「規定性の転換に伴う、E2uへの具体化」という展開について

「規定性の転換に伴う、E2uへの具体化」という展開について

 「規定性の転換に伴う、E2uへの具体化」という展開は、かつて楡闘争を闘っていたAとの論議で対立したことをめぐってAを批判した私の文章(2016.10.05)の中の展開である。「E2uを執行部の方針にするために闘う」ことにいてAと私は意見が一致した。「E2uを執行部の方針にできなかった場合」においては、Aは「(組合場面では)執行部方針に従い、裏でオルグする」、と言っていたことを批判した私の文章の中の展開である。私は、このAの発言を、労働組合運動論を適用して批判することを試みたのである。つまり、E2uと無関係な組合員としての規定性でのわれわれの活動とは何なのか? E2uにのっとってわれわれは組合活動を展開するのではないか? われわれは労働組合運動を、組合組織を主体に左翼的に推進し、組合組織そのものの戦闘的強化を目指すのであるが、その実践を規定する理論は、われわれが解明した党としての闘争=組織戦術(E2)を組合という場に規定されて、組合員としての規定性において具体化した闘争=組織方針(E2u)であるのではないかと、私はAに対置したのである。


1 「カテゴリーの実体化」
 しかし、指導的同志はこの私の文章を読んで、「『規定性』という概念が実体化されるきらいがある」と批判してきた。さらに「E2uという方針およびこれをめぐるイデオロギー闘争の解明と、われわれがこの方針にのっとってくりひろげる諸活動の解明とをアマルガムにするような展開になっている」、とも批判してくれた。
 今日、私も読み返して、そうだな、と思う。後者の「E2uという方針およびこれをめぐるイデオロギー闘争の解明」とこの「方針にのっとってくりひろげる諸活動の解明」が「アマルガム」になっているということについては、ここでは省略する。
「規定性の転換に伴う、E2uへの具体化」という、この展開には、主体=実体がない。「規定性を転換」しE2を「E2uへと具体化」するところの主体がいないのである。「規定性の転換」ということがE2の「E2uへの具体化」をひきおこさせる、と文章化しているのである。きわめて客体的で没主体的な頭の回し方が対象化されている、と痛感する。


2 実践の事物化
 今日、主体的に頭を回して考えなおしてみると、さらに私は次のことも問題であることに気が付いた。
 われわれが労働組合運動を展開するその活動の場、すなわち自らが属する組合の「主客の場」に踏まえ、自らの規定性を労働組合員たるものへと転換する、という主体的な行為(実践)を客体的に捉え、事物化している。そして客体化してとらえた「規定性の転換」に付随したもう一つの事象であるかのように、「E2のE2uへの具体化」も事物化してとらえている。
 「カテゴリーの実体化」という私の誤謬は、当時の私の問題意識―Aは「E2uにのっとって組合活動をする」ことから逸脱している、このゆえにこれを批判しなくては、という問題意識からすると「実践を事物化」しているというほうがより近いように思う。なぜなら、私の主眼は「具体化されたE2u」をAに強調しようとして、「規定性を転換する」ことおよび「E2をE2uへ具体化する」ことについて、〝どのように〟を欠落させているのだからである。われわれが規定性を主体的に転換すること (=活動形態を転換すること)、 これにもとづいて運動=組織方針の提起の形式が決定され、この形式によって提起する内容も具体的に緻密化する、ということを事象化してとらえ、前者が後者を伴っている、前者に付随して顕われる後者のごときに考えている。その象徴的表現が「伴う」である。


3 当時のAへの批判に立ちかえり、さらに私の限界を深める。
 私は、Aの「執行部方針に従い、裏でオルグする」というものに貫かれている考え方をもっと下向的に深めてゆかなければならない。彼は、「規定性を転換する」「E2uへ具体化する」ことをどのように主体的におこなっていたのか、と。
 この場合、組織として一定の課題について党としてのE2(闘争=組織戦術)を解明し、当該組合の場に規定されて組合員へと自らの規定性を転換し、この場にふさわしいものとしてこのE2をE2u(組合の闘争=組織方針)へと具体化する、ということを前提としている。私の問題意識は、さらにもっと突っ込んだ自らの組織実践に即したレベルのことなのである。「E2uへの具体化」 というそれ自身おかしな表現であるが、当時のAへの批判であらわした当時の私の問題意識に即して考えると、今日的には自らが組合運動場面において提起するE2uの内容をさらにいかに工夫して緻密化するのか、という領域だと思う。
 Aが組合員あるいは組合役員として活動した、このAの実践そのものを「いつ、どこで、どのような場」でいかなる判断に基づいて「執行部方針に従った」のか、それは「組合運動一般の場面なのか」「執行部活動の場面という特殊性」でのことなのか? 民同系組合員と戦闘的組合員との力関係の分析はどのようなものであったのか? さらには「裏でオルグする」というときは、自らの規定性と活動形態はいかなるものであったのか、それとも全く考えていないのか、と。この時のAの問題意識、判断を分析しなければAが 「(組合場面では)執行部方針に従い、裏でオルグする」と定式化した考えをひっくり返すことはできないのである。
 この闘争=組織方針(E2u)にのっとってわれわれは一組合員として、分会役員として、あるいは組合役員として、組合運動場面でイデオロギー闘争と職場活動を展開する。より具体的には、日常的な職場において、分会ミーティングなどにおいて、分会役員会議において、組合役員会議などにおいて、組合執行部の主催する様々な会議、学習・講演会やレクレーションなどにおいて、さらには、会社当局への追及行動などにおいて、民同系・革同系・労働貴族系組合員と戦闘的組合員との力関係の分析に踏まえ、さまざまな活動とイデオロギー闘争をおこなうのである。
 これらのことを日々主体的に考え、職場活動とイデオロギー闘争を豊富化し緻密化してゆかねばならないのだと思う。このように私自身が頭が回らない、私の主体的根拠を指導的同志につきだされたのだと思う。
 また、私は、今回省略した「戦術およびこれをめぐるイデオロギー闘争にかかわる問題と運動=組織づくりの実体構造にかかわる問題とのアプローチの違いという問題」について、さらに反省を深めてゆこうと思う。
                                                                           (二〇二〇年七月二九日 山田吾郎)