〝労働力の「価値」貫徹論〟とは何か――菊池薫「賃金論のために」(『スターリン主義の超克 5』所収)を学んで

 スターリニストの「賃金論」と対決をすることを通して、マルクスが明らかにした賃金論の理論を、すなわち「労働力の価値または価格の労賃への転化」(マルクス)の本質的論理を主体化することが私の課題である。そのために、スターリニストの「賃金論」(〝労働力の「価値」貫徹論〟)の基本構造をまずはとらえなくてはならない。 

 

  〝労働力の「価値」貫徹論〟とは何か

 ソ連邦科学院経済学研究所が著した『経済学教科書』(合同出版・改訂増補第4版、第6章「賃金」 以下、『教科書』と略す)では、次のように展開されている。
 「労働力の価格としての賃金は、他の商品の価格とちがっている。資本主義社会の他のあらゆる商品の価格は、需要と供給の影響をうけて価値を中心に上下するが、一方、労働力という商品の価格は、その価値以下にずれる傾向をもっている。資本主義のもとでは、労働力の供給は通常は、その需要を上まわる。プロレタリアは、かれがもっている唯一の商品――労働力――の販売をさきにのばして、労働市場の条件が好転するのをまっているわけにはいかない。資本家は、それにつけこんで、労働力の価値よりも低い賃金を労働者に支払う。」(「資本主義のもとでの実質賃金の低下傾向」一八四~一八五頁)
「労働力の価値からの賃金のずれには、限界がある。……資本家は、利潤をふやそうとして、賃金を肉体的な最低限以下にひきさげようとたえずつとめる。ところが一方、労働者は、賃下げに反対し、賃上げ、最低賃金制の確立、社会保障の実施、労働日の短縮のためにたたかう。この闘争では資本家階級全体とブルジョア国家が労働者階級に対立する。それぞれの具体的な時期における賃金水準は、労働力の価値を一定とすれば、プロレタリアートブルジョアジーの階級的な力関係によってきまる。」(「労働者階級の賃上げ闘争」一九〇~一九一頁)

 労働力の価値についてのスターリニストのつかみ方を図式的にしめすと、次のようになるであろう。

 

 

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 「労働力の『価値』を横線でしめし、この横線より下の方に現実に支払われている賃金を観念的に位置づける。つまり、①現実には賃金はつねにかならず労働力の価値以下に支払われている、②だから価値以下に支払われている賃金を階級闘争(賃闘)によって、上=労働力の「価値」におしあげてゆく、つまり労働力の価値どおりに支払わせるために賃闘をたたかう、とするのである。」 (菊池薫「賃金論のために」『スターリン主義の超克 5』所収、一一三~一一四頁。――以下、「賃金論のために」とする。)

 このようなスターリニストの「賃金論」=価値貫徹論なるものをひとことで言うならば、〝階級闘争をつうじて、「価値」どおりの賃金を支払わせる〟、という代物にほかならない。
 「価値法則に支配されているものが、その担い手となっている賃労働者(自己の労働力を商品として販売せざるをえなくなっている賃労働者)が、おのれを支配しているものとしての価値法則を廃棄するのだ、というようには、スターリンおよびスターリニストはその客観主義・唯物主義のゆえに問題をたてられない」(「賃金論のために」一二〇頁)、ということなのだ。現実に支払われている賃金は常に労働力の「価値」以下におさえられているから、階級闘争によって労働力の価値どおりに賃金を支払わせなければならない、というように価値貫徹論者は主張する。それは、彼らスターリニストは労働力の「価値」なるものを一定不変の固定的なものとしてとらえている、ということを意味する。

 

  スターリニストが、労働力の「価値」を一定不変の固定的なものである、ととらえるのはなぜか?

