジョア国家権力の一機関であり、ブルジョア階級の階級的利害を貫徹する一機構であることすら忘れ去っていた己に何の否定感もない妄言であった。史的唯物論に精通し、国家論も得意という理論家でありながら、〝「第三者機関依存主義」を批判すべきではない〟と主張した党幹部のある者に追随して「解雇無効の判決をとることで職場復帰をかちとる」闘いの指導に齷齪した結果、当たり前のことすら忘れていたのである!ゆがんだ実践に身をやつし続けた結果、思想的にも「もぬけの殻」と化していたのが、彼である。彼は「こんなことも…」と呟いた時には、まだ〝素直〟であった。だが、その後はそう感じた己を正視することなく、指導部としての自己保身に、つまり沈黙による乗り切りとゴマカシに走ったのであった。
 そもそも、今日の労働運動の否定的現実に条件付けられて、われわれ自身もまた積極的に裁判闘争にとりくまざるをえない場合が多いことは確かである。裁判闘争に取り組むこと自体が誤りではない。だが、既成労組指導部の裁判依存主義的傾向をたえず警戒しその克服を促すような思想闘争を丁寧に繰り広げることぬきに裁判闘争にとりくむかぎり、裁判闘争に勝利しようとして頑張れば頑張るほどに、その担い手たちは裁判所に幻想をいだき、裁判の帰趨に希望を託す傾きは常にもたらされるのである。自称「革命的左翼」の理論家と称されるもの自身が、上のような茫然自失の言辞を吐くまでにいたったことは、この問題の深刻さを雄弁に物語っているではないか。
 このような「革命的左翼」が、腐敗した現指導部に指導された革マル派が――その腐敗を根本的に反省しないかぎり――「労働者階級の前衛」を名乗る資格がないことはすでに明らかである。
 ところが、問題はそこにとどまらない。その自称「革命的左翼」の、この闘いの指導に現れた腐敗を弾劾し、反スターリン主義運動の再興をはかって新たな闘いを開始したはずの仲間達のなかから、驚くべき問題が生み出されたのである。

              <痛みがない !?>

 「大岡越前」に期待していた青年労働者Aと親しく交流し、彼に大きな影響を与えてきたB、革マル派現指導部の腐敗に抗して反スターリン主義運動の再興を決意したはずの彼に対して、かの闘争における仲間達の思想闘争の限界を直観していたCが、問題を提起した。「Bは、A君が裁判依存主義に陥り、『大岡越前待望』に陥っていたことを、指導的にかかわってきた者として反省し、自己批判的総括を提起すべきではないか。」「B自身が、『革命的左翼』指導部の裁判闘争主義への陥没についての否定的自覚が足りなかったのではないか。その結果が、A君の『大岡越前待望』ではなかったのか」と指摘した。図星であり、経緯を細かく聞き、諸文書を入念に検討した結果の、実に丁寧な批判であった。Bとともに当該の闘争における指導部の指導を批判してきた他の者はCの意見を受けとめ、愕然としつつも、われわれ自身がその点について不明確だったこと反省し飛躍を期したのであったが、当のBは猛然と反発し、「そんなことができる状況ではなかったのだ!」「Cは浮き上がっている!」などと主張するに至った。
 これは、二重・三重の意味で、単に「意見の相違」を示すといえることではない。奥深い問題、理論以前の問題がそこに潜んでいる。
 少なくとも、己が永いあいだ交流し、ともに学習を繰り返し、多大な影響を与えてきたA君が、上のように裁判制度や裁判官に多大な幻想を抱いていたのである。そのことが判明した以上、反スターリン主義者としての自負と矜持があれば、己の他在としてのA君のこの姿に、現存支配秩序への否定的自覚の欠如した彼のこの主体的現実に、己の関わりそのものの否定性を直観し、心に痛みを感じるはずではないのか。また問題をこと新たにそれとして突きつけられた時には、痛みすら感じなかった過去の己に背筋の凍るような思いをいだかないのか。われわれは、遅ればせながら、驚愕した。これは単に理論的な問題であるわけではない。
 Bが、A君がそのような思想状況に陥っていることに、反スターリン主義者として何の痛みも感じなかったし、感じなかったことについて今も否定感がないとすれば、それは理論以前のモラルの問題である。根深く染みついた政治主義のゆえに、主体的なモラル感覚そのものが麻痺していると断じざるをえない。
 (そういえば、つまり今にして思えば、分析上の問題であれ、組織化上の問題であれ、彼が己の過誤を主体的に振り返ったことはなかった。常に、対象についての己の解釈を変更して辻褄をあわせるようなことしか、彼はしてこなかった。己の諸発言について、また己にたいしてなされた他の仲間からの批判などをもすっかり忘れていることさえあった。これはプラグマティックな実践に身をやつしてきた結果としてのプロレタリア的なモラルそのものの欠損を意味する事態であると、われわれはいま考える。)
 しかも、この己の態度を問われるや否や、「そんなこと(裁判依存主義の批判)が出来る状態ではなかったんだ!」などと開き直り、あまつさえあの手この手で批判を跳ね返そうとする政治主義的態度。その後にも「思想闘争」を装った権力闘争まがいの術策――あるいは「七変化」――と、われわれはもう嫌というほど付き合ってきた。ものごとには限度というものがある。また「仏の顔も……」という。しかし、

