「われわれはE2、E2uを解明しなければならない」と考える発想を変革しなければならない

 われわれは、「われわれはE2、E2uを解明しなければならない」と考える発想を変革しなければならない。ここにいう、E2とは、わが党が党としてうちだす党の闘争=組織戦術の記号的表現であり、E2uとは、わが党員が組合員として提起する組合の運動=組織方針をさす。

 「われわれはE2、E2uを解明しなければならない」と考えるのは、あらかじめE2なるものとE2uなるものとを設定し、これをわれわれは解明しなければならない、と考えるものであり、この発想につらぬかれている思考法は解釈主義である。あるいは、解明された結果としてのその内容をなすE2とE2uとを想定して、想定したところのものを場所的現在にたぐりよせ、その結果となるものを解明するのだ、と考えるものであり、これは結果解釈主義である、といわなければならない。
 われわれはわれわれの実践の指針を解明しなければならない、というように、われわれは発想し考えなければならない。われわれはわれわれ自身の頭をつくるために、記号を使わないで、われわれの実践論を適用して考える、という訓練をしなければならない。
 このようにして考えようとしたときに、「われわれ組合員は、」というように考え書くのはおかしい。
 われわれがおのれ自身をわれわれと考えるのは、あくまでもわが党であり、わが党の一員であるわが党員である。党員であるこの私が職場の組合運動の場では組合員として存在しているという、組合運動の場におけるおのれの存在規定から、「われわれ組合員は、」というように頭をまわしていくのは、党員であるおのれが、職場というおのれのおいてある場に、おのれの意識においてのりうつり疎外をとげているものである。われわれ=わが党は、その一員であるこの私が職場の組合運動の場で実践するための指針を構想する、と考えるのではなく、「われわれ組合員は、」と考えるのは、自己の意識を二重化しているつもりで、自分を、組合運動の場面の自分に埋没させているものである。
 この問題をほりさげていくためには、次のような展開を検討する必要がある。
 「方針提起主体たるわが同盟員が・自己のおかれた場からの逆規定によってみずからの規定性を転換し自己の活動形態を転換することにもとづいて方針提起の形式を具体的に決定」する。(『組織創造論』こぶし書房、大道正也「方針提起の構造」一八五頁)
 この「方針提起の構造」は、きわめてすぐれた論文であり、方針提起論では今日までに執筆されたなかで最高の水準のものである。筆者の大道正也とは、葉室真郷のことである。彼は、自分が書いた「解放」第八八〇号の論文が実践の存在論にとどまっていると反省し、それを克服するかたちでこれを展開したのである。そのようなものなのであるが、部分的に限界のある論述がある。
 引用した文章は、ゴチャゴチャした展開になっている。
 ここでは、「自己のおかれた場からの逆規定によってみずからの規定性を転換し」という展開がおかしい、という問題をとりあげる。
 「場からの逆規定」とは、われわれがそのおいてある場からの客体的限定をうけとる、すなわち、われわれがそのおいてある場から規定される、ということである。これに反して、「みずからの規定性を転換する」とは、われわれが意識的におこなうわれわれの主体的な意識的行為である。この両者は「によって」ではつながらない。すなわち、「逆規定によってみずからの規定性を転換する」というようには言えない。このように言えば客観主義になってしまう。この誤りを克服するためには、「われわれは、われわれが自己のおいてある場から逆規定されている、ということを自覚する」、ということが明確にされなければならない。
 上の展開では、われわれはわれわれのおいてある場に規定されて・われわれの規定性が転換する、ということと、われわれがわれわれのその規定性の一つを自覚的に選びとる、ということとが、いっしょくたに論じられているのである。
 われわれは次のように考えなければならない。
 当面する闘争課題をめぐって、われわれ=わが党はわが党の闘争=組織戦術をうちだすのであるが、組合運動の場面においては、われわれ党員は組合員として組合のとるべき運動=組織方針をうちださなければならない。
 われわれ党員はわれわれのおいてある場たる組合運動の場に規定されて・われわれの規定性が転換する。すなわち、党員たるわれわれは、組合運動の場に規定されて、組合員としての党員、および、党員としての組合員という、二つの規定性をうけとる。われわれはわれわれがうけとった二つの規定性のうちの後者、すなわち、党員としての組合員という規定性を選びとり、われわれは組合員として組合のとるべき運動=組織方針をうちださなければならない。——このように、われわれは考える必要があるのではないだろうか。
       (2021年12月1日      松代秀樹)