 

 先の『教科書』において、スターリニストが〝労働力の「価値」〟についてどのように論じているのかをみていこうと思う。第4章「資本と剰余価値、資本主義の基本的経済法則」のなかの「商品としての労働力。労働力という商品の価値と使用価値」(一一八~一二一頁)という節では次のように書かれている。
 「……すなわち、商品としての労働力の価値は、労働者とその家族をやしなうのに必要な生活手段の価値に等しい。『労働力の価値は、他のどの商品の価値ともおなじように、この特殊な商品の生産に必要な労働時間、したがってまた、それを再生産するのに必要な労働時間によって規定される』(マルクス資本論』)
 社会の歴史的発展がすすむにつれて、労働者のふつうの欲望水準も、またこれらの欲望をみたす手段も変化する。国がちがえば、労働者のふつうの欲望水準もおなじではない。
 その国がたどってきた歴史の道と賃金労働者階級がたどってきた条件の特殊性によって、この労働者階級の欲望の性格がだいたいきまる。気候その他の自然条件もまた、衣食住にたいする労働者の欲望にある程度の影響をおよぼす。人間の肉体力の回復に必要な消費物資の価値だけでなく、労働者が生活し教育をうける社会的条件からうまれる、労働者とその家族の一定の文化的な欲望をみたす(子供の教育、新聞や雑誌の購読、映画や演劇の鑑賞など)ための支出も、労働〔原文どおり〕の価値にふくまれる。
 資本家は、いつでもまたどこでも、労働者階級の物質的生活条件と文化的生活条件を最低の水準にひきさげようとつとめるが、労働者は、企業家たちのこういうたくらみに抵抗して、自分の生活水準をたかめるために頑強にたたかう。」

 さて、以上のスターリニストの主張は、マルクスの労働力の価値の規定(『資本論』第一巻第二編、第三節「労働力の購買と販売」)についてのスターリニスト流の理解内容をしめすものである。原典にたち帰りながら、彼らの頭のめぐらし方を再現してみよう。
 まずはじめに、彼らスターリニストは、「労働者のふつうの欲望水準」は「社会の歴史的発展がすすむにつれて」変化するし、「国がちがえば」「同じではない」、そして、「労働者階級の欲望の性格は」「その国がたどってきた歴史の道と賃金労働者階級が形成されてきた条件の特殊性によって」「だいたいきまる」——— というようにとらえている。
 彼らは、マルクスの当該部分の叙述――すなわち「…… 他方、いわゆる必然的欲望の範囲は、その充足の仕方と同じように、それじしん一つの歴史的産物であり、したがってまた大部分は一国の文化段階に依存する」、「だから、労働力の価値規定は、他の商品のばあいとは反対に、歴史的および精神的な要素を含んでいる。だが、一定の国にとっては、一定の時代には、必要生活手段の平均範囲が与えられている」(『資本論河出書房新社版 第一分冊一四五頁・下段)——— を、歴史的に具体的な現実そのものに実在化してとらえているのではないか、と私は思う。マルクスは、「労働力の価値規定は……歴史的および精神的要素を含んでいる」、「だが、一定の国にとっては、一定の時代には、必要生活手段の平均範囲が与えられている」、と述べているが、この「……必要生活手段の平均範囲」を具体的・個別的な「物質的」・「文化的」諸「条件」そのものである、とスターリニストはとらえているのではないか、と思う。なぜならば、彼らは右のマルクスの表現を「国がちがえば」とか「その国がたどってきた歴史の道……」、というようにわざわざ言い換えているからである。彼らは、マルクスのいう「必要生活手段の平均範囲」を「労働者のふつうの欲望水準」と言い換え、あるいは「与えられている」というマルクスの表現を「だいたいきまる」と言い換えている。つまり、マルクスの叙述を、現実の歴史の発展過程に倒して解釈しているように私には思えるのだ。
 マルクスの「一定の国にとっては、一定の時代には……」という表現は、「本質論的抽象にかんするマルクス的な表現」(『労働運動の前進のために』一五二頁)なのである、というようにとらえかえさなくてはならない。このマルクスの表現は、「……全商業世界を一国とみなし……」(前掲『資本論』第一巻、第二二章「剰余価値の資本への転化」、第一節、注2a 四五九頁)という表現や、「価値=価格」という把握などと同様に、理論的レベル(本質論)を確定するためのマルクス的表現なのである。
 「ところで、そのさいに、『ある歴史的および〔社会的=〕道徳的要素』というように限定されているのは、資本制商品経済をうみだした社会の伝統的文化や生活様式や慣習などによって労働力商品の価値の水準(大きさ)は一義的には決定されない、ということが念頭におかれていることをしめしている以外の何ものでもない。それゆえに『ある』という限定が付されているのである。」(『労働運動の前進のために』一五二頁)

