〔寄稿〕青恥・赤恥・頬かむり  第2回  「弘法にも筆の誤り」は「青恥」

1. 「弘法にも筆の誤り」は「青恥」  百聞は一見に如かず 〇読の陥井

 

 北井さんも椿原さんも「KK のただの記憶違い」としています。そうなのでしょうか。それでは KK がなぜ間違えたのか、の秘密に迫れないのではないでしょうか。逆に言えばわれわれがなぜ KK の間違いに気がつけないままに来てしまったのか、ということに。
 披露するようなものではないが私のつたなき経験を語りましょう。
 すでに述べたように KK の著作に「メタモルフォーゼ」が持ち込まれたのは1975年の『変革の哲学』。以来1998年の『Praxilogy』で克服されるまでに『覺圓式アントロポロギー』 など4冊の著作に登場してもそのまま通ってきました。
 これ KK の本でしか「メタモルフォーゼ」との語を見たことのない方なら何の違和感も持たなくてもある意味では仕方が無いのかも知れません。だってすべて「新陳代謝」の意味で使われていてその世界の中ではいささかのブレもないのですから。恐ろしいことだがこの用法が間違いだとは KK ワールドの「井の中」からは自覚されえません。
 でも読者の中には KK ワールドの「外」での「メタモルフォーゼ」を知らない人ばかりではありません。「文学部党派」と揶揄される私達ですが、まさに文学部なら語学に堪能な方も多いはずです。経済学部に在籍したことのある方が W-G-W のMetamorphose (商品の姿態変換)を御存じないなんて洒落になりません。Metamorphose (変態)も metabolism(新陳代謝) も知っているのが当然なのが医薬理工系の方。卒業された方はもちろん、いくら「中退」を「自慢」にしている方でも。アレっと不思議に思われた方は少なくないはずなのです。
 私も不審に思って「持っとるだけ」のドイツ語の辞書を引っ張り出して確かめたり、DK 原文を確かめるだけなら肉体派的にでもできるだろうと蛮勇をふるって図書館に行ったりしました。それぐらいは自分でせんと罰が当たる、と。しかし、それだけでは「KK の間違いだ」とはなかなか断定できませんでした。
 なぜか。だってこの私あたりがこの程度調べて分かるようなことを KK がお間違えになるわけがない。これはきっと、私には思いつかないだけで、KK には何か深いお考えがあってこうしているのだろう。うかうか疑義などを唱えたら「ありがたい真意がわからんのか!」と「馬脚」を暴かれるのが関の山かも知れない、と。
 その私が断定した瞬間については次節で述べます。
 ともかく、そのリアルタイムにおいては私は辞書を繙いては首をひねっていたのでした。ところが後日、語学力の欠如を恥じてこんな私でも多少は言語学者の本を繙いていたら、とんでもないことに気づきました。田中克彦氏ならこう言いかねない、と。
 「あなた辞書を引いたの? あのね、東アジアではムツカシイ言葉は漢語を借りてきているので、その東亜の同文諸国間では読み方は違っても漢字で筆談が通じるでしょう。同様に欧州諸語では抽象的な言葉はギリシャ語から借りてきているので、ラテン文字に換字した綴りはどこでも似たようなもの。発音は色々でも綴りで見れば表意文字みたいな機能を果たす。え、Metamorphose ? Meta は『変』だはな、morphose は…『態』でしょ。これは漢字で『変態』と書いてあるようなもの。見て綴りのごとく。一目瞭然でしょうが。」と。大きなお世話だ! もう!
 で、この話には「盲点」があることはもうお気づきでしょうか。
 そう「一目瞭然」と嘯く博学な先生にせよ、愚直に辞書を引くしかない私にせよ、それは「メタモルフォーゼ」の語を目でも見ている者の話なのだ、ということ。
 「メタモルフォーゼ」も「メタボリズム」も耳で聞いているだけの方にとっては、綴りなんか関係ない。よく似た音の語が混同されるのも仕方がない。「百聞は一見に如かず」というが「耳読」の落とし穴とご苦労に想像力を働かせることもなく、健常者の私たちが視覚障碍者の方にただぶら下がっているだけでは罰が当たると知るべきである。耳読ゆえの陥井を推し量りおぎなうことは「目明きの仕事」ではなかろうか。
 弘法様でも、京都の應天門の扁額を書き損じたという。もっともすぐに気づいて筆を投げ上げて点を補ったところが偉いところだが。それなら「青恥」の笑い話ですみます。
 それにしてもKK が自分で辞書を引けないのは仕方がないとしても、優秀なお側用人が侍していることだし、奥様だって常時おられるのだから不安なら「他人の目」を借りて辞書や文献などで確かめてもらうことは可能なはずではなかろうか。それをしなかったということは、その必要性を感じていなかった、ということなのでしょうね。
 こういう自信というのは頭の良い人、育ちの良い人の特権なのでしょうか。私などは自分でも自分の一知半解、思い込みの激しい身の程を知っているので、高校の漢文の時間に教わったように「習わざるを伝えしか」と日に三省とは言わずとも、文を書く時くらいは心がけないと怖くて仕方がないのですが。うらやましい限りというか。でも今こんな騒ぎになるのではどちらがいいのかは、さてどうなのでしょうね。
 生身のKK をよく知る人はこう言っています。
 「黒田の執筆活動を補佐する人たちや編集者がまったくの無知無能か、忠告助言が聞き入れないことを知って諦めきっているか、または不思議な絶対権威化の結果である。」と。(高知聰『孤独な探究者の歩み』 2001/2 現代思潮新社 p.492)
 私にはよくわからないところです。
 つぎに「青恥」が「青恥」で済まずに「赤恥」になってしまう問題について。
       (2021年1月22日  唯圓)