——『新世紀』322号・早瀬論文批判(上)―― 第3回 ユーゴ反戦闘争の理論的教訓を再主体化しよう(「民族自決」原理をのりこえるため))

三、ユーゴ反戦闘争の理論的教訓を再主体化しよう

 

 旧版『社会観の探究』ではもともとスターリンの民族理論が素朴に紹介されていただけだったのに比して、黒田は明らかに90年代以降のユーゴスラヴィア内戦をめぐる理論闘争の総括を意識して、「エスニシティ」論を付け加えた。当時、欧米のトロツキスト諸派は〈被抑圧民族の自決権無条件支持〉を金科玉条として掲げ、そのことによって理論的にも実践的にも大混乱に陥っていた。かれらは、旧ユーゴ連邦の維持を目指したセルビア共和国政府を抑圧者=悪とみなし、セルビア側による「浄化」の対象となったアルバニア人ボスニアムスリム人、クロアチア人ら「被抑圧者」との無条件的な連帯を掲げたことによって、結局はアメリカ・西欧諸国による旧ユーゴへの「人道的介入」=帝国主義侵略戦争を支持するに至った。今日の「革マル派」がこれとまさしく同じ道を辿っているのは言うまでもない。
 だが現実には、クロアチア共和国の領土内に居住するセルビア人集団はクロアチア側による凄惨な「浄化」の対象であったし、あるいはアルバニア人セルビア人とを両親にもつような人が、いずれの「民族」にも帰属しない「ユーゴ人」と名乗るような事例はざらにある。そのようにして血縁も言語も生活習慣も複雑に絡み合っている「ユーゴスラヴィア」を敢えて引き裂き、連邦内各共和国における自らの地方的支配を維持すること、これこそが新生ブルジョア共和国の支配階級となった旧スターリニスト官僚らの利害関心であった。彼らは、錯綜する諸エスニシティの関係性を分断して単純化することによって、諸エスニック集団間の差異を「民族」間の非和解的な対立にまでエスカレートさせた。「民族」を所与のものとして超歴史化し、どのグループが抑圧者または被抑圧者か、と眺めまわしている限り、この〈エスノ・ナショナリズムの相互衝突〉を突破する主体的な力を創造することは不可能である。『社会の弁証法』において黒田が新たに「エスニシティ」についての叙述を付加したのは、こういう問題意識があったはずだ。
 まさしくショービニズムの基礎づけとも言うべき早瀬論文は、黒田の本のみならず、ユーゴ反戦闘争をめぐる反スターリン主義諸理論の成果をも踏みにじるものだ。かつて〈被抑圧民族の自決権無条件支持〉を叫んでいたトロツキスト諸派に対するイデオロギー闘争を牽引していた酒田誠一は、今の「革マル派」の堕落に何を思うのか。1994年時点での彼の次のような論理展開にも学びつつ、われわれはウクライナ反戦闘争の理論的武器をさらに鍛え上げるのでなければならない。

「近代ブルジョア国家とともに形成されたネイションとこのネイションに統合されたりされなかったりしたいくつかのエスニック・グループ、②さらに帝国主義段階におけるネイション・ステイツとエスニック・グループスの形態変化、③ロシア革命を指導したボルシェヴィキが階級の根絶とネイション・ステイトの止揚をめざし、かつ、エスニック・グループスの諸問題をも「分離ののちの結合」という原則にのっとって解決しようとしたこと、④それにもかかわらずそのことがスターリン主義的に歪められ、エスニック・グループスが反中央政府の意識をもって残存したこと、⑤このゆえにソ連邦崩壊後の今日、ネイションとエスニック・グループの問題が新たなかたちで浮かびあがっていること。——これらのいっさいの理論問題を追求しないだけではなく問題の所在さえ自覚できないがゆえに、全世界のトロツキストたちは、「民族自決権」をバカのひとつ覚えのようにくりかえすことしかできないのだ。近代国家の形成も帝国主義からの植民地の独立もエスノ・ナショナリズムの噴出も、すべて同列にあつかうがゆえに、彼らは、特定のエスニック集団が自己のエスニシティを自己主張するショービニズムに無自覚のまま、その尻おしにあけくれることになるのだ、といえる。」(『どこへゆく、世界よ!——ソ連滅亡以降の思想状況』あかね図書販売 2003年、201頁)
     (以上で(上)は終わり。(下)につづく)
       (2022年12月25日   浜中 大樹)