         <問題は あなた! そう、そこの君だよ!>

 上のような主体とは何ぞや。そこを問わないで何が始まるというのか。「思想闘争」などといっても単なる機能論に堕してしまう。いつまでたってもわからないとは、どういうことか!
 他者のことを「理論主義」だ、「政治主義」だなどと批判する暇があったら、己の人間音痴ぶり・思想音痴ぶり・組織音痴ぶり・お人好しぶり、思想的人間的鈍磨ぶりを振り返った方がよいのではないか。昨年秋から最近に至る真摯な思想闘争の結果、Bの暗部は場所的に暴かれたといえる。われわれが、過去においてそのような思想闘争を実現しえなかったことは痛苦ではあるが、われわれ自身、この間の思想闘争の中で学び成長したのである。そして、その前進にとって不可欠であった諸情報、思想闘争の結果として明るみに出た諸事実・諸教訓についても、そこの「君」には充分に提起し対決を促してきた。君のマルクス主義者としての知性を信頼してのことである。しかしそれは「馬の耳に念仏」だったというわけか。おのれの「主体性」がいかに貧しく、いかに非プロレタア的であるかを、いまこそ君は考えるべきではないのか。自己超克の努力を積み重ねている者と、そうではなくただ自己正当化のためにハッタリや政治技術を弄ぶ者との分別もつかないとは、思想的鈍磨とは恐ろしいものである。
 「思考エコノミー」こそ最大の怠け。わからないこと・都合の悪いことにはフタをして、自己主張のみ繰り返す。およそ自己超克の努力を、その苦闘を積み重ねてきたとは到底思えない、自己肯定的ふんぞりかえり。よくお考えいただきたい。下向分析ぬきに「構造」も「レベル」も成立しないのだよ。存在論主義・機能論的やり方論・結果解釈主義――これまでにもしばしば指摘されてきた己の弱点が、その歪みが今全面開花していることに気づくべきではないか。犯罪的行為をさらに積み重ねてから気づいて悔いても、それは遅いのだ。
 志を棒に振るなかれ。欠けているのは、「不満分子」にとどまっていた過去の己を如何にのりこえるのか、ではないか。それぬきに「闘う」ことが出来ると考えるのは、ただの機能論ではないのか。自己に否定的に迫り来るものに屈せず〝対決〟することそれ自体に〝主体性〟を見いだすのは、錯誤であり、プロレタリア的主体性とは無縁である。
 自己超克の努力――それが欠如していることこそが問題であることを、つい先頃、仲間からつきだされ教えられたばかりではなかったか!そのようなことまで忘れるほど、君は思想的に鈍磨しているのだ。一言で言えば、それこそが、政治主義者に容易く足を掬われていることの主体的根拠ではないのか。
 共産主義者としての生死に関わる根源的な問題を素通りすることなかれ。――顔を洗って出直せ!
                        (二〇二〇年八月四日 磐城健)