 ここでは、マルクスは、労働力の価値は〝可変的である〟とか〝一定不変である〟とかとは、ひとことも言ってはいないのである。
 ところで第二の問題は、スターリニストが価値量に引きよせて労働力の価値の本質規定を理解してしまう、ということである。
スターリニストは、「すなわち、商品としての労働力の価値は、労働者とその家族をやしなうのに必要な生活手段の価値に等しい」と述べている。このスターリニストの展開は一見正しいかのように思えるが、しかしマルクスは「価値に等しい」という表現は使わず、「価値である」とか「帰着する」とか「規定される」という表現を使っている。ところが、彼らスターリニストは、あえて「等しい」と表現することによって、〝本当はどの位の生活諸手段が必要なのか〟というように解釈するのだ。このことは、彼らが〝搾取されている〟という事実に引きよせて、「資本家は、いつでもまたどこでも労働者階級の物質的生活条件を最低の水準に引き下げようとつとめる」、と結論づけたいがため――つまり、現実に支払われる賃金は労働力の価値以下である、ということを言いたいがため――ではないか、と私は思う。そのために、あるべき〝労働力の「価値」〟にその量的大いさを入れて説明=解釈するのではないだろうか。「価値」どおり支払われないから労働者は家族をやしなえない、というように。いいかえるならば、彼らは、価値量に引きよせるかたちで、労働力の「価値」を解釈しているのだ。
 実際スターリニストは、「交換される商品が等しいということの基礎となっているのは、それらの商品を生産するのに支出された社会的労働である。……価値は、商品に体現された、商品生産者の社会的労働である」(『教科書』「商品とその性質、商品に体現された労働の二重性」八〇~八一頁)と述べている。スターリニストは、商品の価値とは何か、ということを説明するとき、この「支出された社会的労働」に引きよせて解釈しているように思える。しかも同時に、「価値」はどのようにしてつくられるのか、というように頭をめぐらせるのではないだろうか? 「支出された労働」なるもの、これはどのように・またどれだけの社会的労働が支出されたのかというように、あたかも生きた労働を論じているかのように彼らは理解しているのだ。マルクスは、『資本論』(前掲・第一巻、第六編、第一七章「労働力の価値または価格の労賃への転形」四二三頁・下段)で、「だが、商品の価値とは何か? 商品の生産に支出される社会的労働の対象的形態である」と述べている。この「支出される社会的労働」は、生きた労働ではない。あくまでも商品体に対象化された死んだ労働なのだ。この商品体に対象化された死んだ労働が価値という規定性を――価値=交換関係を媒介として――うけとるのだ。スターリニストは、論理的には、「対象化」とか「対象的形態」の理解もアイマイなのである。
 ところでわれわれは、「労働力の価値の本質規定と労働力の価値量についての規定とを分化し、労働力の価値量を可変的なものとしてとらえ」(「賃金論のために」一一四頁)、両者を構造的に理解する。われわれは、「労働力の価値は労働力を再生産(および生産=繁殖)するために必要とされる生活手段の価値によって媒介的にしめされる」(同前、一一六頁)、と理解する。そして、このような理解の根底には、マルクスの『資本論』(第一巻、第一編、第一章)で展開されている<価値形態の論理>があるのだ。すなわち、――A商品はB商品をみずからに等置する。こうすることにより、A商品の価値はB商品の使用価値においてあらわされる。すなわち、B商品の使用価値は、A商品の価値の鏡(価値鏡)となる。これが<価値形態の論理>である。労働力商品の価値の本質規定を論じる場合にも<価値形態の論理>を適用しなければならない。すなわち、労働力商品は、商品としての生活諸手段をみずからに等置する。こうすることにより、労働力商品の価値は、商品としての生活諸手段の使用価値において表現され、後者が前者としての意義をもつ。このように、価値形態の質的関係の把握が商品としての労働力にも妥当するのだからである。(『賃金論入門』一六頁参照) 

