——『新世紀』322号・早瀬論文批判(上)――第2回 黒田『社会の弁証法』の再検討(「民族自決」原理をのりこえるために

二、黒田『社会の弁証法』の再検討

 

 せっかく早瀬自身が参照を指示してくれているのだから、黒田『社会の弁証法』を紐解いてみよう。該当箇所たる114節では、国家の本質論的な把握を踏まえて「国家意志」の歴史的諸形態が論じられ、前近代の絶対主義国家から近代ブルジョア国家、そして過渡期の労働者国家についての比較的長い注記が付け加えられている。この本文・注記は以前のヴァージョンである『社会観の探究』(初版1956年)から基本的に変更されていないが、早瀬が言及している——卑怯にも、文を引用はしていない——のは、1994年新版において新しく書き下ろされた「**」部分である。そこで黒田は次のように述べている。

「民族とは、近代ブルジョア国家の形成と同時的に成立したところの、この国家の領土に住まう人びと(支配階級および被支配階級として規定されるいぜんの近代的市民のこと)が受け取る歴史的規定です。この近代ブルジョア国家のもとに包括された一つまたは多くの民族は、この国家の「国民」という規定を受けとります。/近代国家の成立いぜんに存在していたエスニシティ、すなわち、それぞれの地理的・気候的な諸条件に決定された一定の地域において、特定の人種・言葉・文化・宗教(自然宗教をふくむ)・生活様式を共有するところの集団としてのエスニック・グループ、——そのいくつかがブルジョア的に統合されることによって創造された歴史的産物が、民族(ネイション)なのです。/いいかえれば、基本的には、特定の地域において、それぞれ同一の人種・言葉・伝承文化・生活慣習にもとづいてつくりだされた種族または部族をば、または近代的ネイション・ステイトの内部に存在する少数民族をば、ブルジョア的近代以降に成立したネイション・ステイト(民族国家または国民国家)の観点から規定しなおした概念、これがエスニシティまたはエスニック集団であるといえるでしょう。」(『社会の弁証法』こぶし書房 1994年、284頁)

 このように黒田は引用の前半部において、「民族」(nation)が近代ブルジョア国家の成員=「国民」たるの歴史的規定と不可分な概念であることを踏まえた上で、後半部では、言語や生活習慣を共有する諸グループそれぞれの文化的固有性が直接的にブルジョア国家の構成原理=ナショナリティへと直接的に転じるのではないこと、これを示すためにこそ「エスニシティ」(ethnicity)の概念を導入した。着目するべきは、ここで黒田がエスニシティを「ネイション・ステイト(民族国家または国民国家)の観点から規定しなおした概念」として強調した点である。つまりエスニシティとはあくまで、ブルジョアジーが自らの特殊利害を普遍的利害であるかのように仮構するにあたって用いる「ナショナリティ」(国民性、民族性)に対して、それと鋭く対立する概念として把握されているのだ。これに対して早瀬は、『社会の弁証法』の叙述のうち前半部、「[…]エスニック・グループ、——そのいくつかがブルジョア的に統合されることによって創造された歴史的産物が、民族(ネイション)」だという部分のみを利用して、後半部の「ブルジョア的近代以降に成立したネイション・ステイト(民族国家または国民国家)の観点から規定しなおした概念、これがエスニシティまたはエスニック集団である」という把握を完全に切り捨てている(注5)。

(注5) 「エスニシティ」をめぐる黒田の叙述を前半部と後半部との統一において理解するべきことについては、『探究派公式ブログ』掲載の松代秀樹論文「エスニシティ概念の超歴史化的解釈」(2022年12月7日付)を参照のこと。

 早瀬のそうした恣意的な解釈は、ロシア人によるウクライナ人に対する一貫した抑圧の関係を描き出したいという彼の願望と無縁ではないだろう。たしかに、黒海北岸の荒野で16世紀頃に成立したコサック共同体としての「ウクライナ」は女帝エカチェリーナ二世によって解体され(1775年)、ロシア帝国に併呑されたという経緯がある。草原地域の遊牧騎馬集団らしく、自由と平等をモットーとし、共同体の全成員による「ラーダ」が共同体の指導者たる「ヘーチマン」を選出するというのが、この解体された「ヘーチマンシチナ」(国家)であった(注6)。ロシアのピョートル大帝に叛旗を翻しながらも敗北し失意の内に没した指導者イヴァン・マゼーパ(1639-1709年)は、様々な伝承・文学作品の素材となっている。帝政ロシアに対するウクライナのこうした過去の対立は、「エスニシティ」次元の事柄に属するものだと理解してもさしあたりは構わない。

(注6) 1917年のロシア二月革命を受けて左右のウクライナ民族主義者が合同で結成した「中央ラーダ」の名には、ヘーチマン国家におけるラーダを継承すること、そして「ソヴィエト」に対抗すること、この二つの意図が込められている。

 しかしながら問題は、近代以後のウクライナ民族主義者らが、解体されたヘーチマン国家としてのウクライナを自らの精神的故郷に仕立て上げていることである。「ウクライナ人民共和国」が採択した国歌——現在のウクライナもそれを受け継いでいる——には、「我らはコサックの一族」との一節があるし、また上述のイヴァン・マゼーパの名は、昨今ウクライナ軍がトルコから調達した軍艦の名称として利用されている。ウクライナを、帝政ロシアないしはソ連邦から独立した近代国家として建設するブルジョアジーは、近代以前のヘーチマン国家としての「ウクライナ」から特定の物語(イストワール)を引き出すことによって、超階級的な〈民族〉という幻想的な共同性を構成したのだと言うことができる。エスニシティなるものが歴史的に先行してそこからネイションが自然と形成されるのではない。その逆であって、ネイションの形成と成立の時点からナショナリティの素材となったものが何であるのかを捉え返した時に、エスニシティの特定の要素がそこで選別されていたことがわかるのだ。だから、ネイションを構築する側にとっては都合の悪いエスニックな諸要素が歴史=物語から排除されるのも当然のことである。早瀬を含めて、ウクライナ民族主義を唱える者が、中世後期まではロシアとウクライナベラルーシの人々が同じキエフ大公国支配下で区別なく同居していたことについて語りたがらないのは、上のような理由による。
       (2022年12月25日   浜中 大樹)