 さて、以上のように考えると、「労働力の価値の大いさは、労働力の価値の本質規定とは直接関係ない」(「賃金論のために」一一六頁)というように理論展開されているのは、価値形態の質的関係を問題にしているときに量の問題は入ってこない、ということではないかと思う。

 

 イ)労働力の価値の本質規定と、ロ)その価値量、との構造的把握について

 

 では、われわれは、労働力の価値の本質規定と、その価値量とを、どのように構造的にとらえたらよいのであろうか。
 「労働力商品の場合には、その価値は本質的には商品としての労働力の再生産(および生産=繁殖)に必要とされる生活諸手段の価値によって媒介的に規定される。しかし、労働力の再生産(および生産)のために必要な生産諸手段の質と量は、それがおこなわれる一定の歴史的・社会的・文化的な諸条件によって異なるのであるからして、労働力の価値の大きさは具体的には歴史的・社会的・文化的に可変的であり多様多種である。」(『唯物史観と変革の論理』二五八頁)
 「賃金論のために」では、一一五頁で右の引用を載せて展開しているのであるが、ここで重要だと思うことは、イ)労働力の価値の本質規定と、ロ)労働力の価値量についての規定とを分化し、労働力の価値量を可変的なものとしてとらえている、ということだと思う。また、労働力の価値を「一定の歴史的・社会的・文化的な諸条件によって異なるのであるから」というように、「限定のもとに」論じていることが重要である、と思う。労働力の価値を一定不変的なものとして捉えるスターリニストとは、明確に異なるところである。
 さらに、右の引用個所では、労働力の価値は、「本質的には商品としての労働力の再生産(および生産=繁殖)に必要とされる生活諸手段の価値によって媒介的に規定される」、と展開されている。ここが、またまた重要な箇所である。「媒介的に規定される」、ということは、直接的には表現できない、ということである。では、どのように「媒介的に」規定されうるのか? 
 労働力の価値の価値量が、労働力そのものに対象化されている労働量によって直接的に決まるのではない、「媒介的に規定される」ということは、「労働市場におけるもろもろの労働力商品のたえざる交換をつうじて、つまり事後的にきまる」(『賃金論入門』九一頁)ということである。
 すなわち、商品=労働市場におけるたえざる交換をつうじて事後的に決定される労働力商品の価値の大いさを、宇野弘蔵の「規定するもの〔価値〕が規定される」(『「資本論」入門』八二頁)という論理を適用して、労働力商品価値の現象形態であるところの賃金の変動に逆規定されて、賃金の本質としての労働力商品の価値も変化する、としてとらえなければならない、ということではないだろうか。
 「一般商品の価格の晴雨計的変動や階級闘争をつうじて、あるいは景気循環ないし産業循環をつうじて、賃金は変動する(p1…→p2…→pn)。賃金が変動することによって、賃金という現象形態をとっている労働力の価値あるいは賃金の本質としての労働力商品の価値(W)も、自己同一を保ちながらも変化するのである。」(『賃金論入門』九二頁)
             (二〇二〇年八月六日 山